013 小説における身体性

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実はオミクロンに罹った。(日乗らしいネタだ)

自分は大丈夫。なんて根拠のない自信が私にもあったのだが、罹る時はあっけなく罹る。即座に定職はストップになり、自室に缶詰。

大きな声で言えないが、こんな執筆チャンスが他にあるだろうかと秘かにほくそ笑んだが、それも甘かった。

症状が出て、陽性判定になり、そこからがキツかった。無症状なんて人もいるらしいが、とにかく目玉の奥を貫くような頭痛がして、悪寒と倦怠感で目をあけてられない。執筆どころではなく、本も読めず、映画も観れない。ひたすら眠い。ので寝た。

くっそー書きたい。とようやく起きあがったのが四日目。

怠さが残る身体をくったりと持ち上げて、机の前に座らせるが、書いているとすぐにしんどくなって続かない。

発見。けっこう執筆って体力使うのだなと。

病苦に苛まれながらも書いた人は凄いなと思う。身体が不調だと、なんだか文章も散らかってしまう。

身体で書くってのとはちょっと違うのかも知れないが、私も身体が不調だと筆もダメ傾向。これは関係あるようだ。

考えてみると文士なんかは、芥川に代表されるような、痩せ型の病弱の文弱派が多い傾向なんだろうけれど、たまーに、壮健、闊達な肉体派がいる。そんな肉体派をあげていくと面白い。

--肉体派。え、、っと、じゃ誰が強ぇーんだろ? なんて熱がある頭が『刃牙』みたいなことを考えはじめる。

三島由紀夫は肉体を鍛え上げたが、運動神経の方は絶望的になかったそうな。そう評した石原慎太郎先生(合掌)はスポーツマンで、強そうだ。

強いということで、思いつくのは中上健次。冷蔵庫を投げ飛ばすらしい。マジかよ。電子レンジならわかるけど、冷蔵庫って投げ飛べるんだ。スゲェな。ゴリラみたいで強そうだもんね。あと坂口安吾も強いよな。運動神経抜群だったみたいだし。まぁまぁデカい。あ、田中英光を忘れちゃいけない。なんてたってオリンピアン。そりゃ強い。なんて考えていくと、どうしても無頼派の系列になる。でも、たぶん最強は今東光だと思う。チンピラみたいにめちゃくちゃ喧嘩してたみたいだし、大山倍達仕込みで、極真カラテもやるようだ。

最近の人だと花村萬月先生も、なんか強そう。あ、丸山健二先生も、ごちゃごちゃ説明するより殴り倒す方が容易いのだ、なんて小説家らしからぬことをよくエッセイで書いている。故車谷長吉先生も匕首を部屋に秘蔵していたというから相当だ。(身体と関係ないなコレは)エンタメ界にまで広げると、、今野敏先生のようなホンモノの武術家も出てくるから、この辺にしておこう。

すまん、タイトルは冗談だ。熱があると、この様におかしな思考になる。やっぱり健康は大事だねって話。好き勝手に書く日乗なので許してほしい。小説に於ける身体性については、また元気な時にでも。

皆さんもコロナに気をつけてね。

※もう恢復してます。

松永・K・三蔵

012 小説家、菊池寛の凄さ

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12/26誕生日、ちょうど最近ふいと読み直してやっぱり実感。菊池寛の凄さよ。

もちろん「文豪」に違いないのだが、文藝春秋の創業者という実業家のイメージが強くて、(英語的表現で言うと)世間からもっとも過小評価されている小説家のひとりじゃないか、と私は思う。いや、ちゃんと文豪と呼ばれて評価されているだろうと言う人があるかも知れないが、私からすると全然足りない。芥川という天才の陰に隠れがちだが、菊池寛こそが天才なのだ。

何が凄いって、とにかく作品がめちゃくちゃ面白い。代表作はもちろん、作品が悉く面白いという打率の高さ。つまり野球で言うところの選手兼監督で、名監督でありながら、打ってよし、投げてよしの名選手。純文学、歴史小説、大衆小説から戯曲まで、なんでも書いた、いや、書けた。そんな多才ぶりも逆に「過小評価」の一因なのかも知れない。

若い読者からすると、いわゆる文豪の作品というと、格調高い名文と(なんとなく)高尚な雰囲気が、(なんかよくわかんないけど)良かった‥‥。なんてことになりがちだが、そこにくると菊池寛のテーマ小説は非常に明快でわかりやすく、面白い。そして読後には、確かな「問い」をのこしてくれる。若い方にこそおすすめ。

いろいろ書いた人だが、殊に歴史小説は凄まじい魅力をもっており、ほとんどが短編なので、私は何度再読したかわからない。歴史ものの硬質な文章ながら、書きっぷりは人物が生き生きとして瑞々しい。「恩讐の彼方に」、「忠直卿行状記」などの代表作は今さら私が紹介する必要もないだろうが、未読の方は是非読んで頂きたい。

ここでいくつか紹介するが、これはあくまで私の思いつきで、この他にも代表作に劣らぬ素晴らしい作品がいくつもある。

『恩を返す話』

島原の乱に材をとった作品。戦場で、心ならずも、“いけすかない”仲間からいのちを助けられた甚兵衛。その借りを何とか返そうとする話。歴史小説だが、ここに描かれているのは、疑念、嫉み、躊躇い、他ならぬ人間の葛藤だ。哀しくもどこか愚かしい運命の中で必死に抗う人間の様は、決して古くならず、今に通じ、現代の我々も共感するところだ。抑えのきいた筆致が堪らない。

『仇討禁止令』

「私事は私事、公事は公事、この場合左様な御斟酌は、一切御無用に願いたい。」藩の命運の為、敢えて凶刃を握らねばならなかった男の運命。−−号泣。私はこれが菊池寛のベストだと思っている。めちゃくちゃ良い。いい感じのサムライ映画も撮っている山田洋次監督に土下座して頼み、映画化すべきだ(むかーし日活で映画化されたようだが)不肖、この松永も脚本に参加させてもらいたいくらいに大好きな作品だ。

因みに菊池寛の仇討作品ばかりを編んだ「仇討小説全集」なる文庫が講談社から出ている。(もう新刊はないかも)その全てが名作で、至宝とも言うべき本だ。もし見かければ手に入れられることを強くお勧めする。『仇討兄弟鑑』、『仇討三態』など、とにかく素晴らしい作品群。

最後に番外編ともいうべき抱腹絶倒の作品を。

『無名作家の日記』

今でいうところのワナビ小説なのだが、小説志望者の心理、有様は、今も大正時代も何も変わらないのだ。これは自伝的な作品らしいけれど、見事にカリカチュアされ、滑稽話に仕上がっていて大変面白い。が、私は素直に笑えない。あまりに身につまされるからだ。

で、すっかり菊池寛の作品を読みたくなった読者の皆様に朗報だ。今紹介した作品は全て「青空文庫」で読める。本当なら紙の本で、じっくり読んで頂きたいが、とっかかりとしてはまず「青空文庫」も良いのじゃなかろうか。さぁ、このサイトはさっさと閉じて、今すぐ「青空文庫」にアクセスだ。アプリで読むと縦書きになっておすすめ。

それではみなさん、良いお年を。

松永・K・三蔵

011 純文学新人賞おぼえ書き②

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前回010のつづき。

で、考えた創作サイクル。

1月〜3月は『新潮』。4月は構想や調査(取材)、もしくは筆休めに短編を書く。5月〜7月で『文學界』。8月〜10月は『群像』。できれば『群像』には早めに出して、11月〜12月で「太宰賞」に。そんな感じ。

基本的には150〜200枚の中短編

一年間をこの締切で縛る。「俺締切」。これでいくとホント休む暇がない。誰からも求められてないんだけれど、勝手にめちゃくちゃ忙しい。五大文芸誌の新人賞全部に送る人もいるらしいけど、私には無理だった。無理に書いて作品が薄くなっても意味がないしとか思いながら。

もちろん毎日書く。一日休むと10枚くらい遅れる。ちょっと筆が迷ってもすぐ遅れる。そのリカバリーに時間を捻出しなければならない。それでもやっぱりピンチ、締切が! 担当編集者に怒られる(妄想)。毎日の進捗枚数を手帳に書く。試行錯誤。編み出す。創作方法、創作術。自分なりのメソッド。そんなのが生まれてくる。道具、持ち物、そんなものもいつしかプロパーのツールめいてくる。

ノートパソコンと創作ノート、手書きノートをいつも持ち歩いて、スキマ時間があれば書く。アレも書きたいし、コレも書きたい。幸いネタは尽きないのだ。ポコポコポコポコ沸いてくる。

書く、推敲、推敲、投稿。すぐに次。書く、 推敲、締切やばい、推敲、投稿。次、書く。結果発表−−は気にしない。ありがたいことに、わざわざ雑誌を見なくても最終候補に残ればちゃんと向こうから電話をくれるのだから。それ以外は誤差だと思って気にせずにおく。一喜一憂して筆がブレることの方がマズい。どんな傾向の作品が、どんな人が受賞したのか? それは自分と、自分が書きたいことと関係あるか? そんなことよりも「俺締切」。次だ、次。次を書く。推敲。投稿。そんで次。“雑音”を消し、この繰り返し。

実際のところ、これが良いのかわからないが、とにかくそんなサイクルで淡々と孤独に筆を進める生活には、書くことの単純な幸福と、作品が仕上ってくる歓びがある。

とは言え後日、流石に気になって、フラフラと書店や図書館に立ち寄り、発表号の誌面を見ることもあった。

「あ、ない‥‥‥」と分って、ガーン!とショックを受けるけれど、雑誌を閉じ、書店から出て三歩歩けばもう忘れる。というのは大袈裟だけれど、それよりも今書いてる作品に集中している。一次落ち? それは半年前の話だ。それほどショック受ける必要はない。半年前。この時差がちょうどいい感じなのだ。

そしてある日、「その時」がくる。その日、私はたまたま仕事が休みで、朝は執筆、その後はボクシングジムで若者と殴り合って帰宅したところだった。「03-」東京から電話番号の着信を見て、勤務先の本社だと思って「うわ」と思ったが、「群像編集部です」と留守電が残っていた、というわけだ。

で、それからも結果まではしばらくあるが、「俺締切」から解放されるわけじゃない。今書いてる作品を書く、推敲。この繰り返し。結果、候補作の『カメオ』は「群像」の優秀作に滑り込みをしたわけなのだが、それでもやっぱりこのサイクルは変わらない。その日もその翌日も当然に書く。「俺締切」があるからだ。

『カメオ』ゲラの修正。そんなことにスケジュールを少し組み直して、別の作品の続き。これまでと変わらない。変わったことは、つまり、投稿先が担当編集者に変わったのだ。

おしまい。

というのが、私の新人賞おぼえ書き。こんなドタバタした話に需要があるかどうかわからないが、ひとつの事例として書いておく。

待て〜! なんか、こう「傾向と対策」みたいなものがあるだろう! と言われるかも知れないが、無い。賛否はあるだろうし、あくまで「私の場合は」という但し書きをつけておくが、「傾向と対策」とかは要らないんじゃないだろうか。トレンドなどは知ってしまうと意識せずとも、どうしても「寄る」のだ。筆がブレる。傾向と対策。それを調べつくして、無理な姿勢から、精巧なイミテーションを作り上げても、自分に残るのは痛みばかりで、創作の歓びはないだろう。

新人賞に関しては、高名な小説家の指南書や、ハウツー本、業界の方の情報がたくさんあるだろうから、そちらを参考にした方が絶対いいだろう。が、

群像新人文学賞の選考委員の町田康先生は、私が新人賞に思うそんなことを、とてもシンプルに、的確に書いておられる。「いろんなことを気にせず自分が面白いと感じることを書き其れが面白ければ大吉」 孤高の先生らしい言葉だ。

書く、仕上げる。そこにある自分自身の単純な創作の歓び。本来それだけで良いのかも知れないが、その先にデビューして、多くの人に、届けたい人に、届く可能性のある仕組みに関われることは最高だと思う。

デビューしても、創作することは変わるわけじゃない。変わっていないが、それでいい。いや、それだからいい。自分の中のことばと、書くという行為が互いに静かに折り合って馴染み、やがて熔着し、ひと続きになって繋がっていく。その心地よさ。書くということの単純な幸福と歓び。それに浸れている間は私は大丈夫なのだと思う。

010 純文学新人賞おぼえ書き①

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2021年6月にデビューして約半年。コロナで受賞式も無く、地方在住の私は講談社にもまだ行ってない。相変わらず出勤前にカフェに行き、書き、その日の集中力を七割がた使い果たしてのろのろと仕事場に行く。休みの日は、家族が起きてくる前にやっぱりカフェに行って、書き、のろのろと自宅に戻ってくる。このループ。

あれ? これデビュー前と変わってなくないか? ま、賞を貰ったことで、一応、妻から一定の理解は得た。これまでは妻の中では、毎朝、ボンクラ夫が朝早く家を出ていき、カフェでひとり妄想をして、書いている。休日も。フルタイムワーカーの妻からすると、頼むから、どうせなら資格の勉強でもしてくれ、と思っていただろう。小説。そんな全く生活の足しにもならないことを。延々。しかも怪しい。ちょっと恥ずかしい。(因みに妻は過去わたしの作品を一作読んだきりだ)一度ご近所さんにも訊かれたらしい。毎朝、どこか行かれてるんですか?

困った妻はそのまま「カ、カフェに」と答えたそうだ。それは答えになっておらぬだろうが、ともかくご近所さんは「カフェ!」と驚嘆の声をあげという。妻にしたら何とも気恥ずかしい思いをしたに違いない。

兎にも角にも、私が新人賞を頂いて、妻は、はじめて『群像』なるものをググり、「ふーん」となって、「で、原稿料は? 印税は?」と。   ま、それはちょっと待ってくれ。それはいろんな事情があるのだ。それでも執筆時間に関しては、これまで私が休みの日に朝、夕方と書きに出ると、ダブルだ! 許せぬと言って怒ったが、そのあたりは「投資」だと思い寛容に見てくれるようになった。

ということで、ずいぶん前置きが長くなったが今回はキャッチーなタイトル。たぶん今、私が書くべきこと(求められるもの)は、気の利いたエセーなんかよりも、このあたりのことだろうか? 文学新人賞。

今更だが、純文学の新人賞には五大文芸誌があり、それぞれ新人賞がある。あと筑摩書房の太宰治賞もある。どれも年一回。(いつの間にか『文學界』も年一回になってた)

最初に断っておかねばならないことは、出版社に問い合わせても教えてくれないことは、私に訊かれても、仮に知っていたとしても、口外出来ないってことだ。そのあたりは理解して欲しい。

いや、そもそも私はマニアじゃないからあんまり知らない。なので、新人賞について書くと言っても個人的な思い出とか投稿スタイルぐらいで、小説家志望の人にはあまり役には立たないかも知れないが、読んでくれれば、あー、あるある、なんて共感いただけるだろう。

私は三年ほど前からようやく実生活のサバイバルに小安を得て(そのことはいずれ作品で←オモロイ)、創作に集中できる環境になった。それまでももちろん創作は続けていたが、ランダムで、出来上がったらポツリポツリと文芸誌の新人賞に投稿していた。もちろん毎回じゃない。

でも、もし新人賞を取ってデビューしたならコンスタントに量産しなくちゃならんよな、ということで、ここはひとつ勝手にプロになったつもりで、新人賞の締切を原稿の締切に見立てて書く生活を試みた。一種のロールプレイング。原稿の締切は絶対なのだ。

一年のサイクル。最初は、3月末の三誌、『新潮』『すばる』『文藝』。全部は無理だから文庫で一番馴染みのある『新潮』にした。あと9月末は『文學界』、10月末は『群像』、太宰賞が12月にある。それを軸に一年を過ごす。

ほとんど前置きになってしまったが、長いから、次回。

次回はそのサイクル。   つづく!

009 PILOT LEGNO895 F

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カサ張らず、手帳と創作ノートにサッと書ける、そんな万年筆を探していて、あと木軸な手触りのやつも一本欲しいなぁと思って買ったのが、コレ。

本当はEFが欲しかったけれど、ラインナップになかったので、たまにはFも。木目はあるけど、これはホンモノの木じゃない。でもマットな質感は良い感じ。

文字はやっぱりちょっと太いけど、創作ノートにガシガシ書く時は重宝するし、レギュラー万年筆のインク切れの時には原稿にも出張ってくれる、小兵ながら頼りになる一本。

インクは色彩雫 “月夜”入れてます。これがまた良い色なのだ。

009 積書(き)

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読書家諸氏の間では「積読」なんて言葉は、すっかり定着したが、その起源はかなり古いらしい。しかし近年の普及と定着には、アプリの「読書メーター」が一役買ったのは間違い無いだろう。いずれにしても良くできた単語で、字面と音、名詞でありながら、なんだか動名詞のようであり、「つんどくー」なんて、どこかとぼけた現代的なニュアンスもあっておもしろい。まことに滋味深い言葉だと思う。今さら解説は不要だろう。

では、「積書(き)」というのはご存知だろうか? 知らない? 私も知らない。私が創ったから。(元祖がいたらスマン)ちなみに見積書のことではない。

つまり、積読と同じで、追いつかないで積み上がったモノだが、これは読みではなく、書き。

小説の創作の作業工程は、彫刻なんかに近いんじゃないかなぁ、なんてことを私は昔から考えている。いや、エルトン•ジョンじゃないけれど、実際に彫刻を彫ったことはないので、あくまで想像だが‥‥‥。

←積読   積書→

まずは手彫り(手書き)で全体をざっくり彫り上げて、それから何度も何度も繰り返し削るようにして、フォルムを出していく。そこから慎重に細部を刻み込んでいく。プゥーッとカスを吹き払って、また削り、更にヤスリで磨き、プッと粉を払ってまた磨く。すると徐々にてらてらと光ってくる。血が通い、動き出すこともある。

ロダンは彫る前に、材料の石の中に既に作品があると言う。なるほど、それなら私もそうだ。

物語が埋まった石が頭ん中に積みあがっている。ひと抱えほどある中編から手頃な短編。身の丈に余る大長編から、手の中にすっぽりと収まる、文字通りの掌編まで。の石。

そして、そんな石は毎日増えていく。笑って増えて、泣いて増え、バカ野郎!とドヤされて増え、胸を衝かれて増え。出会って増え、サヨナラをして、また増えて。切なくなって増え、哀しくて増え、恨んで増え、キレて増え、反省して増え、虚しくなって増え、誰かを想って増え、あのコを思い出してやっぱり増える。そんな右往左往の取り乱した生活の中で、私の石は無尽蔵に増えていく。

面白いのが、この石はある時すっかり消えて無くなっていたり、いつの間にかくっついて、見上げるほどの巨岩になっていたり、逆に手頃サイズに縮んでいたり。

しかし、とにかく私は書くのが追いつかない。だからいつも積んである。

積読もバカみたいにあるけど、積書きもまたバカみたいにあるのだ。だからとにかく毎日書くしかない。あ、秋。

小説TRIPPER 2021秋号 文芸季評で「カメオ」を取り上げて頂きました。

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季刊文芸誌 小説トリッパー 中村真理子さんの文芸季評 「絶望の衝撃と希望のケア」で、拙作「カメオ」が取り上げられた。ありがとうございます。

眩しい。いい表紙。

一部引用。

“可能性を強く感じた異色作”

“カメオォォー!と叫びたくなる”

例のごとく良いところだけ紹介。

異色作。

確かに「カメオ」は純文の作品としては異色かも知れない。少なくとも純文の新人賞向きじゃないだろうと思っていた。これは勝手に誇張された幻影なのかも知れないけれど、応募者にとって新人賞とは“面妖”なもので、そこには実験性が求められたり、過剰さ、新奇さを期待されているんじゃなかろうかといろいろ推測してしまうわけだ。それは主題であったり文体の試みであったり。

それからすると、「カメオ」はひどく“普通”なのだ。平凡。ただの物語。それは却って異色なのかも知れない。それだけに私の中では「カメオ」で賞を頂いたことは意味深い。純文学って何? そんな問いには、最もシンプルで平易な言葉で答えたい。グッとくるもの。だから、おもしろくてグッとくる。なんだかどこかで聞いたようなキャッチコピーだが、私はそんな「物語」を書いていきたい。

あと、“叫びたくなる”

ありがたい。グッときたら叫びたくなるよな。私もだ。書きながら何度も叫けんだ。大学の文学部の友人は、娘たちとお風呂の中で叫んでくれたらしい「カメオォォー!」

008 書く場所考

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どこで書くか。

頭の中の繰り広げられる創作も、やはり書くという行為とその作業空間が必要なわけだ。昔、大音量で鳴るクラブのスピーカーの前で熟睡していた友人がいたが、そんな、どこだって寝られるという人みたいに、どこだって書けるよ、なんて人もいるだろうか。

自宅の自室(書斎)、リビング、トイレ、図書館、カフェ、ファミレス、車の中、電車の中、公園……。

小説がありがたいのは、今ならPCだけども、最悪、紙とペンがあれば、どこでも執筆場所になる。

小説を書くには繊細な感性で云々、などは言うつもりはないけれど、私も書く場所にはこだわる。こだわると言うより、書く場所は生産性にかなり影響する。

ものを書く人の執筆場所として、一番多いのはやはり自宅だろうか?

ありがたいことに、私も自宅に自分の部屋があり、書斎と言って差し支えない大机と椅子、それに本棚がある。が、私は家がダメで、ついつい他のことに気を取られて怠けてしまう。だから締切りがあるとか、余程追い詰められていないと家では書かない。では、どこで書くのか。一番書けるのはカフェ。コーヒーショップ。

そもそも小説家とカフェというのは親和性の高いもので、好一対とも言える。本とコーヒー。コーヒーと煙草。煙草と小説家。煙草は随分前にやめたけれど、とにかくそれらはぴったりで、連想ゲームのように繋がっていく。

例えばサルトル行きつけのカフェ・ド・フロール。サンフランシスコのカフェ・トリエステならケルアック。そんな文学にゆかりの深い有名なカフェもたくさんある。

いつか行きたい Caffe Trieste.

しかしカフェであればどこでも良いわけじゃなく、私にはいろいろ神経質でワガママな注文がある。

カフェなのでお客さんがいるのは仕方ないが、うるさ過ぎず、タイピングするので静かすぎず、声が反響するほど広すぎず、滞在時間が長くなるので、目立たないように狭すぎず、それも個人店ではなくチェーン店が良い。チェーン店の方が放置してくれ、長居に寛容だと思う。それに個人店で行きつけになると確実に認識されて、「何してるんですか?」となる。「いや、別に……」と逃げてもいずれ拿捕される。毎日行くと、チェーン店でも店員さんに認識されるが、まだ適度に見守ってくれる。

それから更に、空間的配置の注文をすれば、背後が壁の席が望ましい。後ろに誰かいると集中できない。もっと言えば前にもいないで欲しい。それ故に、理想なのはある程度広い店の、ちょっとデッドスペースなんかを利用した座席となる。

そんな都合のよい店あるのか? と思うかもしれないが、ある。これは内緒だが、あるのだ。

それからコスパ。やはりコーヒーが高いと困る。毎日のことなので重要。そう考えると、やはりあのチェーン店になるのだが、もうこのあたりでやめておこう。

それからカフェの他に、書く場所と言えば、サイゼリアなんかが良い。短時間ならスーパーやコンビニのイートインもなかなか。電車の中はかなり追い詰められた時。公園、良いのだが、あんまり長くいると通報されかねない。山の中、これは手書き限定だけども別の意味で良い。図書館は意外とダメで、自分のタイピングがうるさいのと、あと本が気になる。車も微妙。あと私はホテルもダメだった。

ということで、書きものをしている皆さんは、どこで書きますか?

「カメオ」が読めるお店 7CAFE(ナナカフェ)幡ヶ谷

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バックナンバー取り寄せや、図書館に行かなくても「カメオ」(群像7月号掲載)が読める。しかも、スペシャリティコーヒーやスコーンなどをお供に。今回はそんなお店の紹介。

幡ヶ谷駅から歩いて30秒の好立地

7CAFE

http://7cafe.jp/

東京都渋谷区幡ヶ谷2-13-1平沼ビル1F
*京王新線幡ヶ谷駅北口から徒歩30秒
◉OPEN 11:30〜
◉平日CLOSE(日〜木) 22:30(21:30L.O.)
◉週末CLOSE(金土) 23:15(22:30L.O.)
◉定休日 火曜日

マスターは古くからの友人で、昔はよく私の果てしない文学談義に付き合ってくれた。

お店には、コアなチョイスの本が並ぶ。本好きにはたまらない。見てるだけでも絶対愉しい。

壁には太宰の「走れメロス」が貼り付けてある。これはバエる。

でもって、そんなマスターに私はデビュー前、いくつか作品を読んで貰って、いろいろアドバイスや感想をもらっていたのだ。

群像新人文学賞のことを伝えると、お祝いを頂いたので、私としては当たり前に「カメオ」も店に置いてくれるものだと思っていた。が、「チェックしてからね」と、マスター審査に合格してからと言うのだ!(厳しい!)

で、(なんとか)無事にマスター審査に合格し、この度「カメオ」が載った「群像7月号」をお店の本棚に並べてもらえることになった。

初めてPOPを作った。ラミして送る予定。

「カメオ」未読の方は是非、7CAFEでどうぞ。

早い人なら一回で読めなくもないが、「琹キープ」なんて粋なサービスもある。気になる本ばかりなので、他の本にも手を出して、琹キープで行きつけににするのもアリ。

かなり落ち着ける。読書にも最適なお店だ。

居心地最高だ。
名物 ババンヌ。 お茶はもちろん、お食事も。

あ、因みに、審査の一件でもわかるようにマスターはそんなに甘くないので、いつまでも「群像7月号」が並んでるとは限らない。急げ、急ぐのだ。

008 Pelikan souveran M400 EF細字研出しcustom

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現在のレギュラー万年筆。

Traditional M215から変更になった。

十代の頃から憧れていた、定番の万年筆。

家族からの贈り物。

万年筆の値段なんてのは、上には上があってキリがないけど、コレもそれなりのお値段。

それなりのお値段とは言え、オトナが買えない値段じゃないが、コレを持つには何かしら「言い訳」がいると思って、ずっと我慢していた。

で、ひょんなことからそんな「言い訳」ができてこいつが私の万年筆ケースに入った。

危なかった。「言い訳」ができなければずっと手に入れられないところだった。

何と言うか、すごく「色っぽい」佇まい。

ペリカンはデザインが良い。見惚れてしまう。定番のグリーンストライプ。黄金と緑はよく合う。

ペン先はゴールドを使ったツートン。

これも美しい。

しかし重要なのは実質。書き味。

これも神戸元町のPen&Messageさんで購入し、EFを更に細字研ぎ出し加工して頂いた。

トラディショナルと書き比べて違いが分からなかったとしても、「ち、違うわ。やっぱり……」と、無理矢理、自らに言い聞かせようと思っていたが、杞憂だった。

「全然違う。サラサラしてますわ」納得の書き味。即メインの万年筆に抜擢。

唯一難点を上げるなら、ちょっと軽い。

軸が長いM600なら重さはちょうど良いのだろうか。いや、ならあれだ。

Toledo.

それにはまた別の「言い訳」が必要だ。