『バリ山行』の書評を書いていただきました。朝日新聞+日経新聞 8/31

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『バリ山行』の書評を書いていただきました。ありがとうございます!

お知らせが遅れてすみません。

WEBとかでも読めるのかも知れません。

よろしくお願いします。

朝日新聞 評者は山内マリコさん

「超高解像度で男性の、会社員の世界が瑞々しく描かれた、令和6年上半期芥川賞受賞作」

日本経済新聞

「会社員として働く著者が、サラリーマン生活の苦悩に寄り添いながら、未知なる自然の脅威や美しさを活写した。」

毎日新聞8/26夕刊にインタビュー「信じられる」何かを求めて を掲載していただきました。

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とても楽しかったインタビュー。記者の方が聞き上手。調子に乗っていろいろと話してしまった。

このインタビューは文學界8月号に掲載していただいたエッセイ「押せども、ひけども、うごかぬ扉」に続くインタビュー。

(ひとり山に入り、ルートを外れ)「社会的な肩書きや付加的なものが外れ、自分とは何かを問い直していく。『何者でもない自分』と世界の関係性というテーマは今後も追い続けたい」

035 余は如何にして「松永K三蔵」になりし乎(か)ペンネームについて GOODBYE ミッフィーちゃん

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まず受賞作の『バリ山行』だが、この山行を(やまゆき)と読んだり、(さんぎょう)と読んだり、果てはその読みの変換からか?『バリ三行』となっているSNS投稿を見たりする……。正確には(さんこう)です。混乱させて申し訳ない。登山界隈では当たり前のこの単語も、どうも世間一般では通じないらしい。

ちなみに、たまにSNSで『パリ山行』となっていたりするのは、パリ五輪の影響だろうから、これは仕方ない。それと老眼……。

芥川賞を受賞したことで、ありがたいことに私のペンネームも少しは世の中に広まった。多くの人が目にすることになり、およそ芥川賞作家のペンネームとも思われぬ、このアルファベット入りの奇妙なペンネームに面食らい、「なんて読むの? コレ」と混乱させてしまっているらしい。

ニュース原稿を読み上げるアナウンサーも困惑し、こんなやりとりもあったのかも知れない。

「これさ、このKってなに? 誤植じゃないの?」

スタッフ「いえ、Kですね。ありますK」

「え、ホント? じゃあ、これケイザブ……、ケイサンゾウ?」

スタッフ「ミドルネームらしいです」

「ん? ミドルネーム?」

スタッフ「松永、ケイ、サンゾウらしいです(困惑)」

つまり佐藤B作みたいな感じで、これを続けて読むと少し違う。ケイサンゾー、ではない。

私はあくまで、三蔵。ケイは別。だから、ケイ、サンゾー。

ちなみにペンネームは家族の名前の組み合わせ。「三蔵」は私に文学を与えた母の父、つまり私の祖父の名前。Kは家族のファーストネームで最も多かったイニシャル。

母と私のエピソード↓(芥川賞、受賞のことば)

https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h8459

そうか、わかった。それはわかった。そんならばお前、ミドルネームならミドルネームらしく、「・」を入れるべきじゃないのか? 藤子・F・不二雄みたいに。

私もそう思う。いや、そう当初のペンネーム(群像新人文学賞応募時)は松永・K・三蔵だったのだ。

ちなみに、この第64回はストレート芥川賞の石沢麻依さん、野間新、芥川賞候補の島口大樹さんという、いわゆる“死の組”だ。「カメオ」は良くやった。

優秀作を頂き、デビューが決まったけれど、すると編集部から、そのペンネームはどうなのか? と「相談」があった。ちゃんとデビュー後のことも考えてくれているのだ。イロモノと思われるんじゃないのか等……。(実際イロモノなのかも知れないが……)

群像文学新人賞は歴史ある賞だ。村上龍、村上春樹をはじめ、高橋源一郎や阿部和重、村田沙耶香など、偉大な書き手を輩出してきた。その純文学の賞にそんなふざけた名前はどうなのだろうか?

しかし「K」は納めきれなかった家族たちの名前、それを外すのは忍びない。それに目立つし、純文学史上ミドルネームは初だろう。

私は抵抗した。かのアメリカのロックバンドのKISSは、デビューする際にあのメイクで演ることをレコード会社から大反対されたが、メーク姿で売れてから、今度はメークを止めると言うと、更に激しく反対されたそうな。そんなエピソードをメールで書いて編集部に送った。生意気な奴だ。

とにもかくにも私はペンネームを再考した。

松永・K・三蔵。ちょっと長いか?

と、そこで私はあることに気づいた。いや、あるものに気づいた。いる。いるのだ。いや、見ている。こっちを。見覚えのある、あの目が。

そう、ミッフィーちゃんだ。オランダの絵本作家ディック・ブルーナのミッフィーちゃんが、こっちを見ている。

松永・K・三蔵。

松永(・K・)三蔵

松永(・×・)三蔵

松永・K・三蔵

一度見えはじめると、もはやミッフィーちゃん(・×・)にしか見えなくなってきた。

あ、これはマズい。私は純文学作家だ。シリアスなものも書く。そこにミッフィーちゃんが出てくるのはマズい。それに、ブルーナ事務所と面倒があっても困る。

そうして、私は「・」を外し、「松永K三蔵」になった。それで何の解決にもなってはいないが、編集部も、多少私も折れたと思ってくれたのか、じゃあ、それで行こうということになって、たぶん日本文学史上初のミドルネーム、アルファベットの小説家の誕生となったのだ。

そしてKISSのメイクを取るように、「松永三蔵」では面白くないと思うのだ。松永K三蔵、やっぱりこの名前が良いと思う。

おしまい

『バリ山行』の書評を書いていただきました! すばる9月号(若菜晃子さん)+ 小説すばる9月号(三宅香帆さん)

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若菜晃子さんが『すばる』で書評を書いてくれました。若菜さんは神戸のご出身で、山と渓谷社の編集者というキャリアを持つ方。すごいプレッシャー。大汗。

そして『小説すばる』では、大ベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が話題沸騰の三宅香帆さんの連載書評「新刊を読む」で、お取上げいただきました。

いずれも素晴らしい評で、ほんとうにありがたいお言葉で、全く恐縮ですが、皆さん是非読んでいただければと思います。よろしくお願いします!

034 第171回芥川賞選評を読む。〝言葉の消え失せた地〟

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改めて選考委員の先生方の顔ぶれを見ると、

感慨深いものがある。

いつものコーヒーショップで

 

一番強烈な印象があるのは平野先生。

1998年、夏。私はあの衝撃を忘れることができない。当時私は18歳だ。十代。無鉄砲(バカ)。

浪人時代で、私はいつも西宮中央図書館で勉強をしていた。

いくつも小説の断片を書き散らしながら作品を完成させられなかったが、私は自己の天才を信じて疑わなかった。……バカだから。

――天才が文壇に衝撃を与えるまで、あと〇年。(その時歴史が動いた風にやる)

――今、この天才が浪人生として世を忍んでいる。

――天才が夙川沿いで今、弁当を食べている。

などとひとり頭のなかで独白しながらニヤニヤしている〝ヤベえ奴〟だったわけだ。

勉強に倦むと、図書館の入り口近くの雑誌コーナーで文芸誌を読み、ケッと悪態をつくような、全くどうしようもない奴だった。(このあたりについては菊池寛作「無名作家の日記」を読んで欲しい、ほとんどそのまま)※青空文庫にある。

そんな私がある時、ふと手にした『新潮』に一挙掲載された平野先生の「日蝕」を眼にして、大袈裟ではなく脚が顫え、口の中はカラカラに干上がった。ニセモノの天才が本物の天才を眼にした瞬間だった。

「最後の息子」で文學界新人賞した吉田修一先生のデビューもその図書館で見た。

川上未映子先生が芥川賞を受賞された時の新聞記事もその図書館で見て、今でもよく覚えている。

山田詠美先生。先生の作品は大学のゼミの研究対象にもなった。アントニオ猪木のビンタよろしく、今回、私の作品も、エイミー節で「平凡。もっと挑戦しなよ、ヘイ、カモン!」とでも書かれてズバリと斬られてみたい気もしたが、意外にもエールを贈って下さった。

小川洋子先生、たぶん生活エリアは同じのはずだ。

そんな先生方に選評を頂けるのは、何だか現実感がない。いずれもありがたい選評だ。

当代一の書き手を集めた芥川賞選考委員。おもしろくないわけがなくなくなくなくない(合ってか?)。選評の中に否が応でも名言が出てくる。それをいくつかご紹介。※本文は『文藝春秋』で読んでください。

「肉体の迷路を進み、言葉の消え失せた地まで行き着かなければ、小説は書けないのかもしれない」(小川洋子先生)

「シフトって言葉、まったく文学にそぐわないよ。センスない。ばか、ばか、F××K!」(山田詠美先生)

「優れた小説というのは必ずこの「間」を持っている」(吉田修一先生)

「けれど、その「出来ないこと」が、それぞれの小説を書かせてくれた――」

「結局今も時々、わたしはナンバで歩いてしまいます。」

「虚数は、そこにないものではなく、虚数として、そこにあるのです」(川上弘美先生)

「どう書かれているか(how)が重要であり、極端な話、Whatがほとんどなくても面白い小説は書きうる」(奥泉光先生)

たまんないな。最高だ。

中でも私は小川洋子先生の、もう一度引用するが、「肉体の迷路を進み、言葉の消え失せた地まで行き着かなければ、小説は書けないのかもしれない」この言葉に強く感銘を受け、共感する。それは私も常々考えていたことだ。

小説というのは言語芸術だけれど、その対象とするものは〝言葉にならないもの〟なので、それを言葉であわらそうという小説というものは、非常にパラドキシカルな芸術なのだ。

私はあらゆることを使ってその〝言葉の消え失せた地〟を体験しようとしている。

もちろん、その地に連れて行ってくれる文学作品もある。しかし、もしかしたら「文学」なんて概念ももっていない人の眼の奥にこそ、どこまでも純粋な〝言葉の消え失せた地〟があるのじゃなかろうか。そんなことを思う。カナンを目指す私の旅は続く。

松永K三蔵

『文藝春秋』9月号に「バリ山行」全文掲載、受賞のことば、インタビューを掲載していただきました。

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高級誌なんて言い方は日本ではあまり馴染みがないのかも知れないが、しかしそれをあげるとするなら問答無用で「文藝春秋」だろう。

私も見本誌を見て、改めてその佇まいの良さに見惚れた。グラビアのセンス、記事、その充実。そんな雑誌に私の小説が載る。ありがたいことだ。

そんな「文藝春秋」は文学好きの方にも非常に高コスパ。なんといっても今回であれば芥川賞二作丸々よめて、更には著者のインタビュー、受賞のことば。

更に楽しみなのが、芥川賞の選評。これがおもしろい。なんと言っても当代一の作家たちが作品を巡って話し合い、考察し、選評書くのだから、面白くないわけがない。おもしろくなくなくなくない。(あってるか?)今回は場外乱闘だったが、詠美(センセイ)節も健在。

選評についてはまた別項でとりあげる。久しぶりに「日乗」とかで。

『文學界』9月号に芥川賞受賞記念エッセイ「妹よ」を掲載していただきました。そして……

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なんだ? このタイトル。まぁアレだ。ほぼほぼ私の妹に宛てた個人的な文章をエッセイとして載せていただいた。

1933年創刊。歴史ある文芸誌だ。そんなことが許されるのか。いや、許してもらおう。芥川賞記念だから、私の敬愛する菊池寛先生も「仕方ないなぁ」と許してくれるだろう。

そう、タイミング良いのか悪いのか、芥川賞選考会の三日後が私の妹の結婚式だったのだ。

↓これをBGMに読んでください。

https://m.youtube.com/watch?v=eFJeJhKBxis

南こうせつ 「妹」

そして! なんと、吉田大助さんが、私について作家論を寄せてくださっております。感謝。ありがたいお言葉の数々、終始恐縮しっぱなしでした。とても面白い内容! こちらも是非。

『群像』9月号に「松永K三蔵への15の問い」(インタビュー)を掲載いただきました。

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これは新人賞で同期の石沢麻依さんもされていた企画だけれど、すると比較対象が石沢さんってことになると結構辛いものがあるが、私はうまく答えられただろうか。15も問いかけていただき、ありがとうございます。

スカした顔をしているが、私はもっと緩い人間だ。

その石沢麻依さんの寄稿や、同じ大学出身の井戸川射子さんの創作。

今月も充実の内容の群像。

みなさん、どうぞよろしくお願いします!

松永K三蔵

週刊現代8月5日発売号の「書いたのは私です」コーナーでインタビューしていただきました。

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週刊誌!に載せていただきました。主な読者層はやはり現役世代のサラリーマンだろう。つまり私だ。今回久しぶりに買ったけれど、なるほどあれこれ気になる記事が並んでいる。

紹介していただいた『バリ山行』は山の小説だが、サラリーマン小説でもある。というかかなりサラリーマン小説だ。組織の中で働いて、奥歯を噛んだ経験のある方なら小説に出てくるエピソードに共感していただけるのではないだろうか?

え? それ俺の責任? なんて理不尽なことに巻き込まれるのは日常茶飯事で、割り切って、ドライに相手を切り捨てることもできるけれど、ふと見るとその目線の先に、これまた別の立場で理不尽な目に遭っている取引先の男……。そんなやるせないことはいくらでもある。

会社の方針の不合理さ(いや、たぶん意味はあるんだよね)しかし末端サラリーマンにはわからない。ブルシットジョブなんて思えるバカバカしい業務。

それでも、それでも生きていく。モヤモヤも苛立ちも引きずって山に入る。その先に私たちは何を見るのだろう。

ご一読を!

毎日新聞8/1夕刊に芥川賞受賞エッセイを掲載していただきました。記事タイトル「山と街、双方に生きて」

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もののけ姫みたいなタイトルだが、記事のタイトルなので私が決めたのではない。(「山」と「まち」に生きて)

「お仕事小説」という言葉に私は実は違和感があって、社会人として生きていたら、たいていは仕事とか会社からは逃れられなくて、またそれになんの悩みも不安も抱かず、語るべきこともない人なんているのだろうか?

なんてことを思う。だからテーマがなんであれ仕事は絡む、生活は絡む、だから共感するんじゃないのだろうか。そしてそんなものへの反撥も。

ということで、皆さんどうぞ読んでみてください。