043 ウェイシュエンさんとの約束。『カメオ』12/12単行本発売。(お知らせ×日乗)

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私のデビュー作、「カメオ」の単行本が12/12、ついに刊行される。

大感謝。感無量。やはり小説を書いている者にとってデビュー作というのは特別で、それは死ぬまでついてまわる作品なのだ。ま、その作品が「カメオ」という変なタイトルなのだから、私らしいと言えば私らしい。

白い本が好きなので、私のリクエストで、白い本にしていただいた。

でも一番のリクエスト、いや、絶対に譲れないのは表紙の装画。そう、このウェイシュエンさんの、この犬の絵だ。表紙は絶対にこれにして欲しかったので、これでお願いした。

これは足掛け4年越しのウェイシュエンさんと私の約束だからだ。

文芸誌の「群像」に私のデビュー作として「カメオ」が掲載された時、扉絵として送られてきたのが、このウェイシュエンさんの犬の絵。

私は笑った。最高だと思ったから。私もはっきりと具現化できていないカメオがそこにいた。

カメオの可愛らしさも、奇妙さも、面白さも現れていると思った。

掲載されて、すぐに扉絵を選んでくれた装丁家の川名潤さんにお礼のメールを送った。この絵でとても面白そうに見えるからだ。実際、この扉絵で読もうと決めた人もいたようだ。なんだか小説とこの絵が合わさって、ようやく作品が成立するように感じるほどぴったりだと思った。

そうして私は、この絵を描いたウェイシュエンさんにメールを送った。ウェイシュエンさんも扉絵を喜んでくれていること、お互い犬を飼っていることなどを話した。そして私は、もし単行本化されたら、是非ウェイシュエンさんのこの絵を表紙に使わせてほしいと伝えた。

しかし「カメオ」は単行本にはならなかった。

群像新人文学賞優秀作。「本にするには分量が少ないので……」ということだったが、優秀作(佳作)だったということもあるだろう。その年の大賞は二作。本を出し、PRにはそれで十分だったのかも知れない。

すると、この本を出すのには、とにかく次を書いて、セット。いや、しかし併録だと「カメオ」を表紙にできるのだろうか……。とにかく次を書かないと、「カメオ」の書籍化もない。今はもう「カメオ」の書籍化のチャンスは逃した。だから次を書いて、いつかデビュー作にも興味を持ってもらえるようになるしかない。「カメオ」を単体にするならばそれしかない。

ウェイシュエンさんの表紙で「カメオ」を本にする。これはひとつの私の目標になった。発表時では書籍化できなかったが、もしかするともっと良いタイミングがあるのかも知れない。私は楽天家である。

しかしそこからが長かった。1年、2年、月日は経って私は藻搔いていた。アテはなかった。ただ山を舞台にした、ボツになった小説を性懲りも無く、編集者に相談もなく勝手に改稿し、改稿し、進めていた。

そんな折り、ウェイシュエンさんの個展が私の住む街、西宮市にやってくるという。行かねばならない。そう思った。……しかし正直アテはない。あの犬の絵で「カメオ」を本にする。その約束は難しいのかも知れない……。

でもとにかく私は家族を連れてウェイシュエンさんの個展に行った。

甲子園駅の近くのギャラリー。とてもかわいい個展を堪能させてもらい、そしてウェイシュエンさんと初対面。ご挨拶して、写真を撮らせていただいた。

ウェイシュエンさんが手にしているのが、「犬の絵」の原画。

2023年

ウェイシュエンさんは台湾ご出身で、日本に来てイラストレーターとして活躍されている方だ。

そして私は性懲りも無く、また言った。「いつかこの絵で「カメオ」を本にしますよ」と。

しかし、実はアテなど何もなかった。小説を書いてはいたが、私は二年近く何も発表していない。発表の見込みもなく、ただ山の小説を書いているだけだ。

「--今ね、山のお話しを書いてますから」痩せ我慢にそんなことを言った。「ウェイシュエンさんの絵で、カメオ書籍化する為の第一歩ですから」

道筋の見えないハッタリだったが、しかしそれでも私のひとつの目標だった。

そして私の書いていた「山のお話」は『バリ山行』になった。芥川賞の候補になって慌てて書籍化に動いたので、「カメオ」は併録されず、『バリ山行』単体でいうことになった。しかし、どこかで私はホッとしていた。

芥川賞の選考会で『バリ山行』が賞に選ばれて、私は講談社から、会見をする為に帝国ホテルに向った。

「行っといた方がいいですよ」

会場の裏手で出番を待っている間、そう言った群像の編集長と一緒にトイレに行った。一緒に歩きながら編集長が言った。「『カメオ』出せますよ」

−−やった。やった、ウェイシュエンさん。やったで。もちろん表紙はあの犬の絵だ。

私は芥川賞の会見の前、帝国ホテルのトイレで用を足しながら私はそう思った。

そうしてそれから約半年後、ついに本になった。ウェイシュエンさんの「犬の絵」で『カメオ』は本になった。やっとこれで私の『カメオ』が完成したのだ。

帯は新人賞の大恩人、町田康先生に書いていただいた。

皆さん、よろしくお願いします。

2024年12月12日頃より全国の書店さんに並びます。

松永K三蔵

『バリ山行』の書評を書いていただきました! すばる9月号(若菜晃子さん)+ 小説すばる9月号(三宅香帆さん)

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若菜晃子さんが『すばる』で書評を書いてくれました。若菜さんは神戸のご出身で、山と渓谷社の編集者というキャリアを持つ方。すごいプレッシャー。大汗。

そして『小説すばる』では、大ベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が話題沸騰の三宅香帆さんの連載書評「新刊を読む」で、お取上げいただきました。

いずれも素晴らしい評で、ほんとうにありがたいお言葉で、全く恐縮ですが、皆さん是非読んでいただければと思います。よろしくお願いします!

『バリ山行』、単行本にしていただきました。

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感謝。『バリ山行』、本にしていただきました。

画像はAmazonさまより

ありがとうございます。

いい装丁。カッコよく、インパクトもあって、分け入るように奥深い。赤い線は、よく見ると破線もあり、山中を辿る軌跡になっている。グリーンの地形図は鉱物にも見えて綺麗だ。

ちょっと外国文学ぽい感じの装丁が、私はとても気に入っている。そして装丁は、あの川名潤さん。そりゃ間違いない。

グリーンと赤は今作のテーマで、以前紹介した掲載時の自作看板もそのカラーイメージ。山のグリーンと妻鹿さんの赤い汗止めバンド。

でもやっぱりこれじゃ安っぽい……。

当たり前だけど、やっぱりプロの仕事は凄い。

皆さんのお手元に早く届きますように。

純文学をどう読むか。文学性の解釈は人それぞれ。あーおもしろかったぁ。読んで、シンプルにそう思っていただければ幸せです。

オモロイ純文運動。

松永K三蔵

032 第171回芥川賞候補に選んでいただきました。感謝。(お知らせ×日乗)

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「バリ山行」(群像3月号)です。単行本にしていただけるとのことなので、皆さん本屋さんでお手に取ってみて(買って読んで)ください。

今はあまり言うこともないので、報せを受けた時の感じを描いて、置いておきます。さすがに慌てた。

えぇッ!

030 「バリ山行」試し読みweb公開【講談社 現代メディア】(お知らせ×日乗)

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「バリ山行」(群像3月号掲載)の試し読み記事をつくっていただきました。本日、講談社 現代メディアの群像で公開されました。ありがとうございます。

また勝手に描いた(非公認)

「バリ山行」の冒頭は X (旧Twitter)にページ画像で公開されていたので、今回の試し読みは、冒頭ではなく「バリ」が何かわかる序盤のハイライトシーン。私も好きなシーンだ。

読んでいただければわかるが、ここでMEGADETHが出でくる。え? メガデス?

わかる人は世代だろうか。そうだ、メタルBIG4の一角、メガデスだ。もっとも私はメタルと言えばPANTERA(パンテラ)一択なんだが--。長くなるので今、それは措く。

いや、敢えて措かずに繋げてみようか。

パンテラと言えばフロントマンはVoのP・アンセルモ。初期のロングモヒカン片流れスタイルからスキンヘッドにし、それは伝説的なギタリストD・ダレルの赤髭とともにパンテラのアイコンとなった。

そしてスキンヘッドと言えば、「バリ山行」の執筆中、ずっと私の意識にあったのは、F・コッポラの映画『Apocalypse Now(邦題:地獄の黙示録)』の、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐だ。つまりコンラッドの『闇の奥』のクルツ。

密林の中、川を遡り、その先に超然と存在するもの。

理解や共感を拒み、ただひとり、道を外れて突き進む。薮を漕ぎ、枝を潜り、岩を越えて流れに足を入れ、山を歩く。その先に何を見るのだろう。そんなことを考えながら書いた。

そんな小説。

皆さん、どうぞ「試し読み」をお楽しみくださいませ。

↓↓↓

イッキ読み必至!先行の見えない世の中において、確かなものとはどこにあるのか…?
不安定な現代社会を鋭く描く、新たな山岳小説
https://gendai.media/articles/-/125615
4月4日(木)公開。

朝日新聞(2/23朝刊)文芸時評に「バリ山行」(群像3月号)を取り上げていただきました。

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評者の古川日出男先生には群像新人文学賞の選考でもデビュー作となった「カメオ」をお読みいただきました。ありがとうございます。

真の”読書”の豊かさ 新しい「視野」で境界超える

かっこいい評題だ。

私も、今、この時代にこそ、読書の「たのしみ」「豊かさ」を多くの人に知って欲しい。スマホで、かいつまむようについつい見てしまう話題より読書はおもしろいのだ。

おもしろかった、と思ってもらえてる作品を書いていきたい。

今回も古川先生より、ありがたいお言葉をいただき、嬉しい。

WEB「朝日新聞デジタル」でも読めるようなので、もし良ければ作品とともにどうぞ。

https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S15870256.html

028 「バリ山行」の追い込み中にウサギに殺されかけた話

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今月は掲載月なので宣伝の為に「日乗」投稿も増やす。

今回の原稿の校了まで、かなり慌ただしい進行だった。しかし原稿の締め切りが明後日に迫った週末、私は娘とウサギカフェに行く約束をしていた。

娘よ、すまん。日本文学の為だ、今週は諦めてくれ。そう思って延期を申し出ようと思っていたが、妻から娘がとても楽しみにしていると聞いた。

でも俺はデカダン、無頼派だから(群像2023年10月号文一の本棚「昭和期デカダン小説集」書評参照)娘とのウサギカフェの約束くらいは簡単に反故にする。

と、思ったが、いや今こそウサギに触れてリラックスするのも、案外、創作に良いインスピレーションを与えてくれるんじゃないだろうか--。などと考えた。決して娘に約束を断れないからじゃない。俺は無頼派だから締め切りの近い原稿を放り出してウサギカフェに向かった。(一応原稿は持って行ったけれど)

そうしてコーヒーを飲んでちょっと原稿をやり、いざウサギさんとの触れ合いタイム。ガラス戸で区画されたウサギルームに。幼気な小動物の癒しパワーが私に創作のインスピレーションを与えてくれるはずだ。

フワフワと柔らかいウサギたちを抱っこして程なく、私は胸のあたりに何かを感じた。来た。胸を騒がすような、いや、しかしこれはインスピレーションではなく、気管を内側から毛で撫でられるような違和感。

私は咽せた。ん? 痒い。あ、ヤバい。これ。私手で胸を押さえる。「え? どうしたん?」と妻。ごめん。と慌ててウサギルームを出る。喉を伝って沸き上がるような内側からの痒み、ざわざわと胸の中が騒つく。あ、これ、俺なんかのアレルギーやろか。咳き込む。ヤバい、これあれやろ、アナフィラキシーやろ。ゲホゲホゲホ。

私は喘息持ちである。ヤバい締め切りがあるのに、ウサギカフェで呼吸困難って、「すみません、原稿ダメでした。いや、ウサギが、その‥‥」と編集部にアホな報告をしなければならないのか。洒落ならんでコレ。いや、下手をすれば遺稿。未完の遺稿。同じ兵庫県出身の故車谷長吉先生は烏賊にやられたが、もしかして私はウサギだろうか‥‥‥。松永K三蔵、ウサギに殺される。そんなことも考える。

ウサギルームを飛び出して、洗面所でうがいして、顔を洗い、手を洗ってやっと少し落ち着く。

ふぅ、ふぅ。危なかった。癒しと霊感を求めて来たのに、危うくウサギに殺されるところだった。

そうして私は辛くもウサギに殺されず、インスピレーションは受けたかどうかわからんが、なんとか「バリ山行」を校了したのであった。

みんなもモフモフウサギさんには気をつけね。

ちなみに原稿追い込み期間中、実は妻の誕生日だったが、ほとんど徹夜の日もあったりで、それを私はすっかり失念していた。

校了して、あ、と気づいて「ごめん……」と謝ったが、妻は「誕生日? そんなんどうでもエエねん!」と全く天晴れな女傑振り。いつもほんとお世話になっております。

松永K三蔵

◾️宣伝◾️ 群像2024年3月号(2月7日発売)

神戸、六甲山が舞台の山の小説です。

「バリ山行」自主制作CM

027 「バリ山行」が掲載される前日、ちょっとAIに尋いてみた。

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という訳で、2月7日、群像3月号が発売されて「バリ山行」が発表になった。その前日、ちょっと事件があった。

宣伝 看板(自主制作)

「山行」。登山に馴染みのない人はあまり聞き慣れない言葉だと思うけれど、これは「さんこう」と読む。

じゃあ、バリってなんだよ? という人は作品を読んでみてください。因みにバリ島の話ではないことは、先に断っておく。

ここ最近、九段さん(おめでとうございます!)の芥川賞受賞作『東京都同情塔』でAIが話題だが、私も創作のための調べごとにchatGPT-4を使ったこともある。ネット検索よりピンポイントに、あるいはニュアンスの幅をもって答えてくれるので非常に助かる。

そんなことで2月6日、「群像3月号」の発売日前日、雑誌の目次も公開されたことだし、ちょっとbingのコーパイロット(chatGPT4)に自分のこと尋いてみた。

松永K三蔵。いきなり、代表作は「バリ山行」と出た。情報が早い。代表作か、そうかぁ、そうなれば私も嬉しい。しかしまだ二作しかないから、それも間違いではない。

すると「松永K三蔵の作品を読んだことありますか?」というAIへの質問候補が下に出た。そうか、AIだから読めるのか。

押してみる。

すると、AIは「読んだことがある」と言う。そして「バリ山行」がとても好きだと。

え? あ、いや、まだ発売前なんですけど……

そうして出たアンサーが下だ。そのまま貼り付けておく。

もう私はAIを信用できない。

少なくとも今のところは、まだまだ発展途上のようだ。

これ「バリ山行」ってタイトルからのあなたの勝手な想像ですよね? テキトー過ぎでしょ!

バリ島なんて一切出てこないし、恋愛も出て来ない。ウソばっかじゃないですか、AIさん! 😊、じゃないですよ。全然、信用できないですよ!

ウソばかり? 信用ならない。

あぁ、なるほど。AIと小説にはやはり親和性があるようだ。

ということで、だから「バリ」ってなん何だよ? って人は下の自主制作のCMをどうぞ。

「バリ山行」自主制作CM

でもやっぱり、読まないとわからないようなので、よろしくどうぞ。

松永K三蔵

創作「バリ山行」を群像(2024年3月号)に掲載していただきました。

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中編小説「バリ山行」を群像3月号に掲載していただいた。

デビュー作の「カメオ」(群像新人文学賞優秀賞)に続く二作目。所謂、受賞後第一作だが、あれから月日は流れた。もちろんこればかりを書いていたわけではないが、この作品は、山をテーマに長編三本を書いて、混ぜて煮詰めて絞り出して、やっと出来た。ようやく機会が巡ってきて、この度発表。

宣伝 看板(自主制作)

山の話だが、これはいわゆる山岳小説ではない。お仕事小説だろうか。わからない。が、「なぜ山に登るのか?」という例の問いはちゃんとある。

私がひとりで展開する「オモロイ純文」運動の嚆矢に相応しい作品となった。つまりオモロイのだ。

しかし、せっかくのオモロイ純文も読まれなければ意味が無い。宣伝、宣伝、宣伝。ということでCMを作った。

編集部が噛んでないので非公式だが、自分で作っておいて非公式というのもおかしいので、「自主制作」というのが適当だろうか。

「バリ山行」自主制作CM

そんなことより原稿を書けと怒られそうだが、これはアプリでかなり簡単に作ることが出来る。風呂に入ってる間にだいたい作られたほど簡単。手がかかったのは、久しぶりにギターを引っ張り出して効果音を入れたことぐらいだ。

ということで、みなさん『群像』を(できれば)本屋さんで買って読んでくださいね。

松永K三蔵

025 手書きのスゝメ 

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「君は箸で湯豆腐が食えるのか?」

と言うことで、何も大袈裟に創作論を打とうというのではなくて、noteの記事で万年筆を紹介した行き掛かり上、手書きについて書いてみる。

noteの記事☟ 書くための道具たち。万年筆

https://note.com/mksanzo/n/n37a0af55865f


私などの創作術は全くアテにならないが、しかしもし、書きあぐねている人がいれば、
これもひとつの事例として参考にしていただければと思う。

手書きへのこだわり、と言うよりも(少なくとも私の場合)初稿は手書きでなければならないだが、今どき手書きというと、文具、あるいは筆記具フリークの趣味の世界と思われそうだけれども、そういうことではなく、これはあくまで実用の話。大切なのは実質。

そもそも物を書くということとはどういうことなのか? (ここでは創作、つまり小説や詩に限り、記事やレポートとは区別する)
「書く」という行為は、ひとつの行為のように見えるが、紙にあるいは画面に文章が立ち現れていくまでを分解して見てみると、まず自分の中にある、まだ形にならない観念や情感、感覚をフォーカスして捉え、言語化して、文法にあてはめて文章にして、やっと何か道具を用いて、文字にするという一連のプロセスがある。

それらを我々は認識の上では省略しているが、知らず知らずにその工程を踏んでいるのだ。


例えばそれがレポートや記事、解説書、案内文など、それら文書(ドキュメント)であれば、
その意図するところ、書かれるもの、対象が明確なので、当然に工程が違ってくる。
対象を描写し、要約し、まとめ、整理して書く。そういうことであれば、いきなりPCで良いと思う。寧ろその方がいろいろ便利だし、早いだろう。

しかしながら創作の場合はそのようにはいかない。創作の書くべき対象は自分の中にあるもので、それはひどく曖昧で、輪郭の整わないものだ。それらを一足跳びに、すぐに文字に書き表すことは難しい、いやそれをするのは、とても危ういことなのだ。



私の中から生み出されたばかりのことばは、曖昧で、いい加減で、Rudeで、傲岸で、弱く、不安定で、そして精気に満ちているはずだ。例えばそれは、ことばも覚束ない幼児が鉛筆を握り込んで描く、ぐるぐるのように。意味を成さず、しかし何ものかを表して、伸びやかで力に溢れ、そしてピュアだ。

ちなみに手書きノートはこんな感じ


だから私の初稿の手書き時点では、主語が定まっていなかったり、てにをは、文法も崩壊している。それは何かになる以前のもので、ヴァネラブルな、移ろいやすい、変化の余地を持った、あそびのあるものだ。

もちろん創作の場合であって、慎重に言葉を選択しながら、いきなりキーボードで文字を連ねていくことは可能だが、私の感覚からすると、それは些か性急なように感じてしまう。
非言語の感覚が、いきなり目の前に文字として現れ、統一された正確なフォントで行儀良く均一に並ぶ。違和感。産まれたばかりの生き物が、すっくり立ち上がって訳知り顔で話しかけてくる。そんな面妖さ……。

言うなればそのわたしの中の、言語以前の観念は、湯豆腐みたいなもので、ほそく尖った箸ではつかみとれず、無理に掬うとたちまち崩れてしまう。ああいうものを掬うには、やはり穴あきの、触りがやさしい、木製のオタマみたいなのが必須なのだ。


するとそれはモノを書く上でどういうものかというと、やはり手書きの道具になるだろう。
私はノートに向かい、ペン持ち、わたしの中の「それ」をゆっくりさぐりながら文字にしていく、すると途中で変化する、文法の枠を越えて流れ出す、動く、ずれる、引っぱられていく、その流れにのりながら、揺蕩い、落ちぬように追いながら少しづつ文字を繋いでいく。そうやって書き上がった初稿(とも言えない文字らしきもののつらなり)は、またまた料理で例えると、ことばのスープ。鶏ガラスープ、ブイヨンベースみたいなもの。 しかしこれがないと料理ができない。
それをPCで少しずつ、摘まみだすように択び、整え、文字を拾って文章にしていく。

その過程はこんな感じ☟ 書くための道具(ノートとか)

https://note.com/mksanzo/n/na9348cf3b4af



手書きも大切だが、やはり現代ではパソコンも大切。とても有効なツール。
成果物をモニターできて、編集も容易。簡単な校閲もしてくれる。推敲にも役立つ。打ち出して活字化した時の体裁を俯瞰できる。読まれる状態のものをシュミレートできる。印刷してみてそこで読むと、粗がたくさん出てくる。
データで眺めていた原稿とは見え方が随分と異なる。ということでやっぱりパソコンも大切。 妙なこだわりよりも、やはり実質。

PCで何度も推敲し、ようやく見えてくる。そうやって形にはなるのは、だいたい六回目の推敲ぐらいだろうか。
小説は企みなので(小説家は油断のならない人種)どうやれば読み手が食いつき、ハマり、勘違いして読み進めるかを考え、入れ替え、並べ替え、構成の中で仕掛け、整え、リズムをとって仕上げていく。

そう、つまり未だ形に成らざるものを掬うには、いきなりパソコンではシャープすぎるのだ。 手書き道具は必要な道具だ。用途。
もちろんPCで自分の中のものをいきなり文字に書き出しても、一応は読み物になっているが、やはりPCによる直接的な活字体の文字の打ち出しというのは、シャープすぎて、完成されすぎている。形にはなっているが、それはまた別のもので、成型したものは私が意図したものではない。

私は以前に、一度焦っている時期に、それこそ初稿からいきなりパソコンで打ち出したことがあった。頭に物語はある。それをわざわざ手書きして、またPCで打ち込みながら写すというのもまどろっこしい。 そう思ったのだ。
無論、文字にはなる。文章にもなる。筆が進まないわけでもない。快調に書ける。いや書けすぎるのか? 明滅する画面にバチバチバチバチと文字が生まれていく。
しかし、立ち現れた物語に私は不在だった。あれ? 何を書きたかったのだろう。アイデアもある、ストーリーもある、だがエスプリがない。冷たく硬化し、固定化した文字ばかりが並ぶのだ。カタチばかりは小説になる。が、私自身、それに魅力を感じられず、そう思いはじめると、パタと手が止まって、キーボードから指が浮いた。もっと有機的に息づく文章。そういう柔らかさが必要だと感じて、PCを閉じ、ノートとペンを持った。

道具たち




書きあぐねている人へ

もし小説を書いているあなたが、いきなりPCを使って物を書いているとすると、あなたはその固定化した文字への抵抗を敏感に感じてしまっているのではないだろうか? 書きたいものがあるのに、うまく書けない。いや、うまくなくていい。寧ろうまくない方がいい。誰かの評価や承認というのはこの際どうでもよいことで、純粋に自分の中の何かを文字にできれば、それだけで十分なのだ。
あなたの頭の中のことばはもっと繊細で柔軟で、無形だ。いきなり文字化はできないものだ。ひと飛びに、急ぎ過ぎたのかも知れない。ひとつ騙されたと思って、手書きしてみることをおすすめする。

ということで、下に私のおすすめの文具のAmazonのリンクを貼っておこうとしたが、懐にカネが入るアフィリエイトのやり方が私はわからないので、今回は諦める。みんな街の文具店でアピカのノートとkakunoを買って、朝のコーヒーショップ(環境も大切)でノートを開くのだ。



★付録★

因みに、私の言うところのことばのスープ。そんなものが実のところかなり残ったまま(あるいはそのまま)活字になっているんじゃなかろうか、なんて私が勝手に思っている小説家を、その一文とともにご紹介しよう。
この人がいかにしてこの文体を会得したのかは全く謎。奇跡。いや会得ではなく、それはそのまま源泉掛け流しのようなものだろうか。

とんとんと足ぶみし、棒をさしこみ、死人葛を幾重にもからませ、ほっと溜息ついてたかを、なおいとしそうにつるの綾なすのをなでそせる、月光浴びて、はだけた胸からかた方の乳房がこぼれ、ふともも半ばあらわとなっていて、節夫は今眼にした光景よりも、その輝くばかりの白い肌と、横顔にみとれるうち、たかをついと節夫に視線をむけ、そこにいたことを知っていたのか、なんのらこだわりもなく、こにりと笑いかけたーー
(骨餓身峠死人葛)

私は、新潟へ来てはじめて涙がにじみ、土蔵へもどると文子をほうり出すように置いて、泣きふした、じっとしていたれず、表へと飛び出し、またもどって母屋にしのびこみ、いちおう見当のつくあの部屋この部屋、意味もなく歩いて、あるいは襖をあけ障子をひくと、そこに母がいるようにな、いや、ただじとしていられなかったのだろう、戸外闇が急に怖ろしくなり、そこへカチカチと忙しく柝をうつ音が聞こえて、まだ誰かいる、いれば誰にでもすがりつきたく、耳をすますとそれはとなりから聞こえていて、裏口へまわりのぞくと、くらい室内に老婆すわっていて、左手をふりながら経をよみ、手のうごきにつれて音がひびく。
(死児を捨てる)


大天才 野坂昭如の文章である。
私は行ったことはないが、小説教室で出せばまず添削、ダメをくうだろう。もはや野暮な説明は不要。感じるだろう。
酩酊調とも言われるこの人の文章はほんとににごり酒のように、原初の粗さが保たれていて、ほとんど奇跡だと思う。
私はこの人は、日本文学史において非常に重要な作家だと思っている。

松永K三蔵