030 「バリ山行」試し読みweb公開【講談社 現代メディア】(お知らせ×日乗)

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「バリ山行」(群像3月号掲載)の試し読み記事をつくっていただきました。本日、講談社 現代メディアの群像で公開されました。ありがとうございます。

また勝手に描いた(非公認)

「バリ山行」の冒頭は X (旧Twitter)にページ画像で公開されていたので、今回の試し読みは、冒頭ではなく「バリ」が何かわかる序盤のハイライトシーン。私も好きなシーンだ。

読んでいただければわかるが、ここでMEGADETHが出でくる。え? メガデス?

わかる人は世代だろうか。そうだ、メタルBIG4の一角、メガデスだ。もっとも私はメタルと言えばPANTERA(パンテラ)一択なんだが--。長くなるので今、それは措く。

いや、敢えて措かずに繋げてみようか。

パンテラと言えばフロントマンはVoのP・アンセルモ。初期のロングモヒカン片流れスタイルからスキンヘッドにし、それは伝説的なギタリストD・ダレルの赤髭とともにパンテラのアイコンとなった。

そしてスキンヘッドと言えば、「バリ山行」の執筆中、ずっと私の意識にあったのは、F・コッポラの映画『Apocalypse Now(邦題:地獄の黙示録)』の、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐だ。つまりコンラッドの『闇の奥』のクルツ。

密林の中、川を遡り、その先に超然と存在するもの。

理解や共感を拒み、ただひとり、道を外れて突き進む。その先に何を見るのだろう。そんなことを考えながら書いた。

薮を漕ぎ、枝を潜り、岩を越えて流れに足を入れ、山を歩きながら身体で書いた。そんな小説。

皆さん、どうぞ「試し読み」をお楽しみくださいませ。

↓↓↓

イッキ読み必至!先行の見えない世の中において、確かなものとはどこにあるのか…?
不安定な現代社会を鋭く描く、新たな山岳小説
https://gendai.media/articles/-/125615
4月4日(木)公開。

029『文學界』4月号 新人小説月評に「バリ山行」を取り上げていただきました。そして思ったこと(お知らせ×日乗)

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評者は渡邊英理さんと、宮崎智之さん。お読みいただきありがとうございました。

感謝の気持ちを込めて、文學界4月号の表紙を描いてみた。特に意味はないのだけれど。

渡邊英理さん。言語の共有性について書かれた冒頭の文章が非常に印象的だった。

小説を書くことは、自己を掘り下げることで、それはどこまでも"たったひとりのわたし"の行為なのだが、"共有可能な普遍化"された「ことば」で書くというこはやはりどこかに他者を想っていて、それは物理的には掘り進めた先に世界が拡がることになる、このパラドキシカルな地球という球体に住む我々への示唆でもある。離れるということは、つまり近づくことでもあるのだ。

渡邊さんは、「バリ山行」を二つの危機を並べて、現代社会を批評する作品だと評してくださった。我々は日々何の為に生きるのか。生き延びねばならないのか。そもそも生きるとは何か。社会的な存在としての自己、あるいは生物としての自己。個、他者、関係性。いや存在の概念は自己を超越し得るのでは--。(その手がかりは他者不在を仮定した山で体験する幻想にあったのかもしれない)というテーマはまた今後の作品に引き継いでいく。

評題「分かると分からないのあわいで」いい言葉だ。分かるということの横暴さを引き受けて、脂汗を流しながら、しかし分らず、問い、問いながら書き、そのあわいでとどまり続けること。そんなことを思う。

宮崎智之さん。「不確かな世界と言葉」この評題も好きだ。世界とは、必ずしも大きな世界だけではない。それぞれの世界があり、社会という世界があって、コミュニティ、職場、学校、家庭、あなたとわたし、わたしだけの世界もある。それがどれほど小さく、また卑小なものであったとしても、嗤う勿れ。例えばひとりのこどもの世界の切実さは、最も大きな世界のそれと等しい。この世界がどのようにして成り立っているかを考えれば、それは当然なのだ。

全く世界というものは不確かで、私たちは常にその変転に晒され、流され、のまれ、そうして抱かれている。そんなフラジルな世界の不確かさこそが受容に転換されるはずだ。というのも今書いている作品のテーマだったりする。

"不確かさに身を晒し(中略)恐る恐る辿るうちに視界がひらかれていくのかもしれない。言葉を書き、読み、つないでいくことも、そういった営為なのではないか"(宮崎さんの時評より)

私もそう思います。

奇しくも今回の二つの評には互いに親和性があったようだ。読んでいて私は無性に小説を書きたくなった。

028 「バリ山行」の追い込み中にウサギに殺されかけた話

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今月は掲載月なので宣伝の為に「日乗」投稿も増やす。

今回の原稿の校了まで、かなり慌ただしい進行だった。しかし原稿の締め切りが明後日に迫った週末、私は娘とウサギカフェに行く約束をしていた。

娘よ、すまん。日本文学の為だ、今週は諦めてくれ。そう思って延期を申し出ようと思っていたが、妻から娘がとても楽しみにしていると聞いた。

でも俺はデカダン、無頼派だから(群像2023年10月号文一の本棚「昭和期デカダン小説集」書評参照)娘とのウサギカフェの約束くらいは簡単に反故にする。

と、思ったが、いや今こそウサギに触れてリラックスするのも、案外、創作に良いインスピレーションを与えてくれるんじゃないだろうか--。などと考えた。決して娘に約束を断れないからじゃない。俺は無頼派だから締め切りの近い原稿を放り出してウサギカフェに向かった。(一応原稿は持って行ったけれど)

そうしてコーヒーを飲んでちょっと原稿をやり、いざウサギさんとの触れ合いタイム。ガラス戸で区画されたウサギルームに。幼気な小動物の癒しパワーが私に創作のインスピレーションを与えてくれるはずだ。

フワフワと柔らかいウサギたちを抱っこして程なく、私は胸のあたりに何かを感じた。来た。胸を騒がすような、いや、しかしこれはインスピレーションではなく、気管を内側から毛で撫でられるような違和感。

痒い。あ、ヤバい。これ。私は咽せた。胸で手を押さえ。「え? どうしたん?」と妻。ごめん。と慌ててウサギルームを出る。喉を伝って沸き上がるような内側からの痒み、ざわざわと胸の中が騒つく。あ、これ、俺なんかのアレルギーやろか。咳き込む。ヤバい、これあれやろ、アナフィラキシーやろ。

私は喘息持ちである。ヤバい締め切りがあるのに、ウサギカフェで呼吸困難って、「すみません、原稿ダメでした。いや、ウサギが、その‥‥」と編集部にアホな報告をしなければならないのか。洒落ならんでコレ。下手をすれば遺稿。未完の遺稿。同じ兵庫県出身の故車谷長吉先生は烏賊にやられたが、もしかして私はウサギだろうか‥‥‥。そんなことも考える。

ウサギルームを出て洗面所でうがいして、顔を洗い、手を洗ってやっと少し落ち着く。

危なかった。癒しと霊感を求めて来たのに、危うくウサギに殺されるところだった。

そうして私は辛くもウサギに殺されず、インスピレーションは受けたかどうかわからんが、なんとか「バリ山行」を校了したのであった。

みんなもモフモフウサギさんには気をつけね。

ちなみに原稿追い込み期間中、実は妻の誕生日だったが、ほとんど徹夜の日もあったりで、それを私はすっかり失念していた。

校了して、あ、と気づいて「ごめん……」と謝ったが、妻は「誕生日? そんなんどうでもエエねん!」と全く天晴れな女傑振り。いつもほんとお世話になっております。

松永K三蔵

◾️宣伝◾️ 群像2024年3月号(2月7日発売)

神戸、六甲山が舞台の山の小説です。

「バリ山行」自主制作CM

027 「バリ山行」が掲載される前日、ちょっとAIに尋いてみた。

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という訳で、2月7日、群像3月号が発売されて「バリ山行」が発表になった。その前日、ちょっと事件があった。

宣伝 看板(自主制作)

「山行」。登山に馴染みのない人はあまり聞き慣れない言葉だと思うけれど、これは「さんこう」と読む。

じゃあ、バリってなんだよ? という人は作品を読んでみてください。因みにバリ島の話ではないことは、先に断っておく。

ここ最近、九段さん(おめでとうございます!)の芥川賞受賞作『東京都同情塔』でAIが話題だが、私も創作ための調べごとにchatGPT-4を使ったこともある。ネット検索よりピンポイントに、あるいはニュアンスの幅をもって答えてくれるので非常に助かる。

そんなことで2月6日、「群像3月号」の発売日前日、雑誌の目次も公開されたことだし、ちょっとbingのコーパイロット(chatGPT4)に自分のこと尋いてみた。

松永K三蔵。いきなり、代表作は「バリ山行」と出た。情報が早い。代表作か、そうかぁ、そうなれば私も嬉しい。しかしまだ二作しかないから、それも間違いではない。

すると「松永K三蔵の作品を読んだことありますか?」というAIへの質問候補が下に出た。そうか、AIだから読めるのか。

押してみる。

すると、AIは「読んだことがある」と言う。そして「バリ山行」がとても好きだと。

え? あ、いや、まだ発売前なんですけど……

そうして出たアンサーが下だ。そのまま貼り付けておく。

もう私はAIを信用できない。

少なくとも今のところは、まだまだ発展途上のようだ。

これ「バリ山行」ってタイトルからのあなたの勝手な想像ですよね? テキトー過ぎでしょ!

バリ島なんて一切出てこないし、恋愛も出て来ない。ウソばっかじゃないですか、AIさん! 😊、じゃないですよ。全然、信用できないですよ!

ウソばかり? 信用ならない。

あぁ、なるほど。AIと小説にはやはり親和性があるようだ。

ということで、だから「バリ」ってなん何だよ? って人は下の自主制作のCMをどうぞ。

「バリ山行」自主制作CM

でもやっぱり、読まないとわからないようなので、よろしくどうぞ。

松永K三蔵

026 2024年謹賀新年

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謹賀新年

先ほど新年の書き初め(執筆)を終えて参りました。

創作も旺盛に書いております。昨年はいくつかエッセイを書かせていただきました。大変ありがたいことです。

「文学のトゲ」(群像6月号)

「文一の本棚」(群像10月号)

「私の街の谷崎潤一郎」(WEB中公文庫12月)

今年のテーマは愚公移山。これでいきましょう。皆さまが、ただ白熱して生きられます一年でありますように。

松永K三蔵

025 手書きのスゝメ 

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「君は箸で湯豆腐が食えるのか?」

と言うことで、何も大袈裟に創作論を打とうというのではなくて、noteの記事で万年筆を紹介した行き掛かり上、手書きについて書いてみる。

noteの記事☟ 書くための道具たち。万年筆

https://note.com/mksanzo/n/n37a0af55865f


私などの創作術は全くアテにならないが、しかしもし、書きあぐねている人がいれば、
これもひとつの事例として参考にしていただければと思う。

手書きへのこだわり、と言うよりも(少なくとも私の場合)初稿は手書きでなければならないだが、今どき手書きというと、文具、あるいは筆記具フリークの趣味の世界と思われそうだけれども、そういうことではなく、これはあくまで実用の話。大切なのは実質。

そもそも物を書くということとはどういうことなのか? (ここでは創作、つまり小説や詩に限り、記事やレポートとは区別する)
「書く」という行為は、ひとつの行為のように見えるが、紙にあるいは画面に文章が立ち現れていくまでを分解して見てみると、まず自分の中にある、まだ形にならない観念や情感、感覚をフォーカスして捉え、言語化して、文法にあてはめて文章にして、やっと何か道具を用いて、文字にするという一連のプロセスがある。

それらを我々は認識の上では省略しているが、知らず知らずにその工程を踏んでいるのだ。


例えばそれがレポートや記事、解説書、案内文など、それら文書(ドキュメント)であれば、
その意図するところ、書かれるもの、対象が明確なので、当然に工程が違ってくる。
対象を描写し、要約し、まとめ、整理して書く。そういうことであれば、いきなりPCで良いと思う。寧ろその方がいろいろ便利だし、早いだろう。

しかしながら創作の場合はそのようにはいかない。創作の書くべき対象は自分の中にあるもので、それはひどく曖昧で、輪郭の整わないものだ。それらを一足跳びに、すぐに文字に書き表すことは難しい、いやそれをするのは、とても危ういことなのだ。

私の中から生み出されたばかりのことばは、曖昧で、いい加減で、Rudeで、傲岸で、弱く、不安定で、そして精気に満ちているはずだ。例えばそれは、ことばも覚束ない幼児が鉛筆を握り込んで描く、ぐるぐるのように。意味を成さず、しかし何ものかを表して、伸びやかで力に溢れ、そしてピュアだ。


だから私の初稿の手書き時点では、主語が定まっていなかったり、てにをは、文法も崩壊している。それは何かになる以前のもので、ヴァネラブルな、移ろいやすい、変化の余地を持った、あそびのあるものだ。

もちろん創作の場合であって、慎重に言葉を選択しながら、いきなりキーボードで文字を連ねていくことは可能だが、私の感覚からすると、それは些か性急なように感じてしまう。
非言語の感覚が、いきなり目の前に文字として現れ、統一された正確なフォントで行儀良く均一に並ぶ。違和感。産まれたばかりの生き物が、すっくり立ち上がって訳知り顔で話しかけてくる。そんな面妖さ……。

言うなればそのわたしの中の、言語以前の観念は、湯豆腐みたいなもので、ほそく尖った箸ではつかみとれず、無理に掬うとたちまち崩れてしまう。ああいうものを掬うには、やはり穴あきの、触りがやさしい、木製のオタマみたいなのが必須なのだ。


するとそれはモノを書く上でどういうものかというと、やはり手書きの道具になるだろう。
私はノートに向かい、ペン持ち、わたしの中の「それ」をゆっくりさぐりながら文字にしていく、すると途中で変化する、文法の枠を越えて流れ出す、動く、ずれる、引っぱられていく、その流れにのりながら、揺蕩い、落ちぬように追いながら少しづつ文字を繋いでいく。そうやって書き上がった初稿(とも言えない文字らしきもののつらなり)は、またまた料理で例えると、ことばのスープ。鶏ガラスープ、ブイヨンベースみたいなもの。 しかしこれがないと料理ができない。
それをPCで少しずつ、摘まみだすように択び、整え、文字を拾って文章にしていく。

その過程はこんな感じ☟ 書くための道具(ノートとか)

https://note.com/mksanzo/n/na9348cf3b4af



手書きも大切だが、やはり現代ではパソコンも大切。とても有効なツール。
成果物をモニターできて、編集も容易。簡単な校閲もしてくれる。推敲にも役立つ。打ち出して活字化した時の体裁を俯瞰できる。読まれる状態のものをシュミレートできる。印刷してみてそこで読むと、粗がたくさん出てくる。
データで眺めていた原稿とは見え方が随分と異なる。ということでやっぱりパソコンも大切。 妙なこだわりよりも、やはり実質。

PCで何度も推敲し、ようやく見えてくる。そうやって形にはなるのは、だいたい六回目の推敲ぐらいだろうか。
小説は企みなので(小説家は油断のならない人種)どうやれば読み手が食いつき、ハマり、勘違いして読み進めるかを考え、入れ替え、並べ替え、構成の中で仕掛け、整え、リズムをとって仕上げていく。

そう、つまり未だ形に成らざるものを掬うには、いきなりパソコンではシャープすぎるのだ。 手書き道具は必要な道具だ。用途。
もちろんPCで自分の中のものをいきなり文字に書き出しても、一応は読み物になっているが、やはりPCによる直接的な活字体の文字の打ち出しというのは、シャープすぎて、完成されすぎている。形にはなっているが、それはまた別のもので、成型したものは私が意図したものではない。

私は以前に、一度焦っている時期に、それこそ初稿からいきなりパソコンで打ち出したことがあった。頭に物語はある。それをわざわざ手書きして、またPCで打ち込みながら写すというのもまどろっこしい。 そう思ったのだ。
無論、文字にはなる。文章にもなる。筆が進まないわけでもない。快調に書ける。いや書けすぎるのか? 明滅する画面にバチバチバチバチと文字が生まれていく。
しかし、立ち現れた物語に私は不在だった。あれ? 何を書きたかったのだろう。アイデアもある、ストーリーもある、だがエスプリがない。冷たく硬化し、固定化した文字ばかりが並ぶのだ。カタチばかりは小説になる。が、私自身、それに魅力を感じられず、そう思いはじめると、パタと手が止まって、キーボードから指が浮いた。もっと有機的に息づく文章。そういう柔らかさが必要だと感じて、PCを閉じ、ノートとペンを持った。


書きあぐねている人へ

もし小説を書いているあなたが、いきなりPCを使って物を書いているとすると、あなたはその固定化した文字への抵抗を敏感に感じてしまっているのではないだろうか? 書きたいものがあるのに、うまく書けない。いや、うまくなくていい。寧ろうまくない方がいい。誰かの評価や承認というのはこの際どうでもよいことで、純粋に自分の中の何かを文字にできれば、それだけで十分なのだ。
あなたの頭の中のことばはもっと繊細で柔軟で、無形だ。いきなり文字化はできないものだ。ひと飛びに、急ぎ過ぎたのかも知れない。ひとつ騙されたと思って、手書きしてみることをおすすめする。

ということで、下に私のおすすめの文具のAmazonのリンクを貼っておこうとしたが、懐にカネが入るアフィリエイトのやり方が私はわからないので、今回は諦める。みんな街の文具店でアピカのノートとkakunoを買って、朝のコーヒーショップ(環境も大切)でノートを開くのだ。



★付録★

因みに、私の言うところのことばのスープ。そんなものが実のところかなり残ったまま(あるいはそのまま)活字になっているんじゃなかろうか、なんて私が勝手に思っている小説家を、その一文とともにご紹介しよう。
この人がいかにしてこの文体を会得したのかは全く謎。奇跡。いや会得ではなく、それはそのまま源泉掛け流しのようなものだろうか。

とんとんと足ぶみし、棒をさしこみ、死人葛を幾重にもからませ、ほっと溜息ついてたかを、なおいとしそうにつるの綾なすのをなでそせる、月光浴びて、はだけた胸からかた方の乳房がこぼれ、ふともも半ばあらわとなっていて、節夫は今眼にした光景よりも、その輝くばかりの白い肌と、横顔にみとれるうち、たかをついと節夫に視線をむけ、そこにいたことを知っていたのか、なんのらこだわりもなく、こにりと笑いかけたーー
(骨餓身峠死人葛)

私は、新潟へ来てはじめて涙がにじみ、土蔵へもどると文子をほうり出すように置いて、泣きふした、じっとしていたれず、表へと飛び出し、またもどって母屋にしのびこみ、いちおう見当のつくあの部屋この部屋、意味もなく歩いて、あるいは襖をあけ障子をひくと、そこに母がいるようにな、いや、ただじとしていられなかったのだろう、戸外闇が急に怖ろしくなり、そこへカチカチと忙しく柝をうつ音が聞こえて、まだ誰かいる、いれば誰にでもすがりつきたく、耳をすますとそれはとなりから聞こえていて、裏口へまわりのぞくと、くらい室内に老婆すわっていて、左手をふりながら経をよみ、手のうごきにつれて音がひびく。
(死児を捨てる)


大天才 野坂昭如の文章である。
私は行ったことはないが、小説教室で出せばまず添削、ダメをくうだろう。もはや野暮な説明は不要。感じるだろう。
酩酊調とも言われるこの人の文章はほんとににごり酒のように、原初の粗さが保たれていて、ほとんど奇跡だと思う。
私はこの人は、日本文学史において非常に重要な作家だと思っている。

松永K三蔵

024 劇団鹿殺し ザ・ショルダーパッズ論考 鹿版銀河鉄道の夜 ―転倒する舞台力学。異化された者が媒介するもの―

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※劇団のTwitterより

7月。私は劇団鹿殺し ザ・ショルダーパッズ「鹿版銀河鉄道の夜」を観た。 工作した肩パッドで股間だけを隠すという変態的衣装で演じる演劇に(↑の画像の通りだ)私はわけもわからないまま激しく心を揺さぶられ泣き、そしてそれが何故なのかを考えた。

「批評」や「論」などというものは、ちゃんとした演劇人や批評家の方にお任せして、私はただ私の感動の所在を探り、その解釈を自分なり得たいと思って、考えながら書き、書きながら考え、探り探り、そんなものを「論」というのはおこがましいので、私の思考のその足跡を「論考」としての残すことにした。 とは言えこれも日乗のネタなので肩肘張らず、あくまで気楽に。そして予め断っておくが、私は熱心な演劇ファンでもないし、専門的な演劇、舞台芸術の知識も持ち合わせていない。いろいろ見当違いのこともあるかも知れないがご容赦してほしい。

「ショルダーパッド」とは市販の肩パット二枚を縫い合わせただけの、世界最小の舞台衣装である。ザ・ショルダーパッズは、この最小限の果てに演劇の創造性と観客の想像力を最大限に高めようとする、夢のような試みである。(劇団鹿殺し座長 菜月チョビさん)

          ※

ショルダーパッド(以下SDP)は、陰部だけを隠す、通常「前張り」と言われるものの衣装化と言っても良いだろう。ギネス認定はまだかも知れないが「世界最小の舞台衣装」であるというのは間違いなさそうだ。その構造はひどくシンプルで、肩パッドの面は股間に、その上端部に縫い付けた紐をサスペンダーのように両肩に引っ掛け(それは伸縮性のあるゴム紐だと思われるが)背面にまわり臀部の中心で合流して、そのまま肩パッドの逆端部に繋がる。 また撮影用と舞台用では使用されるSDPは別物のようで、舞台用では、舞台上の激しい動きに耐えられるように、最低限の補助線ともいうべき紐が(ちょうど腰の腸骨のでっぱりのあたりに引っ掛かるよう)サイドに補強された仕様のようだ。これはおそらく、過去の稽古中に発生した「不幸な事故」による改良ではないかと私は推理をしている。

そんなSDPにも型番があるのかどうか知らないが、それは試行錯誤を重ねられ、もしかすると今回私が見たものも、新型のSDP4.0あたりなのかも知れない。いずれにしてもやはりそれは「世界最小の舞台衣装」だろう。

7月18日。関西に住む私はその舞台の千秋楽を配信で観劇し、茫然とその余韻に浸りながら、ふと考えた。――SDPは役者個人が、それぞれ自分SDPを持ち帰って洗うのだろうか、それとも劇団でまとめて洗うのだろうか。もちろんそれはわからない。わからないが、いや、やっぱりデリケートな部分に接触しているから、いくら同じ稽古場で練習し、時に釜の飯を食う仲間だとしてもちょっと抵抗があるのかも知れない。するとやはり役者は皆それぞれマイSDPに持ち帰って、洗濯するのだろうか。SDPにどれほどの耐久性があるのかは不明だが、SDGsにも対応済みとのことだから、当然複数回の使用は可能なはずなのだ。

そうして公演を終えた翌日のザ・ショルダーパッズたちの自宅のベランダには、舞台で使用されたSDPが吊るされ、風に揺れていたはずだ。干す際はゴム紐を挟んではならない。伸びるから。パッドの方を洗濯バサミで挟んで吊るす。それがSDPの正しい干し方だろう。

そしてもし、界隈に不逞の下着泥棒が出没していたならば、彼はふと見上げたそのベランダで「未知との遭遇」を果たすことになるだろう。「なんだ、コレ……」映画は異なるが、BGMはR・シュトラウス作曲の「ツァラトゥストラ」だ。そう、つまりSDPはこの世界においての「異物」なのだ。

(記事にはイラストを描くことにしているので、今回も描いたみた)

私が観劇したのは2023年鹿版「銀河鉄道の夜」。誰もが知る宮沢賢治のあの名作をどうやってSDP姿で演じるのだろうか。小劇場演劇の、大道具なし、衣装なし、机ひとつ、あとは役者の演技だけ、というのであればまだ分かるけれど、ほぼ全裸の、あのSDP姿は寧ろ物語を阻害するものじゃないのか。ネタだろうか。そんな格好であの「銀鉄」を演る。例えばそれは痛快な、古典のラノベ的超訳、あるいはクラシック音楽のPUNKアレンジ。そんなノリにたのしく笑って、それはそれで面白いのかも知れない。しかし股間のみを隠したほぼ全裸姿、それはどう見てもキワもの。それで演劇をやれば荒唐無稽なナンセンス劇に落ち着くのがいいところじゃないのか。ただウケを狙ったものであれば、いわゆる「出オチ」というやつで、もって五分。十分もすれば飽きられてしまうものだが……。鹿は大丈夫だろうか――。正直、私も観るまではそんな不安もないではなかった。

が、それらは見事に裏切られ、私は感動し、久しぶりにみっともないくらい嗚咽、号泣し、観終わって大混乱に陥った。あんな変態的衣装の演劇を見せられて、俺、なんでこんな――。私は私の中の処理のできない心の動揺に解釈を求め、配信での観劇だったのを幸い、その後少なくとも五度は観返しながら考えたのだ。

そもそも演劇における衣装とはなんだろうか。それは演劇の小道具で、観客を物語世界へ導入する為のものだろう。当然に服を着て観劇している我々の理解の延長線に、演目の物語世界があるのだとすれば、演出家も観客もその「効果」を衣装に期待しているはずだ。何の註釈もなく、王様がボロを着て、農奴がマントを羽織っているならば物語の約束事は成立しない。つまり衣装というものは演出家と観客のある一定のコンセンサスに基づいて成立しており、基本的には作り込まれた衣装であればあるほど、目の前の舞台で繰り広げられる物語世界(フィクション)への没入度合も高くなると期待して良い、普通は。 つまりほぼ全裸のSDPで物語を演じるということはその逆を行くということで、舞台力学? というものがあるとすれば、SDPは反作用し、それは転倒しているのだ。

そもそもフィクションというものは、つまり「ウソ」であって、私が書いている小説、や映画、舞台演劇もやはりウソなのだ。漫画やアニメも、言ってしまえばその「ウソ」のカリカチュア表現と言える。小説はその「ウソ」にありとあらゆる言葉を尽くし、(一般的な)映画は写実的つくられた疑似世界を、フレームを介して見せることだ。フレームの向こう側は、実に生々しい「ウソ」でまみれている。私は以前、インドの映画館でハリウッド映画を観たことがあったが、フレームの規格が異なるのだろう、映画の最初から最後まで画面の上部に収音マイクが見えていた。私はフィクションの怖しさを垣間見た気がした。閑話休題。

そのフィクションの中でも、演劇(芝居)は一番、怖ろしい。はじめてまともに演劇というものを観た時に持った私の感想はそれだった。生だから。それもある。それもあるけれど、他のフィクションジャンルの媒体は紙や映像、画像をなのだけど、演劇の媒体は「人間」だ。生き物である「人間」を媒体として使用して、まさに一回きりの生で見せられる。劇場で観劇すると、私はいつもそこに逃げ場がないような息苦しさを感じる。本を閉じることも、一時停止ボタンを押すこともできない。目の前にいる役者に私も「当事者」であることを強いられる、そんな息苦しさを感じる。もしも中座すればもう「それ」は二度と観ることができない。今、その瞬間の、目の前の役者は一回性なのだから。

目の前で繰り広げられる芝居の物語世界は「ウソ」で、舞台装置を凝らし衣装を作り上げ、役者がどれだけうまく演じたとしても、やはり「ウソ」の世界なのだ。その合意はもちろん演る側と観る側の間に当然あるけれど、看過しがちなことは、役者は物語世界を生きながら同時に、人間として今という現実に息をして「真実」生きているということだ。(その方面のファンの方には恐縮だが)それがアニメのキャラクターとは違うのだ。その二重性に私はいつも怖さを感じる。

真っ暗な狭い小さなハコの中、まるで監禁されたように観る学生演劇。かつて私はそこで役者の熱を感じ、息づかいを聞き、蒸れた酸い汗の臭いを嗅ぎ、叫び声、哭き声を聞き、唾を浴びて、観客もまたその場に居合わせた「当事者」であることを強烈に意識させれた。

門外漢の私が演劇論を打とういうのではない。SDPがフィクションの中でどう作用するのかを考える前提として、この演劇のフィクショナルの特性については押さえておく必要ある。 

演劇において衣装はあくまで「道具」であって媒体ではない。演劇の強みは、役者の演技ひとつで(あと観客の想像で)、あらゆるものをほぼ無制限に舞台上に展開できるというところだろう。その点は観客との共同作業でもあって小説と似た特性を持つ。 

 

(これより以下は、舞台や原作の「銀河鉄道の夜」のネタバレを含む。しかしながら、私は読んでいただいたとしても、これから(DVDなどで)観劇する人の楽しみを、些かも損なうものではないと思う。寧ろ原作に関しては、ある程度、筋を理解していた方が「鹿版銀鉄」の理解と感動が増すのではないだろうかと考えている)

 

 さて件のSDPは「鹿版銀河鉄道の夜」において、どのように扱われているのか。

男性の役者が演じる役はすべてSDPである。カムパネルラを含む学校の児童、教師、ジョバンニの母、印刷所の爺さん、車掌――。銀河鉄道で出会う人々まで、ほぼ全てSDPである。 そのSDPは物語世界においてメタ的に扱われ「無い」ものとされているわけではなく、風邪をひいたというザネリに対して、「そんな恰好をしてるからだよ!」というセリフにもあるように、そのような「格好」として認知されている。もちろんSPDをネタとして生かした脚本や演出も舞台には盛り込まれている。――彼らは何者なのだろうか。

衣服を着た我々観客からは、SDPを身に着けた(あるいは衣装を脱ぎ捨てた)彼らは異なる者、「異化」された者として舞台の上に存在している。 しかしながら、SPD姿のほぼ全裸の教師は背筋をピンと伸ばし、自らの身体を用いて銀河の成り立ちを生徒に説明する。それは紛れもなく教師なのだ。やはりSDP姿で、ほぼ全裸生徒たちは、そのまま騒々しい悪童たちで、ただひとり衣装を纏ったジョバンニは弾かれ疎外され、どこにも居場所がない。数ある「銀鉄」の舞台の中でも、あれほど孤独なジョバンニはいないんじゃなかろうか。

そしてそのSDPならでも演出も光っていた。乳をとられる農場の牛。白黒の模様のあるSDP装着し、テラテラと肌を輝かせた役者がその乳牛を演じるのだが、それはもう一頭の、完全に生物としての牛だった。乳を出すから牝牛なのだけれど、私は舞台上にまったく生々しく張りつめた筋肉をもった一頭ホンモノの牛を見た。

それから病に伏せるジョバンニの母親。それはSDP姿の男性の役者が舞台袖の女性のアテレコに合わせ、暗黒舞踏のような動きのみで演じるのだけれど、これが圧巻だった。原作において「白い巾を被って寝んで」いると描かれる母は不吉を語り、不穏な空気をもつ存在としても読めるのだが、SDPで「異化」された母のその動きは、ひとつの正統な解釈なのかも知れない。

ジョバンニの「バイト」先の親爺も、工員もやはりSDPで、ほぼ全裸だ。「自分は何のために生きているのだろう」とジョバンニは呟く。どこまでもアウトサイダーとして疎外され、ジョバンニは孤独な暗闇の中で、自ら機関車になって空想の世界に駆ける。

そしてジョバンニはその空想の行きつく先で銀河を走る汽車に乗り、カムパネルラと再会し、「異化」された様々な者たちと邂逅する。化石を発掘する男たち、シスター、白鳥、鳥を獲る男、客船で遭難した青年と姉弟、インディアン――。もちろん彼らもほぼ全てSDPだ。ジョバンニとともに異世界に足を踏み入れた我々はそれを違和感なく受入れる。 気がつけばSDP姿で異化された者たちも物語世界の中で同調をはじめているのだ。

視聴を繰り返している合間に、ふと私はGoogle検索で「ショルダーパッド」と検索したが、なかなか目当ての「劇団鹿殺し」の公演サイトに行きあたらない。そんなことに苛立ち、いや苛立っている自分に気づいて私は当惑した。もちろんそれでは出て来ない。出て来るのはまさに「肩パッド」だ。ショルダーパッドは「肩パッド」なのだから、それは劇団鹿殺しの舞台衣装の固有名詞ではない。いつの間にか私は慣らされているのか――。

では、私の感動はただ〝慣れ〟の所産なのか。観ている内に、あの格好に慣れただけなのだろうか?「だんだん慣れてくる」と確かにSDPの歌にもある。免疫がついて、確かにその側面もあるだろう。しかし私はその点に関しては明確に否定したい。私の感動は「慣れ」によって、あの変態的衣装の〝障り〟を差し引かれたものではない。

その証拠に(これは観劇して私と同様の感想を持った人ならば大いに首肯するところだと思うが)あの舞台を、完全に衣装を着た状態で(もちろんその為に演出も変え)再演するとして、それを望むだろうか。それで満足するだろうか。脚本、演出、役者の演技、それらは、それはそれで良いものに違いないのだが、いや何か物足りない、いや、足りすぎているのだ。

もし全員が完全に物語世界に「適った」衣装を身につけて演じていることを想像した時に、もはや私はそれを「蛇足」と感じてしまわないだろうか。過度に装飾された表現、過剰にトッピングされた料理(まぁそれも嫌いじゃないけれど)SDPを見た後で、私はそれで充たされるだろうか。いや、択ばせていただけるのであれば、やはり私は言うだろう。「SDPで演ってください」と。

 

古代ギリシアでは肉体を賛美し、古代オリンピックの競技は全て全裸で行われたそうな。衣装を身にまとうのはつまりダサかった(らしい)。ザ・ショルダーパッズのオープニングを観てふとそんなことを思い出した。顔を輝かせ、誇らしく舞台に居並ぶSDPの男たちは三千年以上の時を超え、古代ギリシア人の美意識を全身で理解しているのだ。 

 彼らは脱ぎ去ることによって何を得ているのか。いや衣装を纏うことによって何を失うことを懼れたのか。どうやらヒントはこのあたりにあるのかも知れない。 

衣装を纏うことによって隠されてしまうこと。それはあるのだ。日常我々は基本的には衣装を着て生活している。(個人的にはずっと疑問だったが)「衣」は衣食住の一要素として祀り上げられている。 そして現代における衣装の機能には社会性も含まれている。つまり着用することで特定の位置づけを付与される。卑近な例で言うと例えばユニフォーム。我々はそれによって所属や、またある職能であることを示され、社会通念上の「理解」が個人に付与されているのだ。つまり衣装には意味付けという機能もある。このあたりを拡げるとキリがないのと、ボロが出るのでこのあたりにするけれど、私がここで言いたいのは、衣装によって付与される「意味」の中で我々は安穏としていられる。もっと言えば個人の「何者であるか」という問いに等閑にしていられるということだ。

舞台ではどうだろう。舞台芸術はトリミングされた世界で、そのひとつの誇張表現の中で衣装の形式化は免れず、その意味の濃度は増す。舞台において意味は「役」に変換される。その「役」が拡張すれば役者はどう感じるのだろうか。これは小学校低学年以降、劇というものをやったことがない私のあくまで想像でしかないのだけれど、もしかすると役者の「わたくし」はその「衣装」の中でじっと潜んでいられるんじゃないだろうか。与えられた「役」の中で役者は沈む。極端な例で言えば、例えば顔面を含め全身を鎧で固めた衣装の兵士の役などはどうなのだろう。フィクションの中に隠れていられる。着ぐるみ状態なわけだ。

これが役者個人にとってどういうことを意味するのかは私にはわからない。役者の仕事として「ラク」と感じるのか、舞台人として歯痒さを感じるのか……。 そう考えると、世界最小、最低限の面積しか与えられぬSDPは役者にとってはまさに剥き出し、「わたくし」全開の舞台条件じゃないだろうか。と同時に、役の手掛かりになる衣装も最低限に抑えられている。まさに「この身ひとつ」で与えられた役を演じなければならない。もっと言えば反作用するSDPのハードルを超え、観客を物語世界へ引き込み、心を掴まなければならない。(これまた素人の私が言うのは恐縮だが)これは非常に難しいことなんじゃないだろうか。

どれだけ役者がうまく演じたとしてもSDP姿がその邪魔をする。そうなればSDPは失敗なのかもしれない。演出の敗北なのかも知れない。常にそのリスクがある。いやSDP姿の宣伝において既に逆風だ。ひとつ間違えば、ある意味で順当に「スベる」のだ。それでも尚、SDPで演じるというのは、劇団の、あるいは演出家のよほどの覚悟、というか不敵なまでの肚の座り方があるのだと思う。しかしまたそれは同時に役者への、そして我々観る側への無限の信頼でもあるのだと思う。

 

そこまでして何故SDPなのか。ここでやっと冒頭の演劇特有のフィクショナルについての理解が必要になる。繰り返しになって恐縮だが、演劇が媒体とするのは生きた「人間」だ。物語を、役を与えられ観る側に伝えるのは、今、まさに呼吸をしている人間だ。「役」というのは人間に与えられたひとつの「規定」であって「制限」でもある。「役」は与えられた範囲を出ることはない。これは小説においてもそうで、小説ならば書かれる書き手の筆によって制御可能だけれども、演劇においてそれは生身の人間なので、舞台において完全に制御でき得るものではないだろう。人間はナマモノとしてどうしても「逸脱」していくのだ。

しかしまたそれこそが演劇の魅力であって可能性でもあるのだと思うが。小説においても、制御できていたはずの人物が、書き手の思惑を越境していくことで小説の迫力というものが生まれるのだけれど、それはまた別の話。

劇中にそんなことを示唆するおもしろい演出がある。それは銀河鉄道の車掌で、彼は「サトラレ」として登場する。車掌もやはりSDP姿で、ただ目印として制帽のみが与えられている。路線の安全な運行を守る車掌もやはり全裸のSDPなのだ。背筋を伸ばし改札をし、業務はこなす彼の内奥では「わたくし」の声が生きており、その声が劇場内に漏れ出ている。彼は銀河鉄道に勤務しながら「東急線」?(すまん、東京の交通事情に疎くてちょっと忘れた)に憧れている。いくら制服に身を包んでいたとしても「わたくし」は自由で、常に逸脱している。ここはコミカルに描かれているけれど、これは逆説的で、非常に示唆に富んでいる。

 

もしかするとSDPというものは、考え得る限りの、「役」というフィクションと「わたくし」というリアルとの極限、皮膜ギリギリ、その境界で役者が演じる為の極めて合理的な「装置」なんじゃないだろうか。舞台の役者は「役」を演じながらも、やはり個人の役者として「わたくし」でもある。そんな演劇の根源的な二重性を問うような「装置」なのではないだろうか。

そしてこれは実際に役者にインタビューをしてみなければわからないが、私は、役者の人がSDP姿で舞台に立って役を演じる時のテンションは、通常の衣装を身に着けて上る他の舞台と比べ、明らかにテンションが異るのではないだろうか、と思う。舞台の冒頭で、正装した衣装を脱ぎ捨て、SDP姿で胸を張って居並び踊る役者の耀くような表情を見ると、やはり強くそう思う。(YouTubeでも観られるので、ぜひ)

 

「鹿版銀河鉄道の夜」でSDPが最大限に生かされているのは、やはりラストのシーンだろう。カムパネルラは世界の創生を語り、量子論から梵我一如の思想までを語り、自他も、彼我の違いもないのだとジョバンニに語る。そして裸のまま、南十字星に還っていくカムパネルラの「描写」はどこまでも精確じゃないだろうか。ウパニシャット哲学の究極原理である梵我一如の大乗仏教への影響はいろいろと解釈が別れるところであるけれど、大乗仏教の聖典である法華経を篤く信仰し、また同時に在野の自然科学者でもあった賢治。その理解に立ち、脚本が書かれ演出すると、なるほどこうなる。それは正統だと思う。

 そして私が最も感動したシーンも、やはりSDPによって読み解ける。 

 銀河鉄道の「幻想」から覚め、再び現実世界に戻るジョバンニ。唯一の親友であるカムパネルラを亡くし、現実世界でますます追い詰められていくジョバンニ。

「銀河とはなんでしょう?」と教室で再び先生から問われ、ジョバンニはすっと手を挙げ、立ち上がり、自らが体験した「超現実的」な経験を語る。銀河を走る汽車。愛を語るシスター、踊る白鳥たち。発掘する男たち。鳥を獲るおっさん。インディアン。蠍はいい虫で、こどもたちはずぶ濡れで――。

否定と嘲笑を買うはずのこのジョバンニの空想に対し、先生は決然と「その通りです!」と言い放つ。その先生はやはりSDP姿なのだ。異界と現実世界は、異化された者、疎外された者によってのみ媒介される。平生、現実に希望を持つことの困難さと無意味さを、これでもかとばかりに散々叩きこまれている我々は、この奇跡的転換に激しく心揺さぶられるのである。「その通りです!」そのひと言で、私はたちまち世界がひらかれたように思って涙が出た。そしてジョバンニのたったひとつの希望である父親からの便りは、原作とは異なりSDP姿の先生の股間のSDPの中から! 取り出されてジョバンニに手渡される。その手紙はほのかに温かい。コレ凄くないか? いろんな意味で。

 

我々は「一般的」にいつも衣装を着て生活をしている。それを当然だと思っている。つまり「常識」を着て生きている。そこに依存して、仮であったとしてもそれに依拠して生きている。量子がつねに定まらないように、生きている人間というものはいつも不確実な存在で、我々にとっても自分自身というものが最も不可解で捉えがたい。それは人間にとって本質的なものであって、しかしまた本質的であり過ぎる為に我々は望郷性を持ちながらも同時に忌避したくなる。それ故に我々は何かに収まり、何かに縛られたいと現実の世界の中においても「役」を求め、その「役」を演じている。そして大抵はその衣装も用意されている。

「この身ひとつ」で演じられるSDPはそんな我々の「わたくし」を問うきっかけになるものじゃないだろうか。と、そんなことを考えながら、そして書きながら、この論考を書いている間に良い知らせがあった。

劇団鹿殺しの「ザ・ショルダーパッズ」が新宿で上映されるという(10月2日19時~)。よかったなみんな。詳しくは劇団鹿殺しのサイトを見てくれ。関西在住の私はさすがに遠いので観に行けないが、DVDは予約済みだ。DVDが届いたならば、自室にこもって鍵を掛け、家族にバレぬように、まずは半裸になって観てみようかと考えている。

023 「新潮」9月号の日記リレー企画に勝手に参加してみた。

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タイトルそのままだが、依頼がなかったので勝手に参加してみた。

「新潮」のこの企画っておもしろい。誰かの日記というのはおもしろい。こんなことを言っちゃなんだが、日記なので別にどうってことない。だけど何だかおもしろい。何もない日常にこそその人の個性が出ているからだろうか。

私は日頃から創作ノート(ネタ帖)は書いているが、日記はつけていない。でも日々の行動記録は分単位で手帳につけている。これは執筆時間捻出の為に癖づいた習慣だ。ということで、私も勝手にバトンを拾って、続きの2023年7月1日から参加してみた。

2023年 7月1日〜7月7日

7/1 (土)午前中コーヒーショップで執筆。ボクシングジムで殴り合う。MUJIの「廃本になる予定だった」と銘打たれた古本コーナーで色川武大、深沢七郎などを買う。廃本になる予定だった? じゃ、買わないとまた廃本だろうか。ズルい。買うしかないやろ、こんなん。「こめらく」で飯を食う。犬の散歩。子どもにお話し。寝る。

7/2 (日)午前中コーヒーショップで執筆。帰宅して炒飯を食べる。近所の公園に椅子を持ち込み、蚊の襲撃をうけながら日暮れまで読書(S・ヴェイユ)。犬の散歩。子どもにお話し。寝る。

7/3 (月)四キロ歩く。読書(昭和期デカダン短篇集)コーヒーショップで執筆。仕事。現場移動中にひたすら読書(野坂昭如)韃靼そばを食べる。シコシコした食感が癖になる。タタールを思う。帰宅。子どもにお話し。寝る。

7/4 (火)四キロ歩く。読書(昭和期デカダン短篇集)コーヒーショップで執筆。仕事。デスクワーク。帰り、あまりの渋滞に途中でバス降りる。交通事故現場を見る。降りの車の横腹に登りの車が突き刺さっている。なぜ。道のカーブの向こう側は谷になっている。暗闇に赤色灯が躍るように燦いて山の樹林に混ざって凄まじい様相。寝る。

7/5 (水)四キロ歩く。読書(昭和期デカダン短篇集)コーヒーショップで執筆。仕事。やはりデスクワーク。本読みたし。インドカレーを食べ、チャーイを飲む。個人サイトに試し読み機能を追加する。子どもにお話し。寝る。

7/6 (木)四キロ歩く。読書(石川達三 蒼氓)コーヒーショップで執筆。仕事。スシローに行く。緊急対応で現場に走る。酷暑。寺院の土塀の影を歩く。コーヒーショップで冷コーを飲む。ZOOM会議で上司に反抗し、画面越しにジリジリと睨まれる。子どもにお話し。寝る。深夜、原因不明の重低音が耳について、なかなか寝られず。

7/7 (金)バスに乗る。読書(石川達三)コーヒーショップで執筆。仕事。デスクワーク。歩いて帰る。偏頭痛に苦しむ。寝る。

平凡。なるほど日記を書いていると、日常を「創作」したくなるということが、よーくわかりました。

おしまい

022 絵金を観に行く 天王寺へ

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日乗らしい日々のネタを。

先月、天王寺に絵金展を観に行った。あべのハルカス美術館。「幕末土佐の天才絵師 絵金」2023年4月22日(土)~ 6月18日(日)

ということで扉絵は、絵金の白描風自画像(サブ執筆マシーンとして導入したiPadで描いてみた)

松永K三蔵之図

あの絵金が来るとは。‥‥‥僥倖。コレってなかなか珍しいんちゃうん? なんて考えていると、高知県から絵金が出るのは半世紀振りとのこと。あ、そら久しぶりやわ、などと思っておったら、半世紀前はまだ私も生まれていないのだ。

絵金、エキンと言うけれど、待て、待て、絵金て誰や?

北斎や若冲などのビッグネームをいちいち説明されるなんてのは興醒めだけれど、逆に、あまりメジャーでないものを、「もちろん知ってるよね」とばかりに、こちらが知っている前提で話を進るようなイケ好かん奴もおる。そんでもってそういう奴は「え? あ、知らないの!?」までがセットになっているので、ひどく閉口だ。(これは小説家でも)微妙に知られているものはその塩梅が難しい。私はイケ好いた奴なのでちゃんと説明する。安心して欲しい。

絵金。土佐ゆかりの絵師として知られる。幕末から明治に活躍した市井の絵師。名前はいくつかあって、絵金というのは愛称で、名は弘瀬金蔵。絵師の金蔵、略して絵金。

狩野派で絵を修め、通常十年掛かるという一字拝領(免許皆伝)を三年で受けるという天才振り。土佐に帰って、町人でありながら若くして土佐藩の御用絵師までになる。これは士分扱いだというからスゴい。

ところが贋作疑惑をかけられて失脚、狩野派からは破門。絵は焼かれ、追放されて、町絵師となって絵師金蔵を名乗る。町絵師、つまり町の人に求められて、絵馬や提灯、幟などに絵を描いたらしい。今でも言えばデザイン事務所か看板屋だろうか。「あの看板屋のおっさん、実は、元御用絵師らしいで」というのだからカッコいい。ロマンがある。

ロマンはあるが、しかし金蔵本人は御用絵師の立場を逐われ、失職。夢のような栄達から一気に転落。その愁嘆、悲憤はいかばかりであったろうか。断腸、呻吟ぐうぐうと悔しさのあまり哭いたであろう。呻いたであろう。真偽のほどはわからないが、大出世を妬まれ嵌められて贋作疑惑を掛けられたという説もある。小説家ならば恨みの言葉を残すところだろうが、絵師の金蔵は描いた。塵芥にまみれて芝居屏風絵を描いた。血みどろ絵と呼ばれる絵金の絵。己の魂魄を叩きつけたように、そこにはとんでもない気魄が籠っている。

絵の転載とかは、いろいろ権利の問題もあるかも知れぬので、各人「絵金」でググって欲しい。

絵によっては結構グロいので、グロいのが苦手な人は要注意。てか、そんなグロいのを展覧会で公にしてエエのんかいな? 絵金ってアングラやろ? とか思いながら。そんな絵金を町中で公開する土佐の絵金祭なんて奇祭については後述する。

とにもかくにも私は休みが取れた平日に、天王寺へ。あべのハルカス美術館に絵金を見に行ったわけだ。

朝は地元のコーヒーショップで小説の原稿を書いて、阪神なんば線で一路難波に。難波から天王寺までは、織田作を想いながら通天閣を潜り、動物園を抜けて茶臼山町を歩いて行く。梅雨の最中で蒸せて、ひどく暑い。

絵金。その名を私に教えてくれたのは、ある友人だった。そんなことを思い出しながら工事中の大阪市立美術館の前を歩く。今はすっかり疎遠になってしまって、連絡先も定かではない。共通の友人、もいるにはいたが、やはり疎遠になっている。

確か最後はヘルシンキ、そんな異国の街に彼が旅立つ前に会っただろうか。もう何年も前のことだ。ちゃんと日本を出国できただろうか。いや、出国はできるのだろうが、ちゃんと入国できただろうか。当時、私はふとそんなことを心配したのだった。

絵金、良かった。二曲一隻屏風、浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森。初めて見る生の絵金。その迫真の力に私は総毛立った。

点数はそれほど多くないようだが、土佐で毎年夏に行われるという絵金祭りを模したキュレーションが面白い。薄暗い中に灯りが点り、闇の中に絵金の「血赤」が怪しく映える。

やはりグロいのが苦手な人や、お子様には刺激がキツいかも知れない。芝居絵、つまりは時代劇だから刃傷沙汰や切腹、自刃、生首なんてのがバンバン出てくる。切腹した腹から内臓が溢れ、自刃した首から鮮血が滝のように流れて落ちる。ヒィーって、かくいう私もグロいのは苦手。

土佐の絵金ゆかりの赤岡町の絵金祭では、そんな絵を、街中のあちこちに展示して老若男女が鑑賞して楽しむというから、なかなかの奇祭。

絵金の芝居絵。芝居絵はつまり歌舞伎、浄瑠璃などの物語を下敷きにした絵だけれども、いつも思う。でも侍の時代ってこのくらいドぎついよねって。それはちょうど、お茶漬け食って酒飲んで、ごろんと昼寝していて起こされて、あ、もうそんな時間? とか言ってサクッと切腹しちゃう鴎外の『阿部一族』に見る異様さ。あるいは山中義秀の『土佐兵の勇敢な話』の凄惨さ。(堺事件は鴎外も書いているし、漫画なら平田弘史の『日本凄絶史』これも凄まじい)実際はいつも血みどろで、我々が見せられ来たTVの時代劇でキンキン、ビシ、うわぁ、バタ。なんてシロモノじゃないのだ。私はグロいのは苦手だが真に迫ったものは好きだ。

平日にも関わらず、かなりの人だった。上方は文化が豊かでいいですね。血みどろ絵金。そう言えば数年前、兵庫県立美術館でやった「怖い絵展」(残酷な絵多数)なんかも大盛況だったと言うから、皆さんお好きですよねえー。

ミュージアムショップで目当ての画集を買う。グッズもある。絵金さん、ここぞとばかりにコラボしている。チロルチョコとかいろいろ。衝撃なのがミレービスケット。この土佐名物のビスケット。めちゃくちゃ美味くて、私もよくコーヒーのお供に買うのだけれど‥‥‥

いやいやあかんでしょ。「ね、お母さん、オヤツは?」「ミレーがあるでしょう。それ食べといて」「ギャ〜!」鮮血ドバーッてあかんやろコレ。なに血みどろでコラボってるねん。(花上野誉石碑 志度寺 乳母お辻烈婦像)

さて帰りは通天閣の下、昼過ぎ、伽藍堂の、暗い店内で観光客よろしく串カツを食し、炭酸水を飲んでまた考えた。私に絵金を教えてくれた友人はどうしているだろうか。

狭い六帖ほどの居室兼仕事場で、「これがね、ごっついんですわぁ」と彼は禁書でも見せるように、爛々と眼を光らせて絵金の画集を私に見せてくれた。

衝撃を受けた。腹を切る男、滴る鮮血、乱舞する童。下敷の芝居絵の背景や筋が分からぬから常軌を逸したその絵は余計におどろおどろしい。しかし同時に私にはコレや! この迫真や! という興奮があった。極彩色の絵金の屏風絵、それを開いて見せる彼の脚にもまた極彩色が地続きで広がっていた。

外国の入国シートには身体の特徴なんかを書かされたりすることがある。彼は大丈夫だったろうか。彼は全身が極彩色で覆われている。でも大丈夫だろう。彼はヘルシンキのタトゥーイベントのguestとして呼ばれた彼の師匠の同行者なのだから。

彼もまた、絵金と同じく何度か名を変え、いくつか名前を持っている。彼ら彫師は大抵の場合、彫◯と名乗る。ここでは仮に「彫真」としておこう。

彫真、今どうしている? すまん、借りたオルダス・ハクスリーの『知覚の扉』は結局預かったままだ。素晴らしい本だった。いつかの部屋の漏水で濡れてしまったので、もし会えたら新しい本を買って返す。それに読みたがっていた俺の小説もオマケでつける。

「絵金祭、いっぺん行ってみたいんですよねぇ」と言っていたっけ? 七月。コロナから復活した去年に続き、今年もやるようだ。行こうや。俺もゆこかな。天王寺から高知まで、絵金を追いかけて。

ところで俺も今は名前を変えている。歳食ってちょっと見かけも変わってるかな。だから分かるように俺は「三蔵帽子」被ってるから、もし祭りで見かけたら声を掛けてくれ。あ、それから七月は宵でも暑いだろうけれど、ちゃんと長袖、長ズボンで来るんやで。

松永K三蔵

※七月の絵金祭はルポ風のエッセイにまとめたい。

021 ルッキズム的なもの

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流行りコトバというものは取り扱い注意だと思いながらも、指さきで摘み上げるようにして覗いてみる。するとそれらは大抵、既存の看板の付け替えで、実はそれほど新味があるわけじゃない。

「ルッキズム」だってそうだ。それは故事にもあらわれているように、昔からそんなことへの問題意識がずっとあったわけで、逆にそんな視覚偏重の止み難い連綿が人間にはあるのだというゲン然たる事実こそが重要なのだ。

あんまり原理主義的なことを言いはじめると化粧品や装飾品、衣服だけでなく住宅や道具に至るまで、その意匠性を否定され機能一色に塗りつぶされる。そうなると「機能」はその解釈に新たな概念を付与されることになるに違いない。意匠もまた機能であることは明白なのだけど、ムダなものを軽視するのはディストピアの先駆けで、その先はひどくバカバカしい話になるので、なにごとにも加減が大切。

美しい、醜い。いわずもがなそんな言葉も変わり、言葉をとりまく環境も変わり、同じ言葉もその意味づけがコロコロと変遷する。結局変わらないのは人間の本質と其々が手前勝手に捉えているバラバラの概念というやつだ。

そんなことを考えていて、ふと思い出したのは、かつて(2年前くらいか)ネットで話題になった"宗谷の蒼氷"さん(ちょっと読み方がわからない)という美人ライダーだ。いや、正確には若い美人ライダーが、実は50代のおじさんだったいう、あれだ。

画像のアプリ加工で肌ツヤ綺麗に、などというレベルではなく、年齢も性別も変わっている。もともとこのおじさん、ちょうど(敢えてここの註釈は省くが)セバスチャン・バックみたいなストレートのサラサラロングヘアーなのでややこしい。その50代のおじさんはSNSの画像の中で、まんまと美女ライダーに変身していたのだ。

少しタレ目で親しみやすい印象の、とってもかわいい女性(に見える)。中高年男性の愛好者が多いバイク界ではかなり目立つだろう。しかも走るだけでなく、おじさん顔負け、エンジンバラしなどのバイクいじりまで。そのギャップに多くのファンが出来たはずだ。

もしかしたら、そんな「彼女」との遭遇を狙って、SNSに残る写真から予測した走行ルートに向かった男性ライダーも少なくはなかったんじゃなかろうか。

その後、ご本人は「本当の姿」を自らバックミラーに映り込ませて、ネタバレ。それはネットでも話題になって、後にテレビでも紹介された。

もちろんこれは悪意でなく、バイクの魅力を伝えるネタとして始めたということだが、ベッドの中から肩出し、上半身裸を思わせるサービスショットまで載せていたので、完全には無罪とは言えないだろう。

この話で興味深いのは、ネタバレしたあとに怒って攻撃的なメールを寄越す人が多数いたということだ。騙したな! ということなんだろうが、一体彼らは何を失ったのだろう。

彼らの中で、あのかわいい美人ライダーは一瞬にして消失したのだ。しかし亡くなったわけでなく、変わったわけでもなく、存在自体が消失した。いや、はじめから無かったのだ。まるで存在と認識についての本質に触れたようだ。しかし奇妙なことに事実は変わらず、何も失っていない。ただ光学の補正で「彼女」として見えていたが、実体のおじさんライダーは尚も存在し、走り続け、エンジンをバラしている。彼らは何を失ったのだろう。

美人ライダー。美人・ライダー。つまり美人は失われたとしても、ライダーは残っている。バイクのカスタムや、スタイルが渋いなどと言っていたんじゃないか? 必ずしも外見だけに注目していたわけじゃないと言っていたじゃないか? それでもライダーだけではダメで、やっぱり美人がついていなければ‥‥‥、ということだろうか。美人でライダーで、そのギャップが良かった、のだろう。しかし言い訳けをしてみたところで、結局はみんな外見に囚われていた。そもそもそうでなければ、こうして話題にもならなかったのだから。

さてここで、ヘアピンカーブを無理矢理曲がって小説について。

美人だとか不美人だとか、近年では小説の人物の容姿について否定的に(それでいくと肯定的なのもマズかもしれない)描写することに批判的な声もあるわけだ。

「描写」は(もしかしたら筒井康隆先生の作品あたりで一切の描写を廃した実験小説があるのかも知れないが)通常の小説技法としては必須だろう。形質についての正確な記述というのは描写ではない。描写は無味簡素な説明書きではないので、そこには社会的、文化的、時代的構造を背景とした書き手(語り手)の認識、表現のバイアスが入る。そしてそれは読者とも、ある程度の範囲での共有を前提として書かれている。そこにズレる恐れがある場合は(古典作品や外国文学にあるような)註釈が附録されるわけだ。セバスチャン・バックって誰だよ? つまり純粋な「描写」というものはあり得ないのだ。

美的感覚についてもまた同様で、やはり社会的、文化的、時代的構造からは免れない。絶対性というものを放棄した現代においては誰も(正しい)判断できないわけだ。結果的に大多数の意見(強いものの意見)が「正しい」ものになるのだが、それは本質的なものになり得ず、判断は常に誤謬を孕んでいる。という前提があるにも関わらず、やっぱりそれにストップがかかる。

美しさというものは貼り付けられた一枚の画面でなく、私は多面的で動きのあるものだと思っている。醜いものが美しく見えたり、美しいとされるものがある瞬間にはひどく醜かったり、揺れる水面の反射のように、見る方向によって見え方も異り、常にそれは移り変わるものだ。

誰かの美醜の判断という行為もやはり一面的で一時的なものなのだ。そんなことはわかりきっている。そもそも書き手(語り手)などはハナから所謂「信用できない語り手」という前提でよいのじゃないか。もしかしたら世間には書き手に対する過度な期待、というか信仰があるんじゃないだろうか。公共性と言った方が良いか。Publish(出版)は語源であるのPublic(公共)なのだけれど、小説も大説に対する小説でもあるわけで、小説表現にあまり目くじらを立てるのもどうなんだろうか、とか思うけれど面倒なことに巻き込まれると怖いのでこのへんで。いや、あと少しだけ。

しかしその大きな確固たる社会、或いは国家、時代の枠組み(社会的、文化的、時代的構造)に無理やり押し付けられた「醜い」者の哀しみを小説こそが描かなければ、小説(純文学)はなんであろう。いや、だから今もその枠組みによる無自覚な偏見と誤解のもとに傷つけられている被害者がいるんですよ! この三文文士! とやっぱり怒られそうだが、確かにペン先は鋭い。鋭くて、時に人の心を容赦なく抉って傷つける。しかしそれはペニシリンじゃないけれど、毒でもあるが薬にもなるものを無くしてしまおうということにはならないはずだ。

厳然とあるその問題を、無いもののように無視して振る舞い、影も消失するほど過剰にライトを照らし、ホワイトアウトした世界というものを果たして我々は望んでいるのだろうか。

それにしてもあの美人ライダーは本当にかわいい。