035 余は如何にして「松永K三蔵」になりし乎(か)ペンネームについて GOODBYE ミッフィーちゃん

posted in: 日乗 | 0

まず受賞作の『バリ山行』だが、この山行を(やまゆき)と読んだり、(さんぎょう)と読んだり、果てはその読みの変換からか?『バリ三行』となっているSNS投稿を見たりする……。正確には(さんこう)です。混乱させて申し訳ない。登山界隈では当たり前のこの単語も、どうも世間一般では通じないらしい。

ちなみに、たまにSNSで『パリ山行』となっていたりするのは、パリ五輪の影響だろうから、これは仕方ない。それと老眼……。

芥川賞を受賞したことで、ありがたいことに私のペンネームも少しは世の中に広まった。多くの人が目にすることになり、およそ芥川賞作家のペンネームとも思われぬ、このアルファベット入りの奇妙なペンネームに面食らい、「なんて読むの? コレ」と混乱させてしまっているらしい。

ニュース原稿を読み上げるアナウンサーも困惑し、こんなやりとりもあったのかも知れない。

「これさ、このKってなに? 誤植じゃないの?」

スタッフ「いえ、Kですね。ありますK」

「え、ホント? じゃあ、これケイザブ……、ケイサンゾウ?」

スタッフ「ミドルネームらしいです」

「ん? ミドルネーム?」

スタッフ「松永、ケイ、サンゾウらしいです(困惑)」

つまり佐藤B作みたいな感じで、これを続けて読むと少し違う。ケイサンゾー、ではない。

私はあくまで、三蔵。ケイは別。だから、ケイ、サンゾー。

ちなみにペンネームは家族の名前の組み合わせ。「三蔵」は私に文学を与えた母の父、つまり私の祖父の名前。Kは家族のファーストネームで最も多かったイニシャル。

母と私のエピソード↓(芥川賞、受賞のことば)

https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h8459

そうか、わかった。それはわかった。そんならばお前、ミドルネームならミドルネームらしく、「・」を入れるべきじゃないのか? 藤子・F・不二雄みたいに。

私もそう思う。いや、そう当初のペンネーム(群像新人文学賞応募時)は松永・K・三蔵だったのだ。

ちなみに、この第64回はストレート芥川賞の石沢麻依さん、野間新、芥川賞候補の島口大樹さんという、いわゆる“死の組”だ。「カメオ」は良くやった。

優秀作を頂き、デビューが決まったけれど、すると編集部から、そのペンネームはどうなのか? と「相談」があった。ちゃんとデビュー後のことも考えてくれているのだ。イロモノと思われるんじゃないのか等……。(実際イロモノなのかも知れないが……)

群像文学新人賞は歴史ある賞だ。村上龍、村上春樹をはじめ、高橋源一郎や阿部和重、村田沙耶香など、偉大な書き手を輩出してきた。その純文学の賞にそんなふざけた名前はどうなのだろうか?

しかし「K」は納めきれなかった家族たちの名前、それを外すのは忍びない。それに目立つし、純文学史上ミドルネームは初だろう。

私は抵抗した。かのアメリカのロックバンドのKISSは、デビューする際にあのメイクで演ることをレコード会社から大反対され、ところが売れてから、今度はメークを止めると言うと、更に激しく反対されたそうな。そんなエピソードをメールで書いて編集部に送った。生意気な奴だ。

とにもかくにも私はペンネームを再考した。

松永・K・三蔵。ちょっと長いか?

と、そこで私はあることに気づいた。いや、あるものに気づいた。いる。いるのだ。いや、見ている。こっちを。見覚えのある、あの目が。

そう、ミッフィーちゃんだ。オランダの絵本作家ディック・ブルーナのミッフィーちゃんが、こっちを見ている。

松永・K・三蔵。

松永(・K・)三蔵

松永(・×・)三蔵

松永・K・三蔵

一度見えはじめると、もはやミッフィーちゃん(・×・)にしか見えなくなってきた。

あ、これはマズい。私は純文学作家だ。シリアスなものも書く。そこにミッフィーちゃんが出てくるのはマズい。それに、ブルーナ事務所と面倒があっても困る。

そうして、私は「・」を外し、「松永K三蔵」になった。それで何の解決にもなってはいないが、編集部も、多少私も折れたと思ってくれたのか、じゃあ、それで行こうということになって、たぶん日本文学史上初のミドルネーム、アルファベットの小説家の誕生となったのだ。

そしてKISSのメイクを取るように、「松永三蔵」では面白くないと思うのだ。松永K三蔵、やっぱりこの名前が良いと思う。

おしまい

034 第171回芥川賞選評を読む。〝言葉の消え失せた地〟

posted in: 日乗 | 0

改めて選考委員の先生方の顔ぶれを見ると、

感慨深いものがある。

いつものコーヒーショップで

 

一番強烈な印象があるのは平野先生。

1998年、夏。私はあの衝撃を忘れることができない。当時私は18歳だ。十代。無鉄砲(バカ)。

浪人時代で、私はいつも西宮中央図書館で勉強をしていた。

いくつも小説の断片を書き散らしながら作品を完成させられなかったが、私は自己の天才を信じて疑わなかった。……バカだから。

――天才が文壇に衝撃を与えるまで、あと〇年。(その時歴史が動いた風に)

――今、この天才が浪人生として世を忍んでいる。

――天才が夙川沿いで今、弁当を食べている。

などとひとり頭のなかで独白しながらニヤニヤしている〝ヤベえ奴〟だったわけだ。

勉強に倦むと、図書館の入り口近くの雑誌コーナーで文芸誌を読み、ケッと悪態をつくような、全くどうしようもない奴だった。(このあたりについては菊池寛作「無名作家の日記」を読んで欲しい、ほとんどそのまま)※青空文庫にあるよ。

そんな私がある時、ふと手にした『新潮』に一挙掲載された平野先生の「日蝕」を眼にして、大袈裟ではなく脚が顫え、口の中はカラカラに干上がった。ニセモノの天才が本物の天才を眼にした瞬間だった。

「最後の息子」で文學界新人賞した吉田修一先生のデビューもその図書館で見た。

川上未映子先生が芥川賞を受賞された時の新聞記事もその図書館で見て、今でもよく覚えている。

山田詠美先生。先生の作品は大学のゼミの研究対象にもなった。アントニオ猪木のビンタよろしく、今回、私の作品も、エイミー節で「平凡。もっと挑戦しなよ、ヘイ、カモン!」とでも書かれてズバリと斬られてみたい気もしたが、意外にもエールを贈って下さった。

小川洋子先生、たぶん生活エリアは同じのはずだ。

そんな先生方に選評を頂けるのは、何だか現実感がない。いずれもありがたい選評で、とても学びがあった。

当代一の書き手を集めた芥川賞選考委員。おもしろくないわけがなくなくなくなくない(合ってか?)。選評の中に否が応でも名言が出てくる。それをいくつかご紹介。※本文は『文藝春秋』で読んでね。

「肉体の迷路を進み、言葉の消え失せた地まで行き着かなければ、小説は書けないのかもしれない」(小川洋子先生)

「シフトって言葉、まったく文学にそぐわないよ。センスない。ばか、ばか、F××K!」(山田詠美先生)

「優れた小説というのは必ずこの「間」を持っている」(吉田修一先生)

「けれど、その「出来ないこと」が、それぞれの小説を書かせてくれた――」

「結局今も時々、わたしはナンバで歩いてしまいます。」

「虚数は、そこにないものではなく、虚数として、そこにあるのです」(川上弘美先生)

「どう書かれているか(how)が重要であり、極端な話、Whatがほとんどなくても面白い小説は書きうる」(奥泉光先生)

たまんないな。最高だ。

中でも私は小川洋子先生の、もう一度引用するが、「肉体の迷路を進み、言葉の消え失せた地まで行き着かなければ、小説は書けないのかもしれない」この言葉に強く感銘を受け、共感する。それは私も常々考えていたことだ。

小説というのは言語芸術だけれど、その対象とするものは〝言葉にならないもの〟なので、それを言葉であわらそうという小説というものは、非常にパラドキシカルな芸術なのだ。

私はあらゆることを使ってその〝言葉の消え失せた地〟を体験しようとしている。

もちろん、その地に連れて行ってくれる文学作品もある。しかし、もしかしたら「文学」なんて概念ももっていない人の眼の奥にこそ、どこまでも純粋な〝言葉の消え失せた地〟があるのじゃなかろうか。そんなことを思う。カナンを目指す私の旅は続く。

松永K三蔵

033『新潮』8月号と『文學界』8月号にエッセイを掲載していただきました。(お知らせ×日乗)

posted in: お知らせ, 日乗 | 0

「新潮」と「文學界」、同時にエッセイを掲載していただいた。(7/5発売)

お話をいただき、同じ月の号になった。両誌ともに初登場エッセイ。

初登場なので、私の文学マニュフェストとも言うべき内容のエッセイで、それは互いにリンクしている。

寺院の門に据えられた阿吽の仁王像のように一対になっていて、両方とも読んでいただければオモロさ倍、いや三倍だ。そんなオモロイエッセイとなっている。

まずは『新潮』

『新潮』8月号 私は道になりたい

「私は道になりたい」 ん? もしかして、コレってアレか? アレなのか? 勘のいい人は気づいただろうか。どうだろう。それは誌面で確かめてくれ。こちらには私の心の師である、坂口安吾、シモーヌ・ヴェイユの御両名にご登場いただいた。

それから『文學界』

『文學界』8月号 押せども、ひけども、うごかぬ扉

このタイトル。好きな人なら、すぐにその出典を言いあてるだろう。そう、太宰治だ。日本文学界のスーパースター。けれど、正面切って好きだとか、影響受けたとかは何故か言いにくい。そんなビートルズ的な存在だ。メジャー過ぎて、迂闊に手を出しにくいのだ。でもやっぱり偉大。天才。そんな太宰をフューチャーして書いた。

オモロイエッセイなので、皆さんどうぞ、書店で買って読んでみてくださいね。

そして『バリ山行』の単行本が出る。

それで三点。三点支持だ(山)。三蔵、三点セット、全て読んでオモロさ九倍だ。

ということで、単行本もよろしくお願いします。「群像」掲載版よりブラッシュアップされ、文章のキレが格段に増しております。表紙も奥深くて鉱石のように美しい装丁の本ですよ。

松永K三蔵

032 第171回芥川賞候補に選んでいただきました。感謝。(お知らせ×日乗)

posted in: お知らせ, 日乗 | 0

「バリ山行」(群像3月号)です。単行本にしていただけるとのことなので、皆さん本屋さんでお手に取ってみて(買って読んで)ください。

今はあまり言うこともないので、報せを受けた時の感じを描いて、置いておきます。さすがに慌てた。

えぇッ!

031 デカダン文士シリーズ 其の壱 だいたい笑っている檀一雄

posted in: 日乗 | 0

昨年9月、私は『群像』10月号の「文一の本棚」(講談社の文芸第一から出版された本から好きな作品をチョイスして書評)を担当させていただいた。なんでもOKということだったので、私は群像文芸文庫の「昭和期デカダン短篇集」なんて時代錯誤のアンソロジーをチョイスした。

私は意図してデカダン作家を選り好んでいるわけではないが、私が心惹かれ作品は、何故か高確率でデカダン作家のものになるのだ。残念ながら、中には今ではあまり読まれなくなっている人もいる。ということで、私の好きなデカダン作家を、思いつくまま、全くランダムに紹介してみようと思う。そんな感じなので、一応、其の壱とさせていただく。其の弍もまた、そのうちに。

檀一雄(1912-1972)

あの女優の壇ふみさんのお父さんだ。

言わずと知れた太宰の盟友。そしてまた、安吾のよき理解者、友人でもあった。そんなデカダン両巨頭に挟まれて、その友人、証言者的な(実際に二人の名前そのままタイトルに作品にもしている)扱いをされがちな檀一雄、しかし作品はめちゃくちゃ良い。そりゃそうだ。彼らふたりと五分で付き合えたのだから。

派手な逸話が多い太宰や安吾。ふたりとも精神的変調があったが、檀一雄は至極健康。健康過ぎた。そして素面(しらふ)でヤバい。いや実は二人よりもヤバい奴なのかも知れない。

檀一雄もヤバい奴だが、この友人二人が手がかかる。すぐ死にたがる太宰、被害妄想の安吾。放っておけない。放ってはおけない檀一雄の面倒見の良さは、その生育環境から来たものだろう。九歳の時に母親が若い医学生と出奔し、以後、三人の妹たちの世話をする。『檀流クッキング』は早くもこの時にはじまったのだ。結婚し、病身の妻リツ子の看病、親族、家族の面倒もあった。その後も寝たきりの次男、家庭のこと、いろいろあった。実際どこまで面倒を見たのかはわからないが、とにかく檀一雄には「まとも」であらねばならない事情がついてまわった。その放埒、不羈の精神に反して。

当然、それらは作家の中で争うことになるのだが、檀一雄の偉大さは、そのほとんどで「負け」たことだ。つまり放埒に走った。妻を子を置いて中国に渡り、家族を放ったらかして女優と不倫。好き放題やった。困った人なのだ。

さて作品だが、デビュー作は「此家の性格」。ここには抑圧され、暗い翳を背負わされた少年時代の心象風景が驚異的な解像度で書かれている。暗鬱さは自らをも蝕み、その迫真が作品の強度を効果的にあげ、放埒と放浪への予感につなげているのだが、それはまさに作家、檀一雄のマニフェストとも言える。

初期の出世作の「花筐」は、いわゆる青春群像劇だが、この作品を私は良いとは思えない。もちろん非凡の人ではあるが、檀一雄は決して天才タイプではない。どうも作品には自らの天才を恃んで書いたようなところがあって、まわりも、これは天才の作品なんじゃないか? と評価したんじゃないかと思う。後年の作品から照射すれば、私には文芸的な器用さだけ目立つ作品に思えてしまうのだ。

そして、ベストはやはり『リツ子・その愛』『リツ子・その死』じゃなかろうか。『火宅の人』もちろん良いけれど、個人的にはやはり『リツ子』だ。日本文学史上屈指のヒロイン、静子がいるから、やはり『リツ子』だ。拾い読みで再読しても泣けて泣けて仕方ない。美しいのだ。愛妻の物語が? いや違う。その放埒が。

"行こう、と私の決心は強まった。黄河を見たら引返す。黄土層に咲き出した梨の花を栞にして、一ひらを老師の手に、一ひらを妻の手にら、それから憶良のようにボソボソと支那のお伽話を、わが子の寝物語に聞かせてやれば、それでよい”

のっけから良い。めちゃくちゃ良い。因みにこの老師とは佐藤春夫だ。

"やっぱり、太郎を連れ出して見たかった。幼年の日の山と川を、親子二人して歩いてみたかった。私は、行衛の知れぬ自分の心の来源を確めたい。櫨と、小松と、清流の上にかぶさる竹藪と、なだらかな雑木の丘陵を、夢のように朧ろな、昔の追憶の篩いで洗ってみたい。”

抜き出せばキリがない。文章も良いが、長篇小説全部がうねる巨大な詩になっている。母方家族との確執、息子太郎。もちろんリツ子。可也青年。そして静子。悲哀すらも丸呑みにして喝采する。リツ子の死のシーンはものすごい筆致。未読の方は是非読んで欲しい。

新潮文庫の装丁も最高だ。

檀一雄を画像で検索すると、だいたい笑っている。笑ってる場合じゃない! なんてことも散々やらかして来たのだろうが、なんと美しい笑顔だろう。

檀一雄は快活に笑う。快男児。快晴。仮に太宰が曇り空なら安吾は雷雲。そして檀一雄は抜けるような晴天だ。しかし、どこまでも青い蒼天は、どこかふと哀しい。哀しいが、哀しいことも丸呑みにして檀一雄は笑う。盟友太宰を送り、"安吾さん"を送り、ひとり残って溌剌と戦後を生きたのだ。

030 「バリ山行」試し読みweb公開【講談社 現代メディア】(お知らせ×日乗)

posted in: お知らせ, 日乗 | 0

「バリ山行」(群像3月号掲載)の試し読み記事をつくっていただきました。本日、講談社 現代メディアの群像で公開されました。ありがとうございます。

また勝手に描いた(非公認)

「バリ山行」の冒頭は X (旧Twitter)にページ画像で公開されていたので、今回の試し読みは、冒頭ではなく「バリ」が何かわかる序盤のハイライトシーン。私も好きなシーンだ。

読んでいただければわかるが、ここでMEGADETHが出でくる。え? メガデス?

わかる人は世代だろうか。そうだ、メタルBIG4の一角、メガデスだ。もっとも私はメタルと言えばPANTERA(パンテラ)一択なんだが--。長くなるので今、それは措く。

いや、敢えて措かずに繋げてみようか。

パンテラと言えばフロントマンはVoのP・アンセルモ。初期のロングモヒカン片流れスタイルからスキンヘッドにし、それは伝説的なギタリストD・ダレルの赤髭とともにパンテラのアイコンとなった。

そしてスキンヘッドと言えば、「バリ山行」の執筆中、ずっと私の意識にあったのは、F・コッポラの映画『Apocalypse Now(邦題:地獄の黙示録)』の、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐だ。つまりコンラッドの『闇の奥』のクルツ。

密林の中、川を遡り、その先に超然と存在するもの。

理解や共感を拒み、ただひとり、道を外れて突き進む。薮を漕ぎ、枝を潜り、岩を越えて流れに足を入れ、山を歩く。その先に何を見るのだろう。そんなことを考えながら書いた。

そんな小説。

皆さん、どうぞ「試し読み」をお楽しみくださいませ。

↓↓↓

イッキ読み必至!先行の見えない世の中において、確かなものとはどこにあるのか…?
不安定な現代社会を鋭く描く、新たな山岳小説
https://gendai.media/articles/-/125615
4月4日(木)公開。

029『文學界』4月号 新人小説月評に「バリ山行」を取り上げていただきました。そして思ったこと(お知らせ×日乗)

posted in: お知らせ, 日乗 | 0

評者は渡邊英理さんと、宮崎智之さん。お読みいただきありがとうございました。

感謝の気持ちを込めて、文學界4月号の表紙を描いてみた。特に意味はないのだけれど。

渡邊英理さん。言語の共有性について書かれた冒頭の文章が非常に印象的だった。

小説を書くことは、自己を掘り下げることで、それはどこまでも"たったひとりのわたし"の行為なのだが、"共有可能な普遍化"された「ことば」で書くというこはやはりどこかに他者を想っていて、それは物理的には掘り進めた先に世界が拡がることになる、このパラドキシカルな地球という球体に住む我々への示唆でもある。離れるということは、つまり近づくことでもあるのだ。

渡邊さんは、「バリ山行」を二つの危機を並べて、現代社会を批評する作品だと評してくださった。我々は日々何の為に生きるのか。生き延びねばならないのか。そもそも生きるとは何か。社会的な存在としての自己、あるいは生物としての自己。個、他者、関係性。いや存在の概念は自己を超越し得るのでは--。(その手がかりは他者不在を仮定した山で体験する幻想にあったのかもしれない)というテーマはまた今後の作品に引き継いでいく。

評題「分かると分からないのあわいで」いい言葉だ。分かるということの横暴さを引き受けて、脂汗を流しながら、しかし分らず、問い、問いながら書き、そのあわいでとどまり続けること。そんなことを思う。

宮崎智之さん。「不確かな世界と言葉」この評題も好きだ。世界とは、必ずしも大きな世界だけではない。それぞれの世界があり、社会という世界があって、コミュニティ、職場、学校、家庭、あなたとわたし、わたしだけの世界もある。それがどれほど小さく、また卑小なものであったとしても、嗤う勿れ。例えばひとりのこどもの世界の切実さは、最も大きな世界のそれと等しい。この世界がどのようにして成り立っているかを考えれば、それは当然なのだ。

全く世界というものは不確かで、私たちは常にその変転に晒され、流され、のまれ、そうして抱かれている。そんなフラジルな世界の不確かさこそが受容に転換されるはずだ。というのも今書いている作品のテーマだったりする。

"不確かさに身を晒し(中略)恐る恐る辿るうちに視界がひらかれていくのかもしれない。言葉を書き、読み、つないでいくことも、そういった営為なのではないか"(宮崎さんの時評より)

私もそう思います。

奇しくも今回の二つの評には互いに親和性があったようだ。読んでいて私は無性に小説を書きたくなった。

028 「バリ山行」の追い込み中にウサギに殺されかけた話

posted in: 日乗 | 0

今月は掲載月なので宣伝の為に「日乗」投稿も増やす。

今回の原稿の校了まで、かなり慌ただしい進行だった。しかし原稿の締め切りが明後日に迫った週末、私は娘とウサギカフェに行く約束をしていた。

娘よ、すまん。日本文学の為だ、今週は諦めてくれ。そう思って延期を申し出ようと思っていたが、妻から娘がとても楽しみにしていると聞いた。

でも俺はデカダン、無頼派だから(群像2023年10月号文一の本棚「昭和期デカダン小説集」書評参照)娘とのウサギカフェの約束くらいは簡単に反故にする。

と、思ったが、いや今こそウサギに触れてリラックスするのも、案外、創作に良いインスピレーションを与えてくれるんじゃないだろうか--。などと考えた。決して娘に約束を断れないからじゃない。俺は無頼派だから締め切りの近い原稿を放り出してウサギカフェに向かった。(一応原稿は持って行ったけれど)

そうしてコーヒーを飲んでちょっと原稿をやり、いざウサギさんとの触れ合いタイム。ガラス戸で区画されたウサギルームに。幼気な小動物の癒しパワーが私に創作のインスピレーションを与えてくれるはずだ。

フワフワと柔らかいウサギたちを抱っこして程なく、私は胸のあたりに何かを感じた。来た。胸を騒がすような、いや、しかしこれはインスピレーションではなく、気管を内側から毛で撫でられるような違和感。

痒い。あ、ヤバい。これ。私は咽せた。胸で手を押さえ。「え? どうしたん?」と妻。ごめん。と慌ててウサギルームを出る。喉を伝って沸き上がるような内側からの痒み、ざわざわと胸の中が騒つく。あ、これ、俺なんかのアレルギーやろか。咳き込む。ヤバい、これあれやろ、アナフィラキシーやろ。

私は喘息持ちである。ヤバい締め切りがあるのに、ウサギカフェで呼吸困難って、「すみません、原稿ダメでした。いや、ウサギが、その‥‥」と編集部にアホな報告をしなければならないのか。洒落ならんでコレ。下手をすれば遺稿。未完の遺稿。同じ兵庫県出身の故車谷長吉先生は烏賊にやられたが、もしかして私はウサギだろうか‥‥‥。そんなことも考える。

ウサギルームを出て洗面所でうがいして、顔を洗い、手を洗ってやっと少し落ち着く。

危なかった。癒しと霊感を求めて来たのに、危うくウサギに殺されるところだった。

そうして私は辛くもウサギに殺されず、インスピレーションは受けたかどうかわからんが、なんとか「バリ山行」を校了したのであった。

みんなもモフモフウサギさんには気をつけね。

ちなみに原稿追い込み期間中、実は妻の誕生日だったが、ほとんど徹夜の日もあったりで、それを私はすっかり失念していた。

校了して、あ、と気づいて「ごめん……」と謝ったが、妻は「誕生日? そんなんどうでもエエねん!」と全く天晴れな女傑振り。いつもほんとお世話になっております。

松永K三蔵

◾️宣伝◾️ 群像2024年3月号(2月7日発売)

神戸、六甲山が舞台の山の小説です。

「バリ山行」自主制作CM

027 「バリ山行」が掲載される前日、ちょっとAIに尋いてみた。

posted in: 日乗 | 0

という訳で、2月7日、群像3月号が発売されて「バリ山行」が発表になった。その前日、ちょっと事件があった。

宣伝 看板(自主制作)

「山行」。登山に馴染みのない人はあまり聞き慣れない言葉だと思うけれど、これは「さんこう」と読む。

じゃあ、バリってなんだよ? という人は作品を読んでみてください。因みにバリ島の話ではないことは、先に断っておく。

ここ最近、九段さん(おめでとうございます!)の芥川賞受賞作『東京都同情塔』でAIが話題だが、私も創作のための調べごとにchatGPT-4を使ったこともある。ネット検索よりピンポイントに、あるいはニュアンスの幅をもって答えてくれるので非常に助かる。

そんなことで2月6日、「群像3月号」の発売日前日、雑誌の目次も公開されたことだし、ちょっとbingのコーパイロット(chatGPT4)に自分のこと尋いてみた。

松永K三蔵。いきなり、代表作は「バリ山行」と出た。情報が早い。代表作か、そうかぁ、そうなれば私も嬉しい。しかしまだ二作しかないから、それも間違いではない。

すると「松永K三蔵の作品を読んだことありますか?」というAIへの質問候補が下に出た。そうか、AIだから読めるのか。

押してみる。

すると、AIは「読んだことがある」と言う。そして「バリ山行」がとても好きだと。

え? あ、いや、まだ発売前なんですけど……

そうして出たアンサーが下だ。そのまま貼り付けておく。

もう私はAIを信用できない。

少なくとも今のところは、まだまだ発展途上のようだ。

これ「バリ山行」ってタイトルからのあなたの勝手な想像ですよね? テキトー過ぎでしょ!

バリ島なんて一切出てこないし、恋愛も出て来ない。ウソばっかじゃないですか、AIさん! 😊、じゃないですよ。全然、信用できないですよ!

ウソばかり? 信用ならない。

あぁ、なるほど。AIと小説にはやはり親和性があるようだ。

ということで、だから「バリ」ってなん何だよ? って人は下の自主制作のCMをどうぞ。

「バリ山行」自主制作CM

でもやっぱり、読まないとわからないようなので、よろしくどうぞ。

松永K三蔵

026 2024年謹賀新年

posted in: 日乗 | 0

謹賀新年

先ほど新年の書き初め(執筆)を終えて参りました。

創作も旺盛に書いております。昨年はいくつかエッセイを書かせていただきました。大変ありがたいことです。

「文学のトゲ」(群像6月号)

「文一の本棚」(群像10月号)

「私の街の谷崎潤一郎」(WEB中公文庫12月)

今年のテーマは愚公移山。これでいきましょう。皆さまが、ただ白熱して生きられます一年でありますように。

松永K三蔵