028 「バリ山行」の追い込み中にウサギに殺されかけた話

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今月は掲載月なので宣伝の為に「日乗」投稿も増やす。

今回の原稿の校了まで、かなり慌ただしい進行だった。しかし原稿の締め切りが明後日に迫った週末、私は娘とウサギカフェに行く約束をしていた。

娘よ、すまん。日本文学の為だ、今週は諦めてくれ。そう思って延期を申し出ようと思っていたが、妻から娘がとても楽しみにしていると聞いた。

でも俺はデカダン、無頼派だから(群像2023年10月号文一の本棚「昭和期デカダン小説集」書評参照)娘とのウサギカフェの約束くらいは簡単に反故にする。

と、思ったが、いや今こそウサギに触れてリラックスするのも、案外、創作に良いインスピレーションを与えてくれるんじゃないだろうか--。などと考えた。決して娘に約束を断れないからじゃない。俺は無頼派だから締め切りの近い原稿を放り出してウサギカフェに向かった。(一応原稿は持って行ったけれど)

そうしてコーヒーを飲んでちょっと原稿をやり、いざウサギさんとの触れ合いタイム。ガラス戸で区画されたウサギルームに。幼気な小動物の癒しパワーが私に創作のインスピレーションを与えてくれるはずだ。

フワフワと柔らかいウサギたちを抱っこして程なく、私は胸のあたりに何かを感じた。来た。胸を騒がすような、いや、しかしこれはインスピレーションではなく、気管を内側から毛で撫でられるような違和感。

痒い。あ、ヤバい。これ。私は咽せた。胸で手を押さえ。「え? どうしたん?」と妻。ごめん。と慌ててウサギルームを出る。喉を伝って沸き上がるような内側からの痒み、ざわざわと胸の中が騒つく。あ、これ、俺なんかのアレルギーやろか。咳き込む。ヤバい、これあれやろ、アナフィラキシーやろ。

私は喘息持ちである。ヤバい締め切りがあるのに、ウサギカフェで呼吸困難って、「すみません、原稿ダメでした。いや、ウサギが、その‥‥」と編集部にアホな報告をしなければならないのか。洒落ならんでコレ。下手をすれば遺稿。未完の遺稿。同じ兵庫県出身の故車谷長吉先生は烏賊にやられたが、もしかして私はウサギだろうか‥‥‥。そんなことも考える。

ウサギルームを出て洗面所でうがいして、顔を洗い、手を洗ってやっと少し落ち着く。

危なかった。癒しと霊感を求めて来たのに、危うくウサギに殺されるところだった。

そうして私は辛くもウサギに殺されず、インスピレーションは受けたかどうかわからんが、なんとか「バリ山行」を校了したのであった。

みんなもモフモフウサギさんには気をつけね。

ちなみに原稿追い込み期間中、実は妻の誕生日だったが、ほとんど徹夜の日もあったりで、それを私はすっかり失念していた。

校了して、あ、と気づいて「ごめん……」と謝ったが、妻は「誕生日? そんなんどうでもエエねん!」と全く天晴れな女傑振り。いつもほんとお世話になっております。

松永K三蔵

◾️宣伝◾️ 群像2024年3月号(2月7日発売)

神戸、六甲山が舞台の山の小説です。

「バリ山行」自主制作CM

025 手書きのスゝメ 

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「君は箸で湯豆腐が食えるのか?」

と言うことで、何も大袈裟に創作論を打とうというのではなくて、noteの記事で万年筆を紹介した行き掛かり上、手書きについて書いてみる。

noteの記事☟ 書くための道具たち。万年筆

https://note.com/mksanzo/n/n37a0af55865f


私などの創作術は全くアテにならないが、しかしもし、書きあぐねている人がいれば、
これもひとつの事例として参考にしていただければと思う。

手書きへのこだわり、と言うよりも(少なくとも私の場合)初稿は手書きでなければならないだが、今どき手書きというと、文具、あるいは筆記具フリークの趣味の世界と思われそうだけれども、そういうことではなく、これはあくまで実用の話。大切なのは実質。

そもそも物を書くということとはどういうことなのか? (ここでは創作、つまり小説や詩に限り、記事やレポートとは区別する)
「書く」という行為は、ひとつの行為のように見えるが、紙にあるいは画面に文章が立ち現れていくまでを分解して見てみると、まず自分の中にある、まだ形にならない観念や情感、感覚をフォーカスして捉え、言語化して、文法にあてはめて文章にして、やっと何か道具を用いて、文字にするという一連のプロセスがある。

それらを我々は認識の上では省略しているが、知らず知らずにその工程を踏んでいるのだ。


例えばそれがレポートや記事、解説書、案内文など、それら文書(ドキュメント)であれば、
その意図するところ、書かれるもの、対象が明確なので、当然に工程が違ってくる。
対象を描写し、要約し、まとめ、整理して書く。そういうことであれば、いきなりPCで良いと思う。寧ろその方がいろいろ便利だし、早いだろう。

しかしながら創作の場合はそのようにはいかない。創作の書くべき対象は自分の中にあるもので、それはひどく曖昧で、輪郭の整わないものだ。それらを一足跳びに、すぐに文字に書き表すことは難しい、いやそれをするのは、とても危ういことなのだ。

私の中から生み出されたばかりのことばは、曖昧で、いい加減で、Rudeで、傲岸で、弱く、不安定で、そして精気に満ちているはずだ。例えばそれは、ことばも覚束ない幼児が鉛筆を握り込んで描く、ぐるぐるのように。意味を成さず、しかし何ものかを表して、伸びやかで力に溢れ、そしてピュアだ。


だから私の初稿の手書き時点では、主語が定まっていなかったり、てにをは、文法も崩壊している。それは何かになる以前のもので、ヴァネラブルな、移ろいやすい、変化の余地を持った、あそびのあるものだ。

もちろん創作の場合であって、慎重に言葉を選択しながら、いきなりキーボードで文字を連ねていくことは可能だが、私の感覚からすると、それは些か性急なように感じてしまう。
非言語の感覚が、いきなり目の前に文字として現れ、統一された正確なフォントで行儀良く均一に並ぶ。違和感。産まれたばかりの生き物が、すっくり立ち上がって訳知り顔で話しかけてくる。そんな面妖さ……。

言うなればそのわたしの中の、言語以前の観念は、湯豆腐みたいなもので、ほそく尖った箸ではつかみとれず、無理に掬うとたちまち崩れてしまう。ああいうものを掬うには、やはり穴あきの、触りがやさしい、木製のオタマみたいなのが必須なのだ。


するとそれはモノを書く上でどういうものかというと、やはり手書きの道具になるだろう。
私はノートに向かい、ペン持ち、わたしの中の「それ」をゆっくりさぐりながら文字にしていく、すると途中で変化する、文法の枠を越えて流れ出す、動く、ずれる、引っぱられていく、その流れにのりながら、揺蕩い、落ちぬように追いながら少しづつ文字を繋いでいく。そうやって書き上がった初稿(とも言えない文字らしきもののつらなり)は、またまた料理で例えると、ことばのスープ。鶏ガラスープ、ブイヨンベースみたいなもの。 しかしこれがないと料理ができない。
それをPCで少しずつ、摘まみだすように択び、整え、文字を拾って文章にしていく。

その過程はこんな感じ☟ 書くための道具(ノートとか)

https://note.com/mksanzo/n/na9348cf3b4af



手書きも大切だが、やはり現代ではパソコンも大切。とても有効なツール。
成果物をモニターできて、編集も容易。簡単な校閲もしてくれる。推敲にも役立つ。打ち出して活字化した時の体裁を俯瞰できる。読まれる状態のものをシュミレートできる。印刷してみてそこで読むと、粗がたくさん出てくる。
データで眺めていた原稿とは見え方が随分と異なる。ということでやっぱりパソコンも大切。 妙なこだわりよりも、やはり実質。

PCで何度も推敲し、ようやく見えてくる。そうやって形にはなるのは、だいたい六回目の推敲ぐらいだろうか。
小説は企みなので(小説家は油断のならない人種)どうやれば読み手が食いつき、ハマり、勘違いして読み進めるかを考え、入れ替え、並べ替え、構成の中で仕掛け、整え、リズムをとって仕上げていく。

そう、つまり未だ形に成らざるものを掬うには、いきなりパソコンではシャープすぎるのだ。 手書き道具は必要な道具だ。用途。
もちろんPCで自分の中のものをいきなり文字に書き出しても、一応は読み物になっているが、やはりPCによる直接的な活字体の文字の打ち出しというのは、シャープすぎて、完成されすぎている。形にはなっているが、それはまた別のもので、成型したものは私が意図したものではない。

私は以前に、一度焦っている時期に、それこそ初稿からいきなりパソコンで打ち出したことがあった。頭に物語はある。それをわざわざ手書きして、またPCで打ち込みながら写すというのもまどろっこしい。 そう思ったのだ。
無論、文字にはなる。文章にもなる。筆が進まないわけでもない。快調に書ける。いや書けすぎるのか? 明滅する画面にバチバチバチバチと文字が生まれていく。
しかし、立ち現れた物語に私は不在だった。あれ? 何を書きたかったのだろう。アイデアもある、ストーリーもある、だがエスプリがない。冷たく硬化し、固定化した文字ばかりが並ぶのだ。カタチばかりは小説になる。が、私自身、それに魅力を感じられず、そう思いはじめると、パタと手が止まって、キーボードから指が浮いた。もっと有機的に息づく文章。そういう柔らかさが必要だと感じて、PCを閉じ、ノートとペンを持った。


書きあぐねている人へ

もし小説を書いているあなたが、いきなりPCを使って物を書いているとすると、あなたはその固定化した文字への抵抗を敏感に感じてしまっているのではないだろうか? 書きたいものがあるのに、うまく書けない。いや、うまくなくていい。寧ろうまくない方がいい。誰かの評価や承認というのはこの際どうでもよいことで、純粋に自分の中の何かを文字にできれば、それだけで十分なのだ。
あなたの頭の中のことばはもっと繊細で柔軟で、無形だ。いきなり文字化はできないものだ。ひと飛びに、急ぎ過ぎたのかも知れない。ひとつ騙されたと思って、手書きしてみることをおすすめする。

ということで、下に私のおすすめの文具のAmazonのリンクを貼っておこうとしたが、懐にカネが入るアフィリエイトのやり方が私はわからないので、今回は諦める。みんな街の文具店でアピカのノートとkakunoを買って、朝のコーヒーショップ(環境も大切)でノートを開くのだ。



★付録★

因みに、私の言うところのことばのスープ。そんなものが実のところかなり残ったまま(あるいはそのまま)活字になっているんじゃなかろうか、なんて私が勝手に思っている小説家を、その一文とともにご紹介しよう。
この人がいかにしてこの文体を会得したのかは全く謎。奇跡。いや会得ではなく、それはそのまま源泉掛け流しのようなものだろうか。

とんとんと足ぶみし、棒をさしこみ、死人葛を幾重にもからませ、ほっと溜息ついてたかを、なおいとしそうにつるの綾なすのをなでそせる、月光浴びて、はだけた胸からかた方の乳房がこぼれ、ふともも半ばあらわとなっていて、節夫は今眼にした光景よりも、その輝くばかりの白い肌と、横顔にみとれるうち、たかをついと節夫に視線をむけ、そこにいたことを知っていたのか、なんのらこだわりもなく、こにりと笑いかけたーー
(骨餓身峠死人葛)

私は、新潟へ来てはじめて涙がにじみ、土蔵へもどると文子をほうり出すように置いて、泣きふした、じっとしていたれず、表へと飛び出し、またもどって母屋にしのびこみ、いちおう見当のつくあの部屋この部屋、意味もなく歩いて、あるいは襖をあけ障子をひくと、そこに母がいるようにな、いや、ただじとしていられなかったのだろう、戸外闇が急に怖ろしくなり、そこへカチカチと忙しく柝をうつ音が聞こえて、まだ誰かいる、いれば誰にでもすがりつきたく、耳をすますとそれはとなりから聞こえていて、裏口へまわりのぞくと、くらい室内に老婆すわっていて、左手をふりながら経をよみ、手のうごきにつれて音がひびく。
(死児を捨てる)


大天才 野坂昭如の文章である。
私は行ったことはないが、小説教室で出せばまず添削、ダメをくうだろう。もはや野暮な説明は不要。感じるだろう。
酩酊調とも言われるこの人の文章はほんとににごり酒のように、原初の粗さが保たれていて、ほとんど奇跡だと思う。
私はこの人は、日本文学史において非常に重要な作家だと思っている。

松永K三蔵

011 Lenovo Think PadX270

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DELLから新しく買い替えたモバイルノートPC。キーボードに定評のあるThinkPad。

買ったのは今年2023年。詳しい人なら、あれ? 古くない? と言うだろう。2017年製。確かに古い。

私は書くだけなのでハイスペックなものは要らない。それに、そもそもPCってどんどんプログラムがアプデされるから、もって4年。下手すれば3年じゃないか?

ハイスペックな10万や20万もする高級マシーンを導入しても4年で買い替えだ。それはかなりもったいない。ノートパソコンなど所詮執筆のための消耗品なのだ。「せやから、Amazonの整備済み品で充分やで」と教えてくれたのはWEBデザイナーのK氏だった。彼も仕事でいくつかPCを使うが、やはりひとつは使い倒しの「整備済み品」を使っているという。「整備済み品」とは?

「Amazon整備済み品は、正常に機能するよう検査、修理、クリーニング、テストが行われた再生品、中古品、展示品、開封品を整備済み品としてご購入いただけるサービスです」だ 。

中古が苦手な人もいるかも知れないが、私はただ書ければ良い。で安ければ尚良い。

ということで私が選んだのはコレ。

Lenovo Think PadX270

MS Office 2019/Win 11 Pro/第7世代Core i5 7200U/Webカメラ/8GBメモリ/SSD256GB

詳しい人が見たらいろいろツッコミどころはあるのかも知れないが、とにかく半年経って快調に働いてくれている。

オフィスつき。これで29,800円。安い。

それからキーボード。なるほどライターに支持されるだけはある。良い。芸が細かい。通常キーは指の腹に馴染むように内側にやや凹ませてあり、スペースキーだけは盛り上げてある。エロスを感じる。

打鍵音がややカチャつくのは仕様だろか、やはり中古だからだろうか。まあいいや。

このトラックボールは使わない。もはやただのデザインだな。

で、デザイナは松花堂弁当にヒントを得たらしい。だから太い。四角い。もっさり感も否めないけど、なんかこの感じ良い。耐久性も良いようだけど、そう見える。

シンプルなこのデザイン、気に入っている。

バッテリーも外部から換装できるので、これは長く使いたい。が、やはり重いのだ。毎日リュックに入れて持ち運ぶが、その重さにたまにびっくりされる。ま、トレーニングには良いだろう。

やっぱ実質ですよ、実質。

と言いながら後継機でMacBook Proとか新型のサーフェスとか使ってたらごめんな。

010 DELL Inspiron 11(3185)ノートパソコン

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万年筆と同じく、毎日お世話になってるこの道具。ノートパソコン、まさに愛機。こいつのことを書こう書こうと思っていて書けずにいたが、ついに引退することが決まったので書く。

それまで外で書くのに、ポメラとか、あれこれ試していたけれど、書いてまた移してというのがやはり面倒。ということで2018年に買ったモバイルPC。

PCはあんまり詳しくないから、スペックはわからない。とにかく書くだけだから低スペックだ。2in1とか言って折り返してタブレットになるやつだったが、結局使わなかった。

側面の並んで、電源スイッチとボリュームスイッチがあって、よく間違えて電源切っちゃったり、ちょっと重かったりと、いろいろあったけど使い勝手は良かった。とにかくよく頑張ってくれた。

途中三年目あたりでバッテリー切れが早くなって、バッテリー交換を考えたけれど、何故か不思議と復活して、三時間くらいは耐え忍んでくれた。

しかし、いよいよ私の打鍵にキーボードもグラついてきて、外れ、もう最後は「A」も「I」も「バックスペース」も吹き飛んで、マスキングテープで留めて、なんとか凌いでいたけれど、アイも無くし、もはや戻ることも許されず(打てるけどね)バッテリーは一時間ほどしかもたなくなった。這う這うの体で頑張ってくれたが、いよいよこの度、引退することになった。お疲れ様でした。

DELL Inspiron ‥‥‥インスパイロンかな? 名前もよくわからん奴だったが、約四年間、お世話になりました。ありがとうございました。

ということで、後継機はまた今度 ☞

松永・K・三蔵

018 Unplugged/Connected 後編

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017の続き☞

スマホというものはオンラインであるからスマートなわけで、それはコネクト、繋がっている状態だ。作業ツールとしてスマホを使うということもあるけれど、調べたり、連絡したり、何かを視聴したりするのはやはり繋がっている状態だ。まさにSNSで繋がりを求める人はもちろん、そうでない人も配信や更新など、オンラインサービスを求めている。我々はもはやオンラインじゃないと生きていけなくなっている。だから、そうじゃない奴、「オフライン」の奴を見ると奇異に思い、不安になるのだ。

90年代前半、世界のミュージックシーンでUnplugged(アンプラグド)ブームなんてものがあった。謂わばアコースティックブームだ。誰が先駆けだったのか。しかしハイライトは間違いなくクラプトンだろう。『Tears in Heaven』ほもとりより『Lyla』のアコースティックの解釈はやっぱり素晴らしかった。ジミーペイジとロバートプラントのコンビ。あ、イーグルスも良かった。Unplugged。そんな言い回しも日本語の感覚からすれば気が利いている。直訳すれば「プラグを抜いた」。つまりアンプに繋いだりエフェクターをかけたりする電子機器じゃなく、繋がない楽器で演る、というもの。(エレアコは使ってんだけどね)

そんなことをKISSなどの所謂ロック勢がやったというのが痛快だった。極め付けは当時のシーンのアイコン的存在のニルヴァーナだ。大御所を含め、そんな彼らは揃って「プラグを抜いた」のだ。それは、54年のフェンダー社のストラトキャスター登場以降、60年代、70年代、80、90。これまで倍加させるように拡張し、加速し疾駆してきたシーンへの抵抗のように。ヘッドを右に、アコギを構えたカート・コバーンの顔はやはり静かだった。

我々は常にスマホというプラグに繋がっている状態だ。コンセントに繋がって闘わなければならないエヴァンゲリオンを気の毒に思いながらも我々はやっぱり繋がっていないと不安になる。アンプラグド。(何もせず)繋がらない状態というのはどういうことなのだろう。

私はひとつの異端的な考えを、しかしそれをほとんど確信的に持っている。

我々は、繋がっていない時にこそ繋がっている。(そう、大抵世界はパラドキシカルに成り立っているし、時代とともに社会の構図も生活の様式も変化していくけれど、本質的にはやはりそのように構成され続けていくのだ)

何もせず、フォーカスを解いている時の我々の意識は外に向かって自由に開いている。それは無意識に世界と繋がっているのだ。と私は考え、またそう感じている。

は? とそんな私の主張を奇妙に思う人も、逆にスマホを触る時、それらは閉じられ遮断されている。そういう言い方であれば、納得する人もいるんじゃないだろうか。我々は何をしていなくとも、いやしていない時にこそ、世界に接続され、触れ、感じ、更新され、享けているのだと私は思っている。

宮本武蔵は髪の毛にぶら下げた米粒を太刀先で斬ることが出来たそうな。そんなバカな。それは逸話だ。マジメに取り合うな、と。しかし私は、劇画の中に出てくるようなそんな古の剣術の達人の超人的な能力を必ずしも誇張ではないと考えている。暗闇に敵の気配を感じ、「ん? なに奴!」というアレだ。そんなことなど朝飯前なのだ。随分夢見がちな奴だと思われるかも知れないが、例えば18世紀あたりまでは今よりもっと人間は、アレコレに阻害されず繋がっていて、特に研ぎ澄まされたごく一部の人に至っては、そういう超人的な感覚や能力を持ち合わせていても別に不思議はないんじゃないか。

いや、でもホントは今もちゃんと繋がっている。ただ我々はアレコレに(スマホとか)に邪魔されて、それを意識できないでいるのだ。現代にあっても分野を問わず、天才とされる人たちは超人的な感覚を持ち合わせている。スポーツ選手が、相手のモーションが超スローに見えたり、自身を俯瞰して見えたり、勝利の瞬間をシミュレート出来たり。将棋の羽生さんは集中の極度に達すると棋盤が光るのだと言う。芸術の分野はどうだろう。ミュージシャンならば夢の中で音楽を聴き(カート・コバーンも間違いなくそうだろう)、小説家なら原稿の上で物語が自ずと動きだし、未踏の世界に導かれる。

こういった働きは、繋がっている時にこそ起こる。だから私は、「何もしないこと」それを意識的に選択するということは非常に意味深いことだと思う。(只管打坐。それに生涯をかける人々もいますよね)Unplugged/Connectedだ。

何も誰しもが超人的な働きを求めている訳じゃないだろうけれど、少なくとも小説を書いたり、創作する人にはこれは必須だと思う。以前の記事「006 万感描写」でも書いたように、我々は万の感覚の中で生きている。何かを創作するということは、この世界を感じ、わたくしを綯い交ぜ、溶かし、濾過して、掬い上げて絞り、絞り絞ってやっと一滴。毎日それを集めて創っていく。そういうものじゃなかろうか。

これをあまり詳しく書くとヤベぇ奴だとバレるので、このあたりにしておこう。ということでUnplugged/Connected。今、私はこの記事をスマホで書いている。しばしスマホを置いて、創作ノートを開こうか。と、久しぶりにニルヴァーナの『About A Girl』のアンプラグドver.をYouTubeで聴きながら。

松永・K・三蔵

016 はじめた瞬間、終わっちゃうんよなぁ感覚。

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貴船山にて

待ちにまった旅行の前夜、あるいはその道中、不意に「でも終わっちゃうんよなぁ」感覚に襲われる。愉しみの只中に、あるいはそこに足を踏み入れる瞬間に、何かふと冷たい布で顔面を撫でられ、愉しい気分に水をさされるような、あの感覚。

あの感覚はなんだろうか。元来私はひどく楽天家で、あまりの能天気さに呆れられ、たしなめられることが多いくらいなので、沈鬱な面持ちで、未来を暗がりに沈めて見るようなペシミスティックなことはしないのだが‥‥‥。それでもどうかして、愉しいことをはじめようとすると、そんな不意の寂寞がやってくる。余所行きの外套の裏地のようにペタリと貼りついてくるそれはなんであろうか。

無常感、なんて大袈裟なものでなく、禍福は糾える縄の‥‥‥、いや、そういうこととも少し違う。愉しみに懦い心が構えるのか。過ぎ去った愉しみを思い返すだけの"日常"への備え? いや、そうでもない。

愉しみ向かう自分を、ふわりと浮き上がって遠く俯瞰しているような、そんな醒めた目に近い。

そんな感覚を引き摺りながら私は夏休みを過ごした。京都に向かい、叡山電鐵で京都の町の北部、貴船山にひとり登った。

街に戻ってからはホテルの近くのコーヒーショップで朝晩原稿をして、三高時代の織田作ゆかりのSTARに行ってやっぱり原稿をして、焼肉を食べ、ラーメンを食べ、そしてやはりそれは過ぎ行くのだけれど、終わってゆく愉しみ最中、それを自ら切断し、切り取り、コマ送りのように瞬間、瞬間の「終り」を感じ、痛み、滲み、歯軋りするのだった。

まったく子どものように熱狂し、白熱し、時を忘れられればよいのだけれど、愉しみのウラにあの”日常”を忘れない。これが大人の”疲労”というものだろうか。そうかも知れない。

昨晩、今朝の原稿の微妙な出来に落胆し、ホテルに戻り、荷物をまとめチェックアウトする。そうして私はまた”日常”に帰って行くのだが、すると今度はまた意外にも肚の底でふつふつ噪ぐものがある。それは期待感のような、心が躍る感じに近い。

そこで私は気づく。私の感じていた感覚は、大人の”疲労”なんて、そんな臈長けたものでなく、私の中の、寧ろ若い心が、ともすれば浅ましいほどの貪婪さが、あらゆる感覚を貪ろり食ってやろうと騒いでいたのじゃなかろうか。

私はいい歳して、ひとり焼肉を食べた翌日にラーメンを食べるような強慾な性質だから、愉しみはもちろん「終わっちゃうんよなぁ」の哀切も味わい尽くしてやろうと、手を擦り合わせながら興奮していたのだろうか。落ち着けよ。

少しはそんな反省をしながら、私は阪急電車京都線特別仕様の「京とれいん」で帰ろうとしたが、目当ての電車は過ぎ去った後であった。

松永・K・三蔵

014 単純でいいこと

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ロシアがウクライナに軍事侵攻している。虚実入り乱れ、あらゆる情報が飛び交っている。「自衛のため」というのがロシアの主張だけれど、核兵器で威嚇し、国内の反対派を拘束したり、言論弾圧をしたりしている時点で説得力は乏しい。しかしいつも西側の文脈の中で、物事を二元論的に解―—。

小説家、文学者が知的エリートであり得たのは、たぶん昭和初期の頃までじゃなかろうか。(もちろん今も立派な方はいますけれど)

いち物書きの私は、物書き以上のことを言うつもりはないし、言えもしない。常にニュースにアンテナを張り、新聞全紙に目を通し、NYT国際版までも読んでいる、わけでもなく、国際政治学を学んだこともなければ、外国で暮らす何人かの知己はあるけれど、どこかに独自の情報源を持っているわけでもない。

私がやっていることと言えば、毎日小説を書き(定職に就いてマジメに働いてはいるが)睡眠時間も含めて、ずっと小説のことばかり考えている。私は物書きだから。

物事というのは複雑だ。誰もが目に出来る表皮があり、裏があり、中身があって、核心もある。また実はそれが裏返っていることもある。世界情勢もまた複雑で、政治もまた複雑だ。一般人が触れることのできない高度な国際インテリジェンスがあって、記録されない真相があり、報道されない(出来ない)とんでもない真実があるのは、歴史の中で見ることができる。それ故、何でも安易に批判をすることには注意が必要だと思う。案外「バカな政治家」が、人知れず巨悪と闘ってくれちゃっているかも知れないし、――そうじゃないかも知れない。

政治はやっぱり複雑だ。こと国際問題になるとグレーで曖昧で、非常に微妙だ。単純化できない難しさもある。その単純さが暴走すると、狂信的なナショナリズムに火がついたり、今回であれば「ロシア」と名の付くものを排斥するような思考停止のような行為にまで及ぶからだ。

でも、単純でいいこともある。戦争については単純でいい。

これは単純でいい。寧ろ単純であるべきなのだ。赤ちゃんからお年寄りまで全世代、なんだったら犬猫、ペット、すべての生き物が、誰だって単純に考え、単純に感じ、単純に意見すべきなのだ。戦争については単純でいい。これを複雑にしようとするのは政治のレトリックなのだ。

小説に何ができるか。書くことで何ができるか――。

小説家を志した一〇代の頃、私はそんなことずっと考えていた。それは、「なぜ書くのか」という書くことの本質に繋がるからだ。どんな偉大な文学作品も、飢えた子どもひとり救えず、現実生活においてパン一枚にも劣る。分厚いトルストイの『戦争と平和』の上中下巻を重ねたって、やっぱり銃弾は防げないのだ。「死んでいく子どもを前にして『嘔吐』は無力だ」と語ったJ.P.サルトルの参加(アンガージュマン)の問題は今日もやっぱり生き続けている。――小説は無力だろうか。

戦争については単純でいい。言葉というものは代用品で、「戦争」という言葉もやはり代用品だ。

通常、この国の我々が知ることのできる戦争は、過去から選られ固定されたものか、あるいは映像で視る、夜空に飛び交う閃光であり、死体のない崩壊した都市だ。一見それは、簡素に切り取られた情報だが、それは「単純さ」ではなく、寧ろ幾重にも意図が凝らされた「複雑さ」だ。

そんな「複雑」なもの(あるいは複雑になってしまったもの)を「単純化」することは、小説の根源的な役割じゃないだろうか。仮に小説がどれほど難解な文章で書かれ、また晦渋な物語であったとしても、それが小説という形式で書かれている以上、やはりそれは「単純化」されたものだと私は思う。埴谷高雄やW.フォークナーが書くものも、難解さに導かれた「単純な」物語だ。今回、改めてサルトル周辺の本を読み返していた。その中で読んだS.ボーヴォワールの言葉をひとつ引いておこう。「文学はわれわれのもつ最も不透明な部分に関して、われわれを互いに透明にしなければならないのです」(文学は何ができるか サルトル他/平井啓之訳 河出書房)

本質的な意味において小説は書物でもなく、また言葉でもない。もしかするとそれは実態のない波のような〝作用〟であるのかもしれない。それは言語を媒介として読み手の中に流れ込み、想像の中に立ち現れる。そして想像を起動させるのは「単純化」された物語だ。

戦争については単純でいい。寧ろそれは単純でなければならない。

戦争は、単純に人と人の殺し合いだ。「戦場」という場所はなく、「兵士」という人間もいない。幸せに暮らせたはず家族と「大丈夫だよ」と抱き合って別れた父が、夫が、あるいは母や妻が、それぞれ武器を取って殺し合う。幼い娘がいる父親を殺す。恋人がいる若者を殺す。病んだ母親をもつ息子を殺す。幸福と健康を祈られるべき子どもたちが、親から無理矢理に引き離され、殺され、傷つけられ、火傷を負い、腕を失い、脚を失う。心にも体にも癒えることのない傷を負う。

どんなイデオロギーがこれらを正当化できるのだろうか。どんな論理が我々を納得させてくれるのだろう。どんな教義が我々に答えをくれるのだろう。少なくとも私は、そんな答えは聞きたくないし、政治哲学の議論も、人類史の話も文明進歩、文化融合などの話も聞きたくない。私は誰も殺したくないし、殺されたくもない。単純に、人が行うこんな救いのない愚かな惨劇を受け容れたくない。

それでもやがてアカデミズムが、長衣を引き摺り後からのっそりやって来る。そしてまた「複雑な」物語をつくる。いくつもの「単純さ」を省きながら。それはうまくバランスがとれた、我々を寝かしつけるような物語だ。

残念ながら、生きるということは、少なからずその「複雑さ」に侵されることなのだと思う。誰もがどこかで無自覚に取引し、呼吸するようにその「複雑さ」を受容しているし、既に我々は享けている。その意味において誰もが免罪ではない。そのことに無自覚な人、その後ろめたさや躊躇いを持たず、真っ白な旗を振れる人は、私は危ないと思う。たぶん次はその人が躊躇いなく人を撃つ。

「複雑さ」に呼吸しながらも、「単純でいいこと」の単純さを忘れてはならないし、問い続けねばならないと思う。小説は無力だろうか。それはやっぱりわからない。

書く動機というのは人それぞれだろうけれど、私は自分の中には「なぜ?」という怒りに近い問いがずっとあって、それが書くことに繋がっている。それは不条理と呼ばれるものかも知れないし、--いや、それもまた代用品だから、本当はもっと平易で単純なものかも知れない。現実世界に小説は無力かも知れないが、やっぱり私はいち物書きだから「複雑さ」の中で本日も「単純な」物語を書くことにする。

 

もうひとつ。

核攻撃を示唆するロシアのウクライナ侵攻が世界において非常な脅威であるのは間違いないが、忘れてはならないのは、「戦争」あるいは「紛争」と呼ばれる殺し合いは、今も世界の五〇以上の地域で継続しているということだ。「9.11で世界は変わった」などと言った識者に、2001年当時、私はとても強い違和感を覚えた。「何も変わらない世界」からその報道を見る冷めた眼を忘れてはならない。

先進諸国が持つ「世界はココだ!」という意識はものすごく危うい。コロンブスの時代から変わっていない。その危うさは今回の「ここはイラク、アフガンでもなく、文明的なヨーロッパの街なのです!」などというCBSの報道発言に現れている。もちろん記者の言葉足らずだった面もあるのだろう。しかし現実に世界がそのような反応を示しているのは、残念ながら事実だと思う。これは非常に嫌な言い方だが、世界の残酷な実相であるので敢えて言う。〝真っ白なクロスのシミはよく目立つ〟のだ。2015年11月のフランスパリ同時多発テロにメディアは一斉に大騒ぎを起こし、「おおパリよ」と(余程パリに思い入れがあるのだろう)某女性タレントは嘆いたが、その言葉は、まさに「実相」を現す印象深い言葉だった。同じ月、ソマリア、パキスタン、トルコ、マリ、ナイジェリア……など、わかってるだけでも各地で16件のテロが起こっていたが、それらについては報道ではほとんど触れられない。誰かの痛みという「単純さ」において、それらは同じだということを我々は忘れてはならないし、小説が書くべきは、その等分の痛みであると思う。

松永・K・三蔵

013 小説における身体性

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実はオミクロンに罹った。(日乗らしいネタだ)

自分は大丈夫。なんて根拠のない自信が私にもあったのだが、罹る時はあっけなく罹る。即座に定職はストップになり、自室に缶詰。

大きな声で言えないが、こんな執筆チャンスが他にあるだろうかと秘かにほくそ笑んだが、それも甘かった。

症状が出て、陽性判定になり、そこからがキツかった。無症状なんて人もいるらしいが、とにかく目玉の奥を貫くような頭痛がして、悪寒と倦怠感で目をあけてられない。執筆どころではなく、本も読めず、映画も観れない。ひたすら眠い。ので寝た。

くっそー書きたい。とようやく起きあがったのが四日目。

怠さが残る身体をくったりと持ち上げて、机の前に座らせるが、書いているとすぐにしんどくなって続かない。

発見。けっこう執筆って体力使うのだなと。

病苦に苛まれながらも書いた人は凄いなと思う。身体が不調だと、なんだか文章も散らかってしまう。

身体で書くってのとはちょっと違うのかも知れないが、私も身体が不調だと筆もダメ傾向。これは関係あるようだ。

考えてみると文士なんかは、芥川に代表されるような、痩せ型の病弱の文弱派が多い傾向なんだろうけれど、たまーに、壮健、闊達な肉体派がいる。そんな肉体派をあげていくと面白い。

--肉体派。え、、っと、じゃ誰が強ぇーんだろ? なんて熱がある頭が『刃牙』みたいなことを考えはじめる。

三島由紀夫は肉体を鍛え上げたが、運動神経の方は絶望的になかったそうな。そう評した石原慎太郎先生(合掌)はスポーツマンで、強そうだ。

強いということで、思いつくのは中上健次。冷蔵庫を投げ飛ばすらしい。マジかよ。電子レンジならわかるけど、冷蔵庫って投げ飛べるんだ。スゲェな。ゴリラみたいで強そうだもんね。あと坂口安吾も強いよな。運動神経抜群だったみたいだし。まぁまぁデカい。あ、田中英光を忘れちゃいけない。なんてたってオリンピアン。そりゃ強い。なんて考えていくと、どうしても無頼派の系列になる。でも、たぶん最強は今東光だと思う。チンピラみたいにめちゃくちゃ喧嘩してたみたいだし、大山倍達仕込みで、極真カラテもやるようだ。

最近の人だと花村萬月先生も、なんか強そう。あ、丸山健二先生も、ごちゃごちゃ説明するより殴り倒す方が容易いのだ、なんて小説家らしからぬことをよくエッセイで書いている。故車谷長吉先生も匕首を部屋に秘蔵していたというから相当だ。(身体と関係ないなコレは)エンタメ界にまで広げると、、今野敏先生のようなホンモノの武術家も出てくるから、この辺にしておこう。

すまん、タイトルは冗談だ。熱があると、この様におかしな思考になる。やっぱり健康は大事だねって話。好き勝手に書く日乗なので許してほしい。小説に於ける身体性については、また元気な時にでも。

皆さんもコロナに気をつけてね。

※もう恢復してます。

松永・K・三蔵

011 純文学新人賞おぼえ書き②

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前回010のつづき。

で、考えた創作サイクル。

1月〜3月は『新潮』。4月は構想や調査(取材)、もしくは筆休めに短編を書く。5月〜7月で『文學界』。8月〜10月は『群像』。できれば『群像』には早めに出して、11月〜12月で「太宰賞」に。そんな感じ。

基本的には150〜200枚の中短編

一年間をこの締切で縛る。「俺締切」。これでいくとホント休む暇がない。誰からも求められてないんだけれど、勝手にめちゃくちゃ忙しい。五大文芸誌の新人賞全部に送る人もいるらしいけど、私には無理だった。無理に書いて作品が薄くなっても意味がないしとか思いながら。

もちろん毎日書く。一日休むと10枚くらい遅れる。ちょっと筆が迷ってもすぐ遅れる。そのリカバリーに時間を捻出しなければならない。それでもやっぱりピンチ、締切が! 担当編集者に怒られる(妄想)。毎日の進捗枚数を手帳に書く。試行錯誤。編み出す。創作方法、創作術。自分なりのメソッド。そんなのが生まれてくる。道具、持ち物、そんなものもいつしかプロパーのツールめいてくる。

ノートパソコンと創作ノート、手書きノートをいつも持ち歩いて、スキマ時間があれば書く。アレも書きたいし、コレも書きたい。幸いネタは尽きないのだ。ポコポコポコポコ沸いてくる。

書く、推敲、推敲、投稿。すぐに次。書く、 推敲、締切やばい、推敲、投稿。次、書く。結果発表−−は気にしない。ありがたいことに、わざわざ雑誌を見なくても最終候補に残ればちゃんと向こうから電話をくれるのだから。それ以外は誤差だと思って気にせずにおく。一喜一憂して筆がブレることの方がマズい。どんな傾向の作品が、どんな人が受賞したのか? それは自分と、自分が書きたいことと関係あるか? そんなことよりも「俺締切」。次だ、次。次を書く。推敲。投稿。そんで次。“雑音”を消し、この繰り返し。

実際のところ、これが良いのかわからないが、とにかくそんなサイクルで淡々と孤独に筆を進める生活には、書くことの単純な幸福と、作品が仕上ってくる歓びがある。

とは言え後日、流石に気になって、フラフラと書店や図書館に立ち寄り、発表号の誌面を見ることもあった。

「あ、ない‥‥‥」と分って、ガーン!とショックを受けるけれど、雑誌を閉じ、書店から出て三歩歩けばもう忘れる。というのは大袈裟だけれど、それよりも今書いてる作品に集中している。一次落ち? それは半年前の話だ。それほどショック受ける必要はない。半年前。この時差がちょうどいい感じなのだ。

そしてある日、「その時」がくる。その日、私はたまたま仕事が休みで、朝は執筆、その後はボクシングジムで若者と殴り合って帰宅したところだった。「03-」東京から電話番号の着信を見て、勤務先の本社だと思って「うわ」と思ったが、「群像編集部です」と留守電が残っていた、というわけだ。

で、それからも結果まではしばらくあるが、「俺締切」から解放されるわけじゃない。今書いてる作品を書く、推敲。この繰り返し。結果、候補作の『カメオ』は「群像」の優秀作に滑り込みをしたわけなのだが、それでもやっぱりこのサイクルは変わらない。その日もその翌日も当然に書く。「俺締切」があるからだ。

『カメオ』ゲラの修正。そんなことにスケジュールを少し組み直して、別の作品の続き。これまでと変わらない。変わったことは、つまり、投稿先が担当編集者に変わったのだ。

おしまい。

というのが、私の新人賞おぼえ書き。こんなドタバタした話に需要があるかどうかわからないが、ひとつの事例として書いておく。

待て〜! なんか、こう「傾向と対策」みたいなものがあるだろう! と言われるかも知れないが、無い。賛否はあるだろうし、あくまで「私の場合は」という但し書きをつけておくが、「傾向と対策」とかは要らないんじゃないだろうか。トレンドなどは知ってしまうと意識せずとも、どうしても「寄る」のだ。筆がブレる。傾向と対策。それを調べつくして、無理な姿勢から、精巧なイミテーションを作り上げても、自分に残るのは痛みばかりで、創作の歓びはないだろう。

新人賞に関しては、高名な小説家の指南書や、ハウツー本、業界の方の情報がたくさんあるだろうから、そちらを参考にした方が絶対いいだろう。が、

群像新人文学賞の選考委員の町田康先生は、私が新人賞に思うそんなことを、とてもシンプルに、的確に書いておられる。「いろんなことを気にせず自分が面白いと感じることを書き其れが面白ければ大吉」 孤高の先生らしい言葉だ。

書く、仕上げる。そこにある自分自身の単純な創作の歓び。本来それだけで良いのかも知れないが、その先にデビューして、多くの人に、届けたい人に、届く可能性のある仕組みに関われることは最高だと思う。

デビューしても、創作することは変わるわけじゃない。変わっていないが、それでいい。いや、それだからいい。自分の中のことばと、書くという行為が互いに静かに折り合って馴染み、やがて熔着し、ひと続きになって繋がっていく。その心地よさ。書くということの単純な幸福と歓び。それに浸れている間は私は大丈夫なのだと思う。

009 積書(き)

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読書家諸氏の間では「積読」なんて言葉は、すっかり定着したが、その起源はかなり古いらしい。しかし近年の普及と定着には、アプリの「読書メーター」が一役買ったのは間違い無いだろう。いずれにしても良くできた単語で、字面と音、名詞でありながら、なんだか動名詞のようであり、「つんどくー」なんて、どこかとぼけた現代的なニュアンスもあっておもしろい。まことに滋味深い言葉だと思う。今さら解説は不要だろう。

では、「積書(き)」というのはご存知だろうか? 知らない? 私も知らない。私が創ったから。(元祖がいたらスマン)ちなみに見積書のことではない。

つまり、積読と同じで、追いつかないで積み上がったモノだが、これは読みではなく、書き。

小説の創作の作業工程は、彫刻なんかに近いんじゃないかなぁ、なんてことを私は昔から考えている。いや、エルトン•ジョンじゃないけれど、実際に彫刻を彫ったことはないので、あくまで想像だが‥‥‥。

←積読   積書→

まずは手彫り(手書き)で全体をざっくり彫り上げて、それから何度も何度も繰り返し削るようにして、フォルムを出していく。そこから慎重に細部を刻み込んでいく。プゥーッとカスを吹き払って、また削り、更にヤスリで磨き、プッと粉を払ってまた磨く。すると徐々にてらてらと光ってくる。血が通い、動き出すこともある。

ロダンは彫る前に、材料の石の中に既に作品があると言う。なるほど、それなら私もそうだ。

物語が埋まった石が頭ん中に積みあがっている。ひと抱えほどある中編から手頃な短編。身の丈に余る大長編から、手の中にすっぽりと収まる、文字通りの掌編まで。の石。

そして、そんな石は毎日増えていく。笑って増えて、泣いて増え、バカ野郎!とドヤされて増え、胸を衝かれて増え。出会って増え、サヨナラをして、また増えて。切なくなって増え、哀しくて増え、恨んで増え、キレて増え、反省して増え、虚しくなって増え、誰かを想って増え、あのコを思い出してやっぱり増える。そんな右往左往の取り乱した生活の中で、私の石は無尽蔵に増えていく。

面白いのが、この石はある時すっかり消えて無くなっていたり、いつの間にかくっついて、見上げるほどの巨岩になっていたり、逆に手頃サイズに縮んでいたり。

しかし、とにかく私は書くのが追いつかない。だからいつも積んである。

積読もバカみたいにあるけど、積書きもまたバカみたいにあるのだ。だからとにかく毎日書くしかない。あ、秋。