018 Unplugged/Connected 後編

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017の続き☞

スマホというものはオンラインであるからスマートなわけで、それはコネクト、繋がっている状態だ。作業ツールとしてスマホを使うということもあるけれど、調べたり、連絡したり、何かを視聴したりするのはやはり繋がっている状態だ。文字通りSNSで繋がりを求める人はもちろん、そうでない人も配信や更新など、オンラインサービスを求めている。我々はもはやオンラインじゃないと生きていけなくなっている。だから、そうじゃない奴、「オフライン」の奴を見ると奇異に思い、不安になるのだ。

90年代前半、世界のミュージックシーンでUnplugged(アンプラグド)ブームなんてものがあった。謂わばアコースティックブームだ。誰が先駆けだったのか。しかしハイライトは間違いなくクラプトンだろう。『Tears in Heaven』ほもとりより『Lyla』のアコースティックな解釈はやっぱり良かった。ジミーペイジとロバートプラントのコンビ。あ、イーグルスも素晴らしかった。Unplugged。そんな言い回しも日本語の感覚からすれば気が利いている。直訳すれば「プラグを抜いた」。つまりアンプに繋いだりエフェクターをかけたりする電子機器じゃなく、繋がない楽器で演る、というもの。(エレアコは使ってんだけどね)

そんなことをKISSなどの所謂ロック勢がやったというのが痛快だった。極め付けは当時のシーンのアイコン的存在のニルヴァーナだ。大御所を含め、そんな彼らは揃って「プラグを抜いた」のだ。それは、54年のフェンダー社のストラトキャスター登場以降、60年代、70年代、80、90。これまで倍加させるように拡張し、加速し疾駆してきたシーンへの抵抗のように。ヘッドを右に、アコギを構えたカート・コバーンの顔はやはり静かだった。

我々は常にスマホというプラグに繋がっている状態だ。コンセントに繋がって闘わなければならないエヴァンゲリオンを気の毒に思いながらも我々はやっぱり繋がっていないと不安になる。アンプラグド。(何もせず)繋がらない状態というのはどういうことなのだろう。

私はひとつの異端的な考えを、しかしそれをほとんど確信的に持っている。

我々は、繋がっていない時にこそ繋がっている。(そう、大抵世界はパラドキシカルに成り立っているし、時代とともに社会の構図も生活の様式も変化していくけれど、本質的にはやはりそのように構成され続けていくのだ)

何もせず、フォーカスを解いている時の我々の意識は外に向かって自由に開いている。それは無意識に世界と繋がっているのだ。と私は考え、またそう感じている。

は? とそんな私の主張を奇妙に思う人も、逆にスマホを触る時、それらは閉じられ遮断されている。そういう言い方であれば、納得する人もいるんじゃないだろうか。我々は何をしていなくとも、いやしていない時にこそ、世界に接続され、触れ、感じ、更新され、享けているのだと私は思っている。

宮本武蔵は髪の毛にぶら下げた米粒のみを太刀先で斬ることが出来たという。そんなバカな。それは逸話だ。マジメに取り合うな、と。しかし私は、劇画の中に出てくるようなそんな古の剣術の達人の超人的な能力は必ずしも誇張ではないと考えている。暗闇に敵の気配を感じ、「ん? なに奴!」というアレなどは朝飯前なのだ。随分夢見がちな奴だと思われるかも知れないが、例えば18世紀あたりまでは今よりもっと人間は、アレコレに阻害されず繋がって、特に研ぎ澄まされたごく一部の人に至っては、そういう超人的な感覚や能力を持ち合わせていたのだと思う。

いや、でもホントは今もちゃんと繋がっている。ただ我々はアレコレに(スマホとか)に邪魔されて、それを意識できないでいるのだ。現代にあっても分野を問わず、天才とされる人たちは超人的な感覚を持ち合わせている。スポーツ選手が、相手のモーションが超スローに見えたり、自身を俯瞰して見えたり、勝利の瞬間をシミュレート出来たり。将棋の羽生さんは集中の極度に達すると棋盤が光るのだと言う。芸術の分野はどうだろう。ミュージシャンならば夢の中で音楽を聴き(カート・コバーンも間違いなくそうだろう)、小説家なら原稿の上で物語が自ずと動きだし、未踏の世界に導かれる。

こういった働きは、繋がっている時にこそ起こる。だから私は、「何もしないこと」それを意識的に選択するということは非常に意味深いことだと思う。(それに生涯をかける人々もいますよね)Unplugged/Connectedだ。

何も誰しもが超人的な働きを求めている訳じゃないだろうけれど、少なくとも小説を書いたり、創作する人にはこれは必須だと思う。以前の記事「006 万感描写」でも書いたように、我々は万の感覚の中で生きている。何かを創作するということは、この世界を感じ、わたくしを綯い交ぜ、溶かし、濾過して、掬い上げて絞り、絞り絞ってやっと一滴。毎日それを集めて創っていく。そういうものじゃなかろうか。

これをあまり詳しく書くとヤベぇ奴だとバレるので、このあたりにしておこう。ということでUnplugged/Connected。今、私はこの記事をスマホで書いている。しばしスマホを置いて、創作ノートを開こうか。と、久しぶりにニルヴァーナの『About A Girl』のアンプラグドver.をYouTubeで聴きながら。

松永・K・三蔵

017 Unplugged/Connected 前編

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アンプラグド/コネクテッド

例えば10年前と比べた時、明確な風景の変化のひとつに通勤電車の車内があるだろう。
当時、乗客は本や紙の新聞を読み、寝ていたり、あるはい何もせず、窓の外を眺めていたりしたのだ。
若い人は驚くかもしれないが、昔はそうだったのだ。何もせず外を眺めている人も結構いたのだ。しかし今はどうだ。すっかりそんな通勤電車内の風景は変わってしまった。

因みに私は小さい頃、ひとりで電車に乗って幼稚園に通園していたのだが、乗っている間ずっと窓の外の景色の中にロボットを出現させ、そのロボットが街を破壊しながら電車と並走する様を空想していた。それが何より愉しかった。そんな危ないガキだった。

さて、通勤電車の乗客はいくつかの派閥に分けることができる。近年の通勤電車の各派閥の勢力状況を見てみよう。

まずは一大勢力、スマホやタブレットなど電子端末機器に顔を沈めるスマホ派、それが8割。1割は(実のところはわからないが)とにかく眠る、睡眠派。そして残り1割が本や新聞を読んでいる読書派。というのが定職の仕事場まで毎朝通勤する私の観察だ。これはあくまで関西。東京には超満員の電車にただ耐えるストア派がいるのだろう。

それにしても通勤電車の定番だった読書。とにかくこれが激減した。そんな読書派は今となってはほとんど希少種と言っていいほどで、車内にいれば、あ、本を読んでる! というくらいに目立つ。因みに読書派の新聞グループに関しては車内ではほぼ絶滅したんじゃなないだろうか(本は絶対紙派の私も、紙の新聞はデカいし保存できないのでwebがいい)。流石に私もその1割の読書派だ。ま、たまにYouTubeも見るけどね。

とは言え今回の記事はその激減した車内の読書派の情勢を嘆くというものじゃない(それはまた今度)。

ほとんどの乗客がスマホを覗いている車内で一際目を引くのは、その読書派ではなく、実は、「何もしていない」という閑暇派だ。近年この存在は、ほとんど伝説の域に達していて、お目にかかることはめったとない。しかし確実にいるのだ。閑暇派。日常の煩瑣なアレコレにアクセクし、スマホに操られている我々は、稀に彼らの姿を目にすると、え? と驚き、戸惑いすら覚える。

何もしない。そんな態度が与える影響の大きさをひとつ紹介しよう。

ある日、私は昼メシにお好み焼き屋に入った。(Twitterをフォローしてくれている人は知っているのかも知れないが、私は大のお好み焼き好きで、一日中図書館で原稿をやる時は、たいてい昼にお好みを食う)その日もやはりお好みを食べに図書館の近くの店に入ったのだが、その時私はスマホのバッテリーが切れていて、また文庫本も持っていなかった。

ちょうど昼時で店はひどく混んでおり、私はカウンターで私の豚玉が出てくるのを待った。その間ずっと私は何もすることがなく、ただ黙然と座っていたのだ。店内を見る。店員を見る。メニューを見返す。水を口に含む。おしぼりで手を拭う。そしてやはり何もせず私はただ豚玉を待った。同じカウンターにひとり座っていた女の人はもちろんスマホを見ている。

そのうちに店長らしき人がソワソワしはじめ、チラチラと私の顔を見ているのが分かった。な、なんで何もせえへんのや? そう店長の目が問うている。いや、私だってスマホを見たいんだ。YouTubeとかWikiとかインスタとか見たいんだ。が、バッテリーが切れている。ただの黒い板を見ても楽しくない。私はまた店を見廻す。書いている小説を頭の中で展開してみる。店長がまたチラと見る。店員に指示を出す。豚玉どないや? とでも聞いているのか。しかし店は混んでいる。二〇分ほど経ってもなかなか出て来ない。そんな状況で、カウンターに座った何もしない男。それは店に相当なプレッシャーを与えたに違いない。しかし私だって嫌がらせで何もしないわけじゃない。店長はやはり私をチラチラと見る。北大路魯山人、服部、、、いや海原雄山、村田源二郎。もしかしたら店長の脳裏にそんな名が浮かんだやも知れない。カシャーン! と店長がコテを取り落としたのは決して無関係とは言えまい。いや、大丈夫だ。店長さんよ、安心してくれ。俺は食レポライターとかそういう手合いじゃない。お好み焼きは時間かかるよな、混んでるし。落ち着いて仕事をしてくれ。

た、た、大ッ変お待たせしました〜! と豚玉を出した店長はすっかり狼狽していた。肝心の味がイマイチだったのはそんな焦りの所為だというのとにしておこう。

何かをしていること(つまりそれはスマホでニュース記事を読む、買い物、動画鑑賞、あるいは読書、調べもの、SMS、連絡、仕事etc)が当たり前になった我々にとって「何もしていない」人物というのは甚だ不可解な存在なのだ。

何もしない。そんなことに我々は縁遠くなり、すっかり耐性を無くしている。何もしない。我々の生活にかつてあった「間」というものは全てスマホに噛まれている。若者に「間」という概念が理解されない時代が来るのではなかろうか。(と、このテーマもまた今度)

さて、そんな通勤する車内の閑暇派。彼らは希少だ。そしてたぶん現代においては、おおよそ「普通」ではないのだろう。座席に背を凭せて視線は中空に緩く遊び、あるいは窓の外に向けている。余分な力は抜けており、その顔は静かだ。我々はそんな彼らの立ち居振る舞いにどこか優美さ、閑寂、静謐、そんなものを感じるはすだ。我々に等しく与えられているはずの時間ですらその歩みを緩めるかのような彼らの存在は、アインシュタインの物理理論を思い出させる。…………。

閑暇は哲学の母と言ったのはホッブスで、多忙はひとつの怠惰であると言ったのはベーコンだ。古来より閑暇は哲学の沃野であった。過酷な人生への悲嘆と絶望がその種を植えたとしても、やはりそこに思考の鍬を入れ、耕すための閑暇が必要なのだ。ギリシャの哲人は日常の面倒臭いアレコレをすべて奴隷に任せ、美少年を愛し、思索したのだ。アリストテレスは閑暇の重要性を説き、あのニーチェだってそうだ。よく知らないが、F・シュレーゲルとかいう18世紀のロマン派の詩人、思想家は閑暇を讃美する詩までつくったそうな。以下引用。

"なんじは無邪気と感激とのいのちの空気であ  る。幸福なる者、なんじを呼吸し、なんじを胸に抱けるものは幸福である。なんじ聖なる宝玉、楽園の形見として残れる、神に相似せることの唯一の断片よ。"

さすがロマン派。なんかスゴい……。何もしない。とはどういうことなのか--。 ということで長くなったので、つづく☞

松永・K・三蔵

016 はじめた瞬間、終わっちゃうんよなぁ感覚。

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貴船山にて

待ちにまった旅行の前夜、あるいはその道中、不意に「でも終わっちゃうんよなぁ」感覚に襲われる。愉しみの只中に、あるいはそこに足を踏み入れる瞬間に、何かふと冷たい布で顔面を撫でられ、愉しい気分に水をさされるような、あの感覚。

あの感覚はなんだろうか。元来私はひどく楽天家で、あまりの能天気さに呆れられ、たしなめられることが多いくらいなので、沈鬱な面持ちで、未来を暗がりに沈めて見るようなペシミスティックなことはしないのだが‥‥‥。それでもどうかして、愉しいことをはじめようとすると、そんな不意の寂寞がやってくる。余所行きの外套の裏地のようにペタリと貼りついてくるそれはなんであろうか。

無常感、なんて大袈裟なものでなく、禍福は糾える縄の‥‥‥、いや、そういうこととも少し違う。愉しみに懦い心が構えるのか。過ぎ去った愉しみを思い返すだけの"日常"への備え? いや、そうでもない。

愉しみ向かう自分を、ふわりと浮き上がって遠く俯瞰しているような、そんな醒めた目に近い。

そんな感覚を引き摺りながら私は夏休みを過ごした。京都に向かい、叡山電鐵で京都の町の北部、貴船山にひとり登った。

街に戻ってからはホテルの近くのコーヒーショップで朝晩原稿をして、三高時代の織田作ゆかりのSTARに行ってやっぱり原稿をして、焼肉を食べ、ラーメンを食べ、そしてやはりそれは過ぎ行くのだけれど、終わってゆく愉しみ最中、それを自ら切断し、切り取り、コマ送りのように瞬間、瞬間の「終り」を感じ、痛み、滲み、歯軋りするのだった。

まったく子どものように熱狂し、白熱し、時を忘れられればよいのだけれど、愉しみのウラにあの”日常”を忘れない。これが大人の”疲労”というものだろうか。そうかも知れない。

昨晩、今朝の原稿の微妙な出来に落胆し、ホテルに戻り、荷物をまとめチェックアウトする。そうして私はまた”日常”に帰って行くのだが、すると今度はまた意外にも肚の底でふつふつ噪ぐものがある。それは期待感のような、心が躍る感じに近い。

そこで私は気づく。私の感じていた感覚は、大人の”疲労”なんて、そんな臈長けたものでなく、私の中の、寧ろ若い心が、ともすれば浅ましいほどの貪婪さが、あらゆる感覚を貪ろり食ってやろうと騒いでいたのじゃなかろうか。

私はいい歳して、ひとり焼肉を食べた翌日にラーメンを食べるような強慾な性質だから、愉しみはもちろん「終わっちゃうんよなぁ」の哀切も味わい尽くしてやろうと、手を擦り合わせながら興奮していたのだろうか。落ち着けよ。

少しはそんな反省をしながら、私は阪急電車京都線特別仕様の「京とれいん」で帰ろうとしたが、目当ての電車は過ぎ去った後であった。

松永・K・三蔵

015 ルシア・ベルリン

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ちょっと、タイトルイラストは少女漫画みたいになったが、勘弁してくれ。

私は「描く」方じゃないから。それに、女の人は難しいんだ。

それでも、本の表紙の写真を参考にしながら描いたイラストのルーが、写真よりもワルそうで悪戯っぽく嗤っているのは、それはそのまま「私の」ルーだからだ。

先々月、『掃除婦の–−』の文庫本も出て、そして今回新しい本『すべての月、すべての年』が出た。乗るしかない、このビッグウェーブに。というわけじゃないが、私もルシア・ベルリンに衝撃を受けたので、改めてご紹介。

「群像 2021年6月号」で私も名前だけルシアと”共演〟(フェスならば楽屋ですれ違ったようなものだろうか)して、その‶アクト〟を聴いて、うーっと唸ならされて単行本も買った。それから読んでまたうぅーっと唸り、文庫本も買った。文庫本は付箋と傍線だらけ。装丁の美しい単行本は大切に置いておこう。内表紙のブルーグレーが美しい。

私は今、また改めて読みながら単行本に貼った大量の付箋を移植して、文庫本に傍線を引きまくっている。これはひとつの古典になると私は思う。少なくとも私の中ではすでに重要な意味を持つ古典なのだ。

ルシア・B・ベルリン。読者としてもこの作家の作品群に魅了されたが、書く側目線で見ても、とにかくこの人は、めちゃくちゃ巧い。日常に材を採りながら私小説風に書いているから、一見そこまで技巧的には感じないけれど、文章のリズムとテンポ、要所要所で指し込まれデティールの濃度、の後に展開される筆運びの軽妙さ、ユーモアとウィット。その濃淡の絶妙なバランスと間合いが読んでいて心地良く、からだの中に響いてくる。と、もちろんこれは訳者の岸本佐知子さんのお仕事に拠るところ大なのだろうけれど。

『いいと悪い』『さあ土曜日だ』『ソー・ロング』、、、。タイトル作以外も最高だ。また、作中人物もたまらない魅力がある。ドーソン先生、ママ、ベラ・リン、マックス、ジョン叔父、そしてCD。思い出しても私は泣く。

どれを読んでもこの作家だとわかるってのは、――これはとても、重要なことだけれど、ルシア・ベルリンほどその匂いが強い人もなかなか稀じゃないだろうか。

掴まえようとしても、するりと抜けて、ルーは既に二歩、三歩、道の先からこっちを見て嗤っている。どこか乾いた余韻を残したまま。

メキシコ。Hola、ナチョスにライム、エル・フィニート、リカルド・ロペスそんなことを勝手に連想し、うっかりしていると、鋭い一撃。パンッと抜けるようなラスト一文、キレのいい‶左ストレート〟をアゴに貰って腰を落とされる心地良さ。これはもうバランス感覚というか、センス、呼吸なのだろうけれど、ちょっと私にはそれが――全く生意気だけれど、悔しいと思うほど、良かった。困るほど良かった。

特に、タイトル作『掃除婦のための手引書』、鳥肌がたつほどのラストの一文。やっぱりこれの原文が知りたい。英語ではなんて書いてあるのだろう。そんなことも気になって、ドイツ語再履修だった私も英語ならばギリギリなんとか…‥。そう思って、今、私の机には原書もある。

困るくらい良いというのは、どういうことかと言うと、それは稀に起るのだが、ヘコむくらいに良いものだ。

偉大な文学作品、それは遠く、遥か見上げるような高峰のようなもので、その威容は風景の如く、心安らかに素直な感嘆を持って眺めていられる。谷崎大壁、三島峰、中上峠に、ドスト渓谷、ジイド高原、魔の山"マン〟――。けれど、たまーに、テーマにしても手法にしても、嗚呼、俺もこういう小説が書きたいなー、なんて溜息がでるほど強く思わされるものがある。自分が進もうとしている文学の野辺に、不意に先人の跡を発見した時は、悦びよりも寧ろ激しい動揺を感じる。お前ごときが何をと哂われるかもしれないが、当のルシアだって、埋もれていたというじゃないか。あるよねそういうの。うん、あるある。

ルシアの小説を読んでいると、少し私はワルくなる。私は真面目で、慎ましく、(たまにそれを全否定する友人もいるが)少なくとも多くの知人にはそう認識されているはずだ。が、そんな私も、いや俺も、実はやっぱり悪党で、ロクデナシのクソ野郎なのだが、でも俺はそれでもいいんじゃないかなって、ルシアの小説を読むと何故かそう思える。

作品の語り手(主人公)は、おそらくそのほとんどがルシア自身なのだろうけど、彼女は悪態をつき、アル中で、(これは別にOKだけど)何度も結婚離婚を繰り返し、ひとの家のモノをくすね……そんなルシアはなかなか"ビッチ"だけれども、どこまでも最高にチャーミングで魅力的だからだ。

ルシアの作品はどれだってルシアだ。指先に煙草を揺らしてルーは笑っている――。煙草はやめた。酒も飲まない俺は、せめてエスプレッソ並みに濃くしたコーヒーをガブ飲みし、少し酔って俺の小説を書いてやろうと思う。

松永・K・三蔵

014 単純でいいこと

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ロシアがウクライナに軍事侵攻している。虚実入り乱れ、あらゆる情報が飛び交っている。「自衛のため」というのがロシアの主張だけれど、核兵器で威嚇し、国内の反対派を拘束したり、言論弾圧をしたりしている時点で説得力は乏しい。しかしいつも西側の文脈の中で、物事を二元論的に解―—。

小説家、文学者が知的エリートであり得たのは、たぶん昭和初期の頃までじゃなかろうか。(もちろん今も立派な方はいますけれど)

いち物書きの私は、物書き以上のことを言うつもりはないし、言えもしない。常にニュースにアンテナを張り、新聞全紙に目を通し、NYT国際版までも読んでいる、わけでもなく、国際政治学を学んだこともなければ、外国で暮らす何人かの知己はあるけれど、どこかに独自の情報源を持っているわけでもない。

私がやっていることと言えば、毎日小説を書き(定職に就いてマジメに働いてはいるが)睡眠時間も含めて、ずっと小説のことばかり考えている。私は物書きだから。

物事というのは複雑だ。誰もが目に出来る表皮があり、裏があり、中身があって、核心もある。また実はそれが裏返っていることもある。世界情勢もまた複雑で、政治もまた複雑だ。一般人が触れることのできない高度な国際インテリジェンスがあって、記録されない真相があり、報道されない(出来ない)とんでもない真実があるのは、歴史の中で見ることができる。それ故、何でも安易に批判をすることには注意が必要だと思う。案外「バカな政治家」が、人知れず巨悪と闘ってくれちゃっているかも知れないし、――そうじゃないかも知れない。

政治はやっぱり複雑だ。こと国際問題になるとグレーで曖昧で、非常に微妙だ。単純化できない難しさもある。その単純さが暴走すると、狂信的なナショナリズムに火がついたり、今回であれば「ロシア」と名の付くものを排斥するような思考停止のような行為にまで及ぶからだ。

でも、単純でいいこともある。戦争については単純でいい。

これは単純でいい。寧ろ単純であるべきなのだ。赤ちゃんからお年寄りまで全世代、なんだったら犬猫、ペット、すべての生き物が、誰だって単純に考え、単純に感じ、単純に意見すべきなのだ。戦争については単純でいい。これを複雑にしようとするのは政治のレトリックなのだ。

小説に何ができるか。書くことで何ができるか――。

小説家を志した一〇代の頃、私はそんなことずっと考えていた。それは、「なぜ書くのか」という書くことの本質に繋がるからだ。どんな偉大な文学作品も、飢えた子どもひとり救えず、現実生活においてパン一枚にも劣る。分厚いトルストイの『戦争と平和』の上中下巻を重ねたって、やっぱり銃弾は防げないのだ。「死んでいく子どもを前にして『嘔吐』は無力だ」と語ったJ.P.サルトルの参加(アンガージュマン)の問題は今日もやっぱり生き続けている。――小説は無力だろうか。

戦争については単純でいい。言葉というものは代用品で、「戦争」という言葉もやはり代用品だ。

通常、この国の我々が知ることのできる戦争は、過去から選られ固定されたものか、あるいは映像で視る、夜空に飛び交う閃光であり、死体のない崩壊した都市だ。一見それは、簡素に切り取られた情報だが、それは「単純さ」ではなく、寧ろ幾重にも意図が凝らされた「複雑さ」だ。

そんな「複雑」なもの(あるいは複雑になってしまったもの)を「単純化」することは、小説の根源的な役割じゃないだろうか。仮に小説がどれほど難解な文章で書かれ、また晦渋な物語であったとしても、それが小説という形式で書かれている以上、やはりそれは「単純化」されたものだと私は思う。埴谷高雄やW.フォークナーが書くものも、難解さに導かれた「単純な」物語だ。今回、改めてサルトル周辺の本を読み返していた。その中で読んだS.ボーヴォワールの言葉をひとつ引いておこう。「文学はわれわれのもつ最も不透明な部分に関して、われわれを互いに透明にしなければならないのです」(文学は何ができるか サルトル他/平井啓之訳 河出書房)

本質的な意味において小説は書物でもなく、また言葉でもない。もしかするとそれは実態のない波のような〝作用〟であるのかもしれない。それは言語を媒介として読み手の中に流れ込み、想像の中に立ち現れる。そして想像を起動させるのは「単純化」された物語だ。

戦争については単純でいい。寧ろそれは単純でなければならない。

戦争は、単純に人と人の殺し合いだ。「戦場」という場所はなく、「兵士」という人間もいない。幸せに暮らせたはず家族と「大丈夫だよ」と抱き合って別れた父が、夫が、あるいは母や妻が、それぞれ武器を取って殺し合う。幼い娘がいる父親を殺す。恋人がいる若者を殺す。病んだ母親をもつ息子を殺す。幸福と健康を祈られるべき子どもたちが、親から無理矢理に引き離され、殺され、傷つけられ、火傷を負い、腕を失い、脚を失う。心にも体にも癒えることのない傷を負う。

どんなイデオロギーがこれらを正当化できるのだろうか。どんな論理が我々を納得させてくれるのだろう。どんな教義が我々に答えをくれるのだろう。少なくとも私は、そんな答えは聞きたくないし、政治哲学の議論も、人類史の話も聞きたくない。誰も殺したくないし、殺されたくもない。単純に、人が行うこんな救いのない愚かな惨劇を受け容れたくない。

それでもやがてアカデミズムが、長衣を引き摺り後からのっそりやって来る。そしてまた「複雑な」物語をつくる。いくつもの「単純さ」を省きながら。それはうまくバランスがとれた、我々を寝かしつけるような物語だ。

残念ながら、生きるということは、少なからずその「複雑さ」に侵されることなのだと思う。誰もがどこかで無自覚に取引し、呼吸するようにその「複雑さ」を受容しているし、既に我々は享けている。その意味において誰もが免罪ではない。そのことに無自覚な人、その後ろめたさや躊躇いを持たず、真っ白な旗を振れる人は、私は危ないと思う。たぶん次はその人が躊躇いなく人を撃つ。

「複雑さ」に呼吸しながらも、「単純でいいこと」の単純さを忘れてはならないし、問い続けねばならないと思う。小説は無力だろうか。それはやっぱりわからない。

書く動機というのは人それぞれだろうけれど、私は自分の中には「なぜ?」という怒りに近い問いがずっとあって、それが書くことに繋がっている。それは不条理と呼ばれるものかも知れないし、--いや、それもまた代用品だから、本当はもっと平易で単純なものかも知れない。現実世界に小説は無力かも知れないが、やっぱり私はいち物書きだから「複雑さ」の中で本日も「単純な」物語を書くことにする。

 

もうひとつ。

核攻撃を示唆するロシアのウクライナ侵攻が世界において非常な脅威であるのは間違いないが、忘れてはならないのは、「戦争」あるいは「紛争」と呼ばれる殺し合いは、今も世界の五〇以上の地域で継続しているということだ。「9.11で世界は変わった」などと言った識者に、2001年当時、私はとても強い違和感を覚えた。「何も変わらない世界」からその報道を見る冷めた眼を忘れてはならない。

先進諸国が持つ「世界はココだ!」という意識はものすごく危うい。その危うさは今回の「ここはイラク、アフガンでもなく、文明的なヨーロッパの街なのです!」などというCBSの報道発言に現れている。もちろん記者の言葉足らずだった面もあるのだろう。しかし現実に世界がそのような反応を示しているのは、残念ながら事実だと思う。これは非常に嫌な言い方だが、世界の残酷な実相であるので敢えて言う。〝真っ白なクロスのシミはよく目立つ〟のだ。2015年11月のフランスパリ同時多発テロにメディアは一斉に大騒ぎを起こし、「おおパリよ」と(余程パリに思い入れがあるのだろう)某女性タレントは嘆いたが、その言葉は、まさに「実相」を現す印象深い言葉だった。同じ月、ソマリア、パキスタン、トルコ、マリ、ナイジェリア……など、わかってるだけでも各地で16件のテロが起こっていたが、それらについては報道ではほとんど触れられない。誰かの痛みという「単純さ」において、それらは同じだということを我々は忘れてはならないし、小説が書くべきは、その等分の痛みであると思う。

松永・K・三蔵

013 小説における身体性

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実はオミクロンに罹った。(日乗らしいネタだ)

自分は大丈夫。なんて根拠のない自信が私にもあったのだが、罹る時はあっけなく罹る。即座に定職はストップになり、自室に缶詰。

大きな声で言えないが、こんな執筆チャンスが他にあるだろうかと秘かにほくそ笑んだが、それも甘かった。

症状が出て、陽性判定になり、そこからがキツかった。無症状なんて人もいるらしいが、とにかく目玉の奥を貫くような頭痛がして、悪寒と倦怠感で目をあけてられない。執筆どころではなく、本も読めず、映画も観れない。ひたすら眠い。ので寝た。

くっそー書きたい。とようやく起きあがったのが四日目。

怠さが残る身体をくったりと持ち上げて、机の前に座らせるが、書いているとすぐにしんどくなって続かない。

発見。けっこう執筆って体力使うのだなと。

病苦に苛まれながらも書いた人は凄いなと思う。身体が不調だと、なんだか文章も散らかってしまう。

身体で書くってのとはちょっと違うのかも知れないが、私も身体が不調だと筆もダメ傾向。これは関係あるようだ。

考えてみると文士なんかは、芥川に代表されるような、痩せ型の病弱の文弱派が多い傾向なんだろうけれど、たまーに、壮健、闊達な肉体派がいる。そんな肉体派をあげていくと面白い。

--肉体派。え、、っと、じゃ誰が強ぇーんだろ? なんて熱がある頭が『刃牙』みたいなことを考えはじめる。

三島由紀夫は肉体を鍛え上げたが、運動神経の方は絶望的になかったそうな。そう評した石原慎太郎先生(合掌)はスポーツマンで、強そうだ。

強いということで、思いつくのは中上健次。冷蔵庫を投げ飛ばすらしい。マジかよ。電子レンジならわかるけど、冷蔵庫って投げ飛べるんだ。スゲェな。ゴリラみたいで強そうだもんね。あと坂口安吾も強いよな。運動神経抜群だったみたいだし。まぁまぁデカい。あ、田中英光を忘れちゃいけない。なんてたってオリンピアン。そりゃ強い。なんて考えていくと、どうしても無頼派の系列になる。でも、たぶん最強は今東光だと思う。チンピラみたいにめちゃくちゃ喧嘩してたみたいだし、大山倍達仕込みで、極真カラテもやるようだ。

最近の人だと花村萬月先生も、なんか強そう。あ、丸山健二先生も、ごちゃごちゃ説明するより殴り倒す方が容易いのだ、なんて小説家らしからぬことをよくエッセイで書いている。故車谷長吉先生も匕首を部屋に秘蔵していたというから相当だ。(身体と関係ないなコレは)エンタメ界にまで広げると、、今野敏先生のようなホンモノの武術家も出てくるから、この辺にしておこう。

すまん、タイトルは冗談だ。熱があると、この様におかしな思考になる。やっぱり健康は大事だねって話。好き勝手に書く日乗なので許してほしい。小説に於ける身体性については、また元気な時にでも。

皆さんもコロナに気をつけてね。

※もう恢復してます。

松永・K・三蔵

012 小説家、菊池寛の凄さ

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12/26誕生日、ちょうど最近ふいと読み直してやっぱり実感。菊池寛の凄さよ。

もちろん「文豪」に違いないのだが、文藝春秋の創業者という実業家のイメージが強くて、(英語的表現で言うと)世間からもっとも過小評価されている小説家のひとりじゃないか、と私は思う。いや、ちゃんと文豪と呼ばれて評価されているだろうと言う人があるかも知れないが、私からすると全然足りない。芥川という天才の陰に隠れがちだが、菊池寛こそが天才なのだ。

何が凄いって、とにかく作品がめちゃくちゃ面白い。代表作はもちろん、作品が悉く面白いという打率の高さ。つまり野球で言うところの選手兼監督で、名監督でありながら、打ってよし、投げてよしの名選手。純文学、歴史小説、大衆小説から戯曲まで、なんでも書いた、いや、書けた。そんな多才ぶりも逆に「過小評価」の一因なのかも知れない。

若い読者からすると、いわゆる文豪の作品というと、格調高い名文と(なんとなく)高尚な雰囲気が、(なんかよくわかんないけど)良かった‥‥。なんてことになりがちだが、そこにくると菊池寛のテーマ小説は非常に明快でわかりやすく、面白い。そして読後には、確かな「問い」をのこしてくれる。若い方にこそおすすめ。

いろいろ書いた人だが、殊に歴史小説は凄まじい魅力をもっており、ほとんどが短編なので、私は何度再読したかわからない。歴史ものの硬質な文章ながら、書きっぷりは人物が生き生きとして瑞々しい。「恩讐の彼方に」、「忠直卿行状記」などの代表作は今さら私が紹介する必要もないだろうが、未読の方は是非読んで頂きたい。

ここでいくつか紹介するが、これはあくまで私の思いつきで、この他にも代表作に劣らぬ素晴らしい作品がいくつもある。

『恩を返す話』

島原の乱に材をとった作品。戦場で、心ならずも、“いけすかない”仲間からいのちを助けられた甚兵衛。その借りを何とか返そうとする話。歴史小説だが、ここに描かれているのは、疑念、嫉み、躊躇い、他ならぬ人間の葛藤だ。哀しくもどこか愚かしい運命の中で必死に抗う人間の様は、決して古くならず、今に通じ、現代の我々も共感するところだ。抑えのきいた筆致が堪らない。

『仇討禁止令』

「私事は私事、公事は公事、この場合左様な御斟酌は、一切御無用に願いたい。」藩の命運の為、敢えて凶刃を握らねばならなかった男の運命。−−号泣。私はこれが菊池寛のベストだと思っている。めちゃくちゃ良い。いい感じのサムライ映画も撮っている山田洋次監督に土下座して頼み、映画化すべきだ(むかーし日活で映画化されたようだが)不肖、この松永も脚本に参加させてもらいたいくらいに大好きな作品だ。

因みに菊池寛の仇討作品ばかりを編んだ「仇討小説全集」なる文庫が講談社から出ている。(もう新刊はないかも)その全てが名作で、至宝とも言うべき本だ。もし見かければ手に入れられることを強くお勧めする。『仇討兄弟鑑』、『仇討三態』など、とにかく素晴らしい作品群。

最後に番外編ともいうべき抱腹絶倒の作品を。

『無名作家の日記』

今でいうところのワナビ小説なのだが、小説志望者の心理、有様は、今も大正時代も何も変わらないのだ。これは自伝的な作品らしいけれど、見事にカリカチュアされ、滑稽話に仕上がっていて大変面白い。が、私は素直に笑えない。あまりに身につまされるからだ。

で、すっかり菊池寛の作品を読みたくなった読者の皆様に朗報だ。今紹介した作品は全て「青空文庫」で読める。本当なら紙の本で、じっくり読んで頂きたいが、とっかかりとしてはまず「青空文庫」も良いのじゃなかろうか。さぁ、このサイトはさっさと閉じて、今すぐ「青空文庫」にアクセスだ。アプリで読むと縦書きになっておすすめ。

それではみなさん、良いお年を。

松永・K・三蔵

011 純文学新人賞おぼえ書き②

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前回010のつづき。

で、考えた創作サイクル。

1月〜3月は『新潮』。4月は構想や調査(取材)、もしくは筆休めに短編を書く。5月〜7月で『文學界』。8月〜10月は『群像』。できれば『群像』には早めに出して、11月〜12月で「太宰賞」に。そんな感じ。

基本的には150〜200枚の中短編

一年間をこの締切で縛る。「俺締切」。これでいくとホント休む暇がない。誰からも求められてないんだけれど、勝手にめちゃくちゃ忙しい。五大文芸誌の新人賞全部に送る人もいるらしいけど、私には無理だった。無理に書いて作品が薄くなっても意味がない。

もちろん毎日書く。一日休むと10枚くらい遅れる。ちょっと筆が迷ってもすぐ遅れる。そのリカバリーに時間を捻出しなければならない。それでもやっぱりピンチ、締切が! 担当編集者に怒られる(妄想)。毎日の進捗枚数を手帳に書く。試行錯誤。編み出す。創作方法、創作術。自分なりのメソッド。そんなのが生まれてくる。道具、持ち物、そんなものもいつしかプロパーのツールめいてくる。

ノートパソコンと創作ノート、手書きノートをいつも持ち歩いて、スキマ時間があれば書く。アレも書きたいし、コレも書きたい。幸いネタは尽きないのだ。ポコポコポコポコ沸いてくる。

書く、推敲する、投稿する。すぐに次。書く、 推敲、締切やばい、投稿。次、書く。結果発表−−は気にしない。ありがたいことに、わざわざ雑誌を見なくても最終候補に残ればちゃんと向こうから電話をくれるのだから。それ以外は誤差だと思って気にせずにおく。一喜一憂して筆がブレることの方がマズい。どんな傾向の作品が、どんな人が受賞したのか? それは自分と、自分が書きたいことと関係あるか? そんなことよりも「俺締切」。次だ、次。次を書く。推敲。投稿。そんで次。“雑音”を消し、この繰り返し。

実際のところ、これが良いのかわからないが、とにかくそんなサイクルで淡々と孤独に筆を進める生活には、書くことの単純な幸福と、作品が仕上ってくる歓びがある。

とは言え後日、流石に気になって、フラフラと書店や図書館に立ち寄り、発表号の誌面を見ることもあった。

「あ、ない‥‥‥」と分って、ガーン!とショックを受けるけれど、雑誌を閉じ、書店から出て三歩歩けばもう忘れる。というのは大袈裟だが、それよりも今書いてる作品に集中している。一次落ち? それは半年前の話だ。それほどショック受ける必要はない。半年前。この時差がちょうどいい感じなのだ。

そしてある日、「その時」がくる。その日、私はたまたま仕事が休みで、朝は執筆、その後はボクシングジムで若者と殴り合って帰宅したところだった。「03-」東京から電話番号の着信を見て、勤務先の本社だと思って「うわ」と思ったが、「群像編集部です」と留守電が残っていた、というわけだ。

で、それからも結果まではしばらくあるが、「俺締切」から解放されるわけじゃない。今書いてる作品を書く、推敲。この繰り返し。結果、候補作の『カメオ』は「群像」の優秀作に滑り込みをしたわけなのだが、それでもやっぱりこのサイクルは変わらない。その日もその翌日も当然に書く。「俺締切」があるからだ。

『カメオ』ゲラの修正。そんなことにスケジュールを少し組み直して、別の作品の続き。これまでと変わらない。変わったことは、つまり、投稿先が担当編集者に変わったのだ。   おしまい。

というのが、私の新人賞おぼえ書き。こんなドタバタした話に需要があるかどうかわからないが、ひとつの事例として書いておく。

待て〜! なんか、こう「傾向と対策」みたいなものがあるだろう! と言われるかも知れないが、無い。賛否はあるだろうし、あくまで「私の場合は」という但し書きをつけておくが、「傾向と対策」とかは要らないんじゃないだろうか。トレンドなどは知ってしまうと意識せずとも、どうしても「寄る」のだ。筆がブレる。傾向と対策。それを調べつくして、無理な姿勢から、精巧なイミテーションを作り上げても、自分に残るのは痛みばかりで、創作の歓びはないだろう。

新人賞に関しては、高名な小説家の指南書や、ハウツー本、業界の方の情報がたくさんあるだろうから、そちらを参考にした方が絶対いいだろう。が、

群像新人文学賞の選考委員の町田康先生は、私が新人賞に思うそんなことを、とてもシンプルに、的確に書いておられる。「いろんなことを気にせず自分が面白いと感じることを書き其れが面白ければ大吉」 孤高の先生らしい言葉だ。

書く、仕上げる。そこにある自分自身の単純な創作の歓び。本来それだけで良いのかも知れないが、その先にデビューして、多くの人に、届けたい人に、届く可能性のある仕組みに関われることは最高だと思う。

今のところ私は、デビューしても何も変わっていない。変わっていないが、それでいい。いや、それだからいい。自分の中のことばと、書くという行為が互いに折り合い、馴染み、やがて熔着し、ひと続きになって繋がっていく。その心地よさ。書くということの単純な幸福と歓び。それに浸れている間は、私は大丈夫なのだと思う。

(2021年12月6日更新)と、ところがそれで大丈夫じゃなかったというのが、この話の続き。それは、また今度。

010 純文学新人賞おぼえ書き①

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6月にデビューして約半年。コロナで受賞式も無く、地方在住の私は講談社にもまだ行ってない。相変わらず出勤前にカフェに行き、書き、その日の集中力を七割がた使い果たしてのろのろと仕事場に行く。休みの日は、家族が起きてくる前にやっぱりカフェに行って、書き、のろのろと自宅に戻ってくる。このループ。

あれ? これデビュー前と変わってなくないか? ま、賞を貰ったことで、一応、妻から一定の理解は得た。これまでは妻の中では、毎朝、ボンクラ夫が朝早く家を出ていき、カフェでひとり妄想をして、書いている。休日も。フルタイムワーカーの妻からすると、頼むから、どうせなら難関資格の勉強でもしてくれ、と思っていただろう。小説。そんな全く生活の足しにもならないことを。延々。しかも怪しい。ちょっと恥ずかしい。(因みに妻は過去わたしの作品を一作読んだきりだ)一度ご近所さんにも訊かれたらしい。毎朝、どこか行かれてるんですか?

困った妻はそのまま「カ、カフェに」と答えたそうだ。それは答えになっておらぬだろうが、ともかくご近所さんは「カフェ!」と驚嘆の声をあげという。妻にしたら何とも気恥ずかしい思いをしたに違いない。

兎にも角にも、私が新人賞を頂いて、妻は、はじめて『群像』なるものをググり、「ふーん」となって、「で、原稿料は? 印税は?」と。   ま、それはちょっと待ってくれ。それはいろんな事情があるのだ。それでも執筆時間に関しては、これまで私が休みの日に朝、夕方と書きに出ると、ダブルだ! 許せぬと言って怒ったが、そのあたりは「投資」だと思い寛容に見てくれるようになった。

ということで、ずいぶん前置きが長くなったが今回はキャッチーなタイトル。たぶん今、私が書くべきこと(求められるもの)は、気の利いたエセーなんかよりも、このあたりのことだろうか? 文学新人賞。

今更だが、純文学の新人賞には五大文芸誌があり、それぞれ新人賞がある。あと筑摩書房の太宰治賞もある。どれも年一回。(いつの間にか『文學界』も年一回になってた)

最初に断っておかねばならないことは、出版社に問い合わせても教えてくれないことは、私に訊かれても、仮に知っていたとしても、口外出来ないってことだ。そのあたりは理解して欲しい。

いや、そもそも私はマニアじゃないからあんまり知らない。なので、新人賞について書くと言っても個人的な思い出とか投稿スタイルぐらいで、小説家志望の人にはあまり役には立たないかも知れないが、読んでくれれば、あー、あるある、なんて共感いただけるだろう。

私は三年ほど前からようやく実生活のサバイバルに小安を得て(そのことはいずれ作品で←オモロイ)、創作に集中できる環境になった。それまでももちろん創作は続けていたが、ランダムで、出来上がったらポツリポツリと文芸誌の新人賞に投稿していた。もちろん毎回じゃない。

でも、もし新人賞を取りデビューしたらコンスタントに量産しなくちゃならんということで、ここはひとつ勝手にプロになったつもりで、新人賞の締切を原稿の締切に見立てて書く生活を試みた。一種のロールプレイング。原稿の締切は絶対なのだ。

一年のサイクル。最初は、3月末の三誌、『新潮』『すばる』『文藝』。全部は無理だから文庫で一番馴染みのある『新潮』にした。あと9月末は『文學界』、10月末は『群像』、太宰賞が12月にある。それを軸に一年を過ごす。

ほとんど前置きになってしまったが、長いから、次回。

次回はそのサイクル。   つづく!

009 積書(き)

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読書家諸氏の間では「積読」なんて言葉は、すっかり定着したが、その起源はかなり古いらしい。しかし近年の普及と定着には、アプリの「読書メーター」が一役買ったのは間違い無いだろう。いずれにしても良くできた単語で、字面と音、名詞でありながら、なんだか動名詞のようであり、「つんどくー」なんて、どこかとぼけた現代的なニュアンスもあっておもしろい。まことに滋味深い言葉だと思う。今さら解説は不要だろう。

では、「積書(き)」というのはご存知だろうか? 知らない? 私も知らない。私が創ったから。(元祖がいたらスマン)ちなみに見積書のことではない。

つまり、積読と同じで、追いつかないで積み上がったモノだが、これは読みではなく、書き。

小説の創作の作業工程は、彫刻なんかに近いんじゃないかなぁ、なんてことを私は昔から考えている。いや、エルトン•ジョンじゃないけれど、実際に彫刻を彫ったことはないので、あくまで想像だが‥‥‥。

←積読   積書→

まずは手彫り(手書き)で全体をざっくり彫り上げて、それから何度も何度も繰り返し削るようにして、フォルムを出していく。そこから慎重に細部を刻み込んでいく。プゥーッとカスを吹き払って、また削り、更にヤスリで磨き、プッと粉を払ってまた磨く。すると徐々にてらてらと光ってくる。血が通い、動き出すこともある。

ロダンは彫る前に、材料の石の中に既に作品があると言う。

なるほど、それなら私もそうだ。

物語が埋まった石が頭ん中に積みあがっている。ひと抱えほどある中編から手頃な短編。身の丈に余る大長編から、手の中にすっぽりと収まる、文字通りの掌編まで。の石。

 

そして、そんな石は毎日増えていく。笑って増えて、泣いて増え、バカ野郎!とドヤされて増え、胸を衝かれて増え。出会って増え、サヨナラをして、また増えて。切なくなって増え、哀しくて増え、恨んで増え、キレて増え、反省して増え、虚しくなって増え、誰かを想って増え、あのコを思い出してやっぱり増える。そんな右往左往の取り乱した生活の中で、私の石は無尽蔵に増えていく。

面白いのが、この石はある時すっかり消えて無くなっていたり、いつの間にかくっついて、見上げるほどの巨岩になっていたり、逆に手頃サイズに縮んでいたり。

しかし、とにかく私は書くのが追いつかない。だからいつも積んである。

積読もバカみたいにあるけど、積書きもまたバカみたいにあるのだ。だからとにかく毎日書くしかない。あ、秋。