015 ルシア・ベルリンを読んだ。

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ちょっと、タイトルイラストは少女漫画みたいになったが、勘弁してくれ。

私は「描く」方じゃないから。それに、女の人は難しいんだ。

それでも、本の表紙の写真を参考にしながら描いたイラストのルーが、写真よりもワルそうで悪戯っぽく嗤っているのは、それはそのまま「私の」ルーだからだ。

先々月、『掃除婦の–−』の文庫本も出て、そして今回新しい本『すべての月、すべての年』が出た。乗るしかない、このビッグウェーブに。というわけじゃないが、私もルシア・ベルリンに衝撃を受けたので、改めてご紹介。

「群像 2021年6月号」で私も名前だけルシアと”共演〟(フェスならば楽屋ですれ違ったようなものだろうか)して、その‶アクト〟を聴いて、うーっと唸ならされて単行本も買った。それから読んでまたうぅーっと唸り、文庫本も買った。文庫本は付箋と傍線だらけ。装丁の美しい単行本は大切に置いておこう。内表紙のブルーグレーが美しい。

私は今、また改めて読みながら単行本に貼った大量の付箋を移植して、文庫本に傍線を引きまくっている。これはひとつの古典になると私は思う。少なくとも私の中ではすでに重要な意味を持つ古典なのだ。

ルシア・B・ベルリン。読者としてもこの作家の作品群に魅了されたが、書く側目線で見ても、とにかくこの人は、めちゃくちゃ巧い。日常に材を採りながら私小説風に書いているから、一見そこまで技巧的には感じないけれど、文章のリズムとテンポ、要所要所で指し込まれデティールの濃度、の後に展開される筆運びの軽妙さ、ユーモアとウィット。その濃淡の絶妙なバランスと間合いが読んでいて心地良く、からだの中に響いてくる。と、もちろんこれは訳者の岸本佐知子さんのお仕事に拠るところ大なのだろうけれど。

『いいと悪い』『さあ土曜日だ』『ソー・ロング』、、、。タイトル作以外も最高だ。また、作中人物もたまらない魅力がある。ドーソン先生、ママ、ベラ・リン、マックス、ジョン叔父、そしてCD。思い出しても私は泣く。

どれを読んでもこの作家だとわかるってのは、――これはとても重要なことだけれど、ルシア・ベルリンほどその匂いが強い人もなかなか稀じゃないだろうか。

掴まえようとしても、するりと抜けて、ルーは既に二歩、三歩、道の先からこっちを見て嗤っている。どこか乾いた余韻を残したまま。

メキシコ。Hola、ナチョスにライム、エル・フィニート、リカルド・ロペスそんなことを勝手に連想し、うっかりしていると、鋭い一撃。パンッと抜けるようなラスト一文、キレのいい‶左ストレート〟をアゴに貰って腰を落とされる心地良さ。これはもうバランス感覚というか、センス、呼吸なのだろうけれど、ちょっと私にはそれが――全く生意気だけれど、悔しいと思うほど、良かった。困るほど良かった。

特に、タイトル作『掃除婦のための手引書』、鳥肌がたつほどのラストの一文。やっぱりこれの原文が知りたい。英語ではなんて書いてあるのだろう。そんなことも気になって、ドイツ語再履修だった私も英語ならばギリギリなんとか…‥。そう思って、今、私の机には原書もある。

困るくらい良いというのは、どういうことかと言うと、それは稀に起るのだが、ヘコむくらいに良いものだ。

偉大な文学作品、それは遠く、遥か見上げるような高峰のようなもので、その威容は風景の如く、心安らかに素直な感嘆を持って眺めていられる。谷崎大壁、三島峰、中上峠に、ドスト渓谷、ジイド高原、魔の山"マン〟――。けれど、たまーに、テーマにしても手法にしても、嗚呼、俺もこういう小説が書きたいなー、なんて溜息がでるほど強く思わされるものがある。自分が進もうとしている文学の野辺に、不意に先人の跡を発見した時は、悦びよりも寧ろ激しい動揺を感じる。お前ごときが何をと哂われるかもしれないが、当のルシアだって、埋もれていたというじゃないか。あるよねそういうの。うん、あるある。

ルシアの小説を読んでいると、少し私はワルくなる。私は真面目で、慎ましく、(たまにそれを全否定する友人もいるが)少なくとも多くの知人にはそう認識されているはずだ。が、そんな私も、いや俺も、実はやっぱり悪党で、ロクデナシのクソ野郎なのだが、でも俺はそれでもいいんじゃないかなって、ルシアの小説を読むと何故かそう思える。

作品の語り手(主人公)は、おそらくそのほとんどがルシア自身なのだろうけど、彼女は悪態をつき、アル中で、(これは別にOKだけど)何度も結婚離婚を繰り返し、ひとの家のモノをくすね……そんなルシアはなかなか"ビッチ"だけれども、どこまでも最高にチャーミングで魅力的だからだ。

ルシアの作品はどれだってルシアだ。指先に煙草を揺らしてルーは笑っている――。煙草はやめた。酒も飲まない俺は、せめてエスプレッソ並みに濃くしたコーヒーをガブ飲みし、少し酔って俺の小説を書いてやろうと思う。

松永・K・三蔵

014 単純でいいこと

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世の中というのは複雑で、世界情勢ともなると情報ソースの精査からはじめなければならない。フラッシュのように伝えられる速報に飛びついて、何も知らない素人が容易に口出すのは危ない。ところが、それでもわかることはある。それは単純でいいこと。

ロシアがウクライナに軍事侵攻している。虚実入り乱れ、あらゆる情報が飛び交っている。「自衛のため」というのがロシアの主張だけれど、核兵器で威嚇し、国内の反対派を拘束したり、言論弾圧をしたりしている時点で説得力は乏しい。しかしいつも西側の文脈の中で、物事を二元論的に解―—。

小説家、文学者が知的エリートであり得たのは、たぶん昭和初期の頃までじゃなかろうか。(もちろん今も立派な方はいますけれど)

いち物書きの私は、物書き以上のことを言うつもりはないし、言えもしない。常にニュースにアンテナを張り、新聞全紙に目を通し、NYT国際版までも読んでいる、わけでもなく、国際政治学を学んだこともなければ、外国で暮らす何人かの知己はあるけれど、どこかに独自の情報源を持っているわけでもない。

私がやっていることと言えば、毎日小説を書き(定職に就いてマジメに働いてはいるが)睡眠時間も含めて、ずっと小説のことばかり考えている。私は物書きだから。

物事というのは複雑だ。誰もが目に出来る表皮があり、裏があり、中身があって、核心もある。また実はそれが裏返っていることもある。世界情勢もまた複雑で、政治もまた複雑だ。一般人が触れることのできない高度な国際インテリジェンスがあって、記録されない真相があり、報道されない(出来ない)とんでもない真実があるのは、歴史の中で見ることができる。それ故、何でも安易に批判をすることには注意が必要だと思う。案外「バカな政治家」が、人知れず巨悪と闘ってくれちゃっているかも知れないし、――そうじゃないかも知れない。

政治はやっぱり複雑だ。こと国際問題になるとグレーで曖昧で、非常に微妙だ。単純化できない難しさもある。その単純さが暴走すると、狂信的なナショナリズムに火がついたり、今回であれば「ロシア」と名の付くものを排斥するような思考停止のような行為にまで及ぶからだ。

でも、単純でいいこともある。戦争については単純でいい。

これは単純でいい。寧ろ単純であるべきなのだ。赤ちゃんからお年寄りまで全世代、なんだったら犬猫、ペット、すべての生き物が、誰だって単純に考え、単純に感じ、単純に意見すべきなのだ。戦争については単純でいい。これを複雑にしようとするのは政治のレトリックなのだ。

小説に何ができるか。書くことで何ができるか――。

小説家を志した一〇代の頃、私はそんなことずっと考えていた。それは、「なぜ書くのか」という書くことの本質に繋がるからだ。どんな偉大な文学作品も、飢えた子どもひとり救えず、現実生活においてパン一枚にも劣る。分厚いトルストイの『戦争と平和』の上中下巻を重ねたって、やっぱり銃弾は防げないのだ。「死んでいく子どもを前にして『嘔吐』は無力だ」と語ったJ.P.サルトルの参加(アンガージュマン)の問題は今日もやっぱり生き続けている。――小説は無力だろうか。

戦争については単純でいい。言葉というものは代用品で、「戦争」という言葉もやはり代用品だ。

通常、この国の我々が知ることのできる戦争は、過去から選られ固定されたものか、あるいは映像で視る、夜空に飛び交う閃光であり、死体のない崩壊した都市だ。一見それは、簡素に切り取られた情報だが、それは「単純さ」ではなく、寧ろ幾重にも意図が凝らされた「複雑さ」だ。

そんな「複雑」なもの(あるいは複雑になってしまったもの)を「単純化」することは、小説の根源的な役割じゃないだろうか。仮に小説がどれほど難解な文章で書かれ、また晦渋な物語であったとしても、それが小説という形式で書かれている以上、やはりそれは「単純化」されたものだと私は思う。埴谷高雄やW.フォークナーが書くものも、難解さに導かれた「単純な」物語だ。今回、改めてサルトル周辺の本を読み返していた。その中で読んだS.ボーヴォワールの言葉をひとつ引いておこう。「文学はわれわれのもつ最も不透明な部分に関して、われわれを互いに透明にしなければならないのです」(文学は何ができるか サルトル他/平井啓之訳 河出書房)

本質的な意味において小説は書物でもなく、また言葉でもない。もしかするとそれは実態のない波のような〝作用〟であるのかもしれない。それは言語を媒介として読み手の中に流れ込み、想像の中に立ち現れる。そして想像を起動させるのは「単純化」された物語だ。

戦争については単純でいい。寧ろそれは単純でなければならない。

戦争は、単純に人と人の殺し合いだ。「戦場」という場所はなく、「兵士」という人間もいない。幸せに暮らせたはず家族と「大丈夫だよ」と抱き合って別れた父が、夫が、あるいは母や妻が、それぞれ武器を取って殺し合う。幼い娘がいる父親を殺す。恋人がいる若者を殺す。病んだ母親をもつ息子を殺す。幸福と健康を祈られるべき子どもたちが、親から無理矢理に引き離され、殺され、傷つけられ、火傷を負い、腕を失い、脚を失う。心にも体にも癒えることのない傷を負う。

どんなイデオロギーがこれらを正当化できるのだろうか。どんな論理が我々を納得させてくれるのだろう。どんな教義が我々に答えをくれるのだろう。少なくとも私は、そんな答えは聞きたくないし、政治哲学の議論も、人類史の話も文明進歩、文化融合などの話も聞きたくない。私は誰も殺したくないし、殺されたくもない。単純に、人が行うこんな救いのない愚かな惨劇を受け容れたくない。

それでもやがてアカデミズムが、長衣を引き摺り後からのっそりやって来る。そしてまた「複雑な」物語をつくる。いくつもの「単純さ」を省きながら。それはうまくバランスがとれた、我々を寝かしつけるような物語だ。

残念ながら、生きるということは、少なからずその「複雑さ」に侵されることなのだと思う。誰もがどこかで無自覚に取引し、呼吸するようにその「複雑さ」を受容しているし、既に我々は享けている。その意味において誰もが免罪ではない。そのことに無自覚な人、その後ろめたさや躊躇いを持たず、真っ白な旗を振れる人は、私は危ないと思う。たぶん次はその人が躊躇いなく人を撃つ。

「複雑さ」に呼吸しながらも、「単純でいいこと」の単純さを忘れてはならないし、問い続けねばならないと思う。小説は無力だろうか。それはやっぱりわからない。

書く動機というのは人それぞれだろうけれど、私は自分の中には「なぜ?」という怒りに近い問いがずっとあって、それが書くことに繋がっている。それは不条理と呼ばれるものかも知れないし、--いや、それもまた代用品だから、本当はもっと平易で単純なものかも知れない。現実世界に小説は無力かも知れないが、やっぱり私はいち物書きだから「複雑さ」の中で本日も「単純な」物語を書くことにする。

 

もうひとつ。

核攻撃を示唆するロシアのウクライナ侵攻が世界において非常な脅威であるのは間違いないが、忘れてはならないのは、「戦争」あるいは「紛争」と呼ばれる殺し合いは、今も世界の五〇以上の地域で継続しているということだ。「9.11で世界は変わった」などと言った識者に、2001年当時、私はとても強い違和感を覚えた。「何も変わらない世界」からその報道を見る冷めた眼を忘れてはならない。

先進諸国が持つ「世界はココだ!」という意識はものすごく危うい。コロンブスの時代から変わっていない。その危うさは今回の「ここはイラク、アフガンでもなく、文明的なヨーロッパの街なのです!」などというCBSの報道発言に現れている。もちろん記者の言葉足らずだった面もあるのだろう。しかし現実に世界がそのような反応を示しているのは、残念ながら事実だと思う。これは非常に嫌な言い方だが、世界の残酷な実相であるので敢えて言う。〝真っ白なクロスのシミはよく目立つ〟のだ。2015年11月のフランスパリ同時多発テロにメディアは一斉に大騒ぎを起こし、「おおパリよ」と(余程パリに思い入れがあるのだろう)某女性タレントは嘆いたが、その言葉は、まさに「実相」を現す印象深い言葉だった。同じ月、ソマリア、パキスタン、トルコ、マリ、ナイジェリア……など、わかってるだけでも各地で16件のテロが起こっていたが、それらについては報道ではほとんど触れられない。誰かの痛みという「単純さ」において、それらは同じだということを我々は忘れてはならないし、小説が書くべきは、その等分の痛みであると思う。

松永・K・三蔵