2024年8月23日、帝国ホテルで行われた第171回芥川賞贈呈式のスピーチの内容を、一部編集して掲載します。
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十四歳の時、母に勧められた『罪と罰』を読み、私は私の『罪と罰』を書こうと思い、小説を書きはじめました。三蔵と言うこのペンネームも母の父、私の祖父の名前です。
母のことは、これまでいろんなところで書きました。
私はいつか、自分の『罪と罰」を書こう思いますが、『カラマーゾフの兄弟』はどうしても書けそうにありません。今日は父の話をします。
芥川賞のことを最初に口にしたのは父です。小説家を夢見ていた十代の私は、父から「芥川賞とっても食っていけないんだぞ!」と諭されました。
呆気にとられました。私は小説家を志していても、まさか芥川賞などとは夢にも思わなかったのです。夢みがちな私と違い、父は徹底したリアリストです。その父が、何を思って芥川賞などと口にしたのか。それはわかりません。
それから二十五年以上経って、私は芥川賞の候補になりました。
七月十五日、芥川賞の選考会の二日前。私は候補の報告も兼ねて、ひとりで暮らす父を訪ねました。久しぶりに外で食事をということになり、私は父の好きなお鮨をご馳走させて欲しいと言いました。
すると父は「スシローに行こう」と言うのです。私も寿司はスシローと決めていますが、今回ばかりは、回らない鮨でもいいのでは?と説得しました。しかし結局、スシローよりも少しいいお値段の回転寿司に行きました。
何でも好きなものをと私は言ったのですが、父はセットメニューから「これで」と一番安いセットを指すのです。
選考会の日、結果は18時か19時、当日すぐに電話をするから待っていて欲しいと頼みましたが、夕方は散歩や夕食の支度で忙しいのでメールにしてくれと父に断られました。
そして当日、私は芥川賞に選出され、すぐに父に電話をしました。が、やはり電話には出ず、私はメールで父に受賞を伝えました。返信は「良かったな」それだけです。
その後、会見をして、翌日から取材対応や挨拶まわり。移動中の車内や空港のロビーで依頼されたエッセイを書き、やっと関西に戻ったのは週が明けてからでした。
まず私は母の墓前に報告に行きました。それから、もう既に夕方でしたが、私は父にメールで「今から報告に行くから」と送りました。
父から返信がありました。
「まずは体を休めなさい」
偉大な父は、やはり今日もここには来ておりません。たぶんリビングで将棋でもさしているのだと思います。もちろん父もこの賞の大きさはわかっています。そして誰よりも受賞を喜んでくれています。
しかしおそらく父は私に、賞よりももっと大きな何かを伝えたいのだと思います。
私のペンネームの「K」は家族で一番多かったファーストネームのイニシャルです。父のファーストネームのイニシャルも、もちろんKです。今後、私は、このKの正式名を訊かれることがあれば、父の名前を名乗るつもりです。
松永K三蔵