016 はじめた瞬間、終わっちゃうんよなぁ感覚。

posted in: 日乗 | 0
貴船山にて

待ちにまった旅行の前夜、あるいはその道中、不意に「でも終わっちゃうんよなぁ」感覚に襲われる。愉しみの只中に、あるいはそこに足を踏み入れる瞬間に、何かふと冷たい布で顔面を撫でられ、愉しい気分に水をさされるような、あの感覚。

あの感覚はなんだろうか。元来私はひどく楽天家で、あまりの能天気さに呆れられ、たしなめられることが多いくらいなので、沈鬱な面持ちで、未来を暗がりに沈めて見るようなペシミスティックなことはしないのだが‥‥‥。それでもどうかして、愉しいことをはじめようとすると、そんな不意の寂寞がやってくる。余所行きの外套の裏地のようにペタリと貼りついてくるそれはなんであろうか。

無常感、なんて大袈裟なものでなく、禍福は糾える縄の‥‥‥、いや、そういうこととも少し違う。愉しみに懦い心が構えるのか。過ぎ去った愉しみを思い返すだけの"日常"への備え? いや、そうでもない。

愉しみ向かう自分を、ふわりと浮き上がって遠く俯瞰しているような、そんな醒めた目に近い。

そんな感覚を引き摺りながら私は夏休みを過ごした。京都に向かい、叡山電鐵で京都の町の北部、貴船山にひとり登った。

街に戻ってからはホテルの近くのコーヒーショップで朝晩原稿をして、三高時代の織田作ゆかりのSTARに行ってやっぱり原稿をして、焼肉を食べ、ラーメンを食べ、そしてやはりそれは過ぎ行くのだけれど、終わってゆく愉しみ最中、それを自ら切断し、切り取り、コマ送りのように瞬間、瞬間の「終り」を感じ、痛み、滲み、歯軋りするのだった。

まったく子どものように熱狂し、白熱し、時を忘れられればよいのだけれど、愉しみのウラにあの”日常”を忘れない。これが大人の”疲労”というものだろうか。そうかも知れない。

昨晩、今朝の原稿の微妙な出来に落胆し、ホテルに戻り、荷物をまとめチェックアウトする。そうして私はまた”日常”に帰って行くのだが、すると今度はまた意外にも肚の底でふつふつ噪ぐものがある。それは期待感のような、心が躍る感じに近い。

そこで私は気づく。私の感じていた感覚は、大人の”疲労”なんて、そんな臈長けたものでなく、私の中の、寧ろ若い心が、ともすれば浅ましいほどの貪婪さが、あらゆる感覚を貪ろり食ってやろうと騒いでいたのじゃなかろうか。

私はいい歳して、ひとり焼肉を食べた翌日にラーメンを食べるような強慾な性質だから、愉しみはもちろん「終わっちゃうんよなぁ」の哀切も味わい尽くしてやろうと、手を擦り合わせながら興奮していたのだろうか。落ち着けよ。

少しはそんな反省をしながら、私は阪急電車京都線特別仕様の「京とれいん」で帰ろうとしたが、目当ての電車は過ぎ去った後であった。

松永・K・三蔵