改めて選考委員の先生方の顔ぶれを見ると、
感慨深いものがある。
一番強烈な印象があるのは平野先生。
1998年、夏。私はあの衝撃を忘れることができない。当時私は18歳だ。十代。無鉄砲(バカ)。
浪人時代で、私はいつも西宮中央図書館で勉強をしていた。
いくつも小説の断片を書き散らしながら作品を完成させられなかったが、私は自己の天才を信じて疑わなかった。……バカだから。
――天才が文壇に衝撃を与えるまで、あと〇年。(その時歴史が動いた風に)
――今、この天才が浪人生として世を忍んでいる。
――天才が夙川沿いで今、弁当を食べている。
などとひとり頭のなかで独白しながらニヤニヤしている〝ヤベえ奴〟だったわけだ。
勉強に倦むと、図書館の入り口近くの雑誌コーナーで文芸誌を読み、ケッと悪態をつくような、全くどうしようもない奴だった。(このあたりについては菊池寛作「無名作家の日記」を読んで欲しい、ほとんどそのまま)※青空文庫にあるよ。
そんな私がある時、ふと手にした『新潮』に一挙掲載された平野先生の「日蝕」を眼にして、大袈裟ではなく脚が顫え、口の中はカラカラに干上がった。ニセモノの天才が本物の天才を眼にした瞬間だった。
「最後の息子」で文學界新人賞した吉田修一先生のデビューもその図書館で見た。
川上未映子先生が芥川賞を受賞された時の新聞記事もその図書館で見て、今でもよく覚えている。
山田詠美先生。先生の作品は大学のゼミの研究対象にもなった。アントニオ猪木のビンタよろしく、今回、私の作品も、エイミー節で「平凡。もっと挑戦しなよ、ヘイ、カモン!」とでも書かれてズバリと斬られてみたい気もしたが、意外にもエールを贈って下さった。
小川洋子先生、たぶん生活エリアは同じのはずだ。
そんな先生方に選評を頂けるのは、何だか現実感がない。いずれもありがたい選評で、とても学びがあった。
当代一の書き手を集めた芥川賞選考委員。おもしろくないわけがなくなくなくなくない(合ってか?)。選評の中に否が応でも名言が出てくる。それをいくつかご紹介。※本文は『文藝春秋』で読んでね。
「肉体の迷路を進み、言葉の消え失せた地まで行き着かなければ、小説は書けないのかもしれない」(小川洋子先生)
「シフトって言葉、まったく文学にそぐわないよ。センスない。ばか、ばか、F××K!」(山田詠美先生)
「優れた小説というのは必ずこの「間」を持っている」(吉田修一先生)
「けれど、その「出来ないこと」が、それぞれの小説を書かせてくれた――」
「結局今も時々、わたしはナンバで歩いてしまいます。」
「虚数は、そこにないものではなく、虚数として、そこにあるのです」(川上弘美先生)
「どう書かれているか(how)が重要であり、極端な話、Whatがほとんどなくても面白い小説は書きうる」(奥泉光先生)
たまんないな。最高だ。
中でも私は小川洋子先生の、もう一度引用するが、「肉体の迷路を進み、言葉の消え失せた地まで行き着かなければ、小説は書けないのかもしれない」この言葉に強く感銘を受け、共感する。それは私も常々考えていたことだ。
小説というのは言語芸術だけれど、その対象とするものは〝言葉にならないもの〟なので、それを言葉であわらそうという小説というものは、非常にパラドキシカルな芸術なのだ。
私はあらゆることを使ってその〝言葉の消え失せた地〟を体験しようとしている。
もちろん、その地に連れて行ってくれる文学作品もある。しかし、もしかしたら「文学」なんて概念ももっていない人の眼の奥にこそ、どこまでも純粋な〝言葉の消え失せた地〟があるのじゃなかろうか。そんなことを思う。カナンを目指す私の旅は続く。
松永K三蔵