☞前回のつづき。
南米大陸におけるコンキスタドールのインディオに対する残虐行為の数々を告発したラス・カサス。しかし彼がインディオの労働力の代替として勧告したのが黒人奴隷貿易だ。--根深い。
奴隷貿易。欧州列強はアフリカ大陸に住む人々を獣のように捕まえ、あるいは取引し、寝返りすら出来ない棚に押し込み、奴隷船で植民地に送り続けた。排泄物垂れ流しで、病気になろうが死のうがお構いなし。つまり完全にモノだ。そうやって彼らは300年間! 実に1000万人以上の人々を送り続けた。自由、平等、博愛を謳いながら。
では、そんなコンキスタドールや奴隷商人たちは皆、異常者で、サディスト、とんでもない極悪人だったのだろうか。(残念ながら)たぶん違うのだ。恐らく彼らは現代人より遥かに篤い信仰を持ち、普通に家族や恋人を愛していたはずだ。人間を狩り、奴隷としてを売り買いしながら。そんな彼ら彼女らの良心を免罪にしたのは、他ならぬひとつの認識だ。「原住民? 黒人? ヤツらは、いや、アレは人間じゃない」という。
だからおそらくその当時、私が誰かが血を流すほど殴られているのを目撃し、慌てて駆け寄ったとしても、殴られているのが奴隷であれば、「あぁなんだ奴隷かぁ、ビックリしたぁ」と安堵したのかも知れない。そこに何の疑問も、顧慮もなく。
認識こそが最強の武器だ。認識で我々人類はなんだって出来る。躊躇いなくできる。乗り越えていける。どんな惨虐な行為も厭わない。あらゆる抑制を解き、暴走させてくれる。そんな認識の怖ろしさに比べれば、どんな武器も、大量破壊兵器だって、ただのモノでしかない。
すべての宣言や憲章には必ず、但し書きがついている。つまり※だ。小さい文字で。あるいはそれはもっと小さい字で我々の意識の中に書き込まれている。※但し◯◯は除く。◯◯においてはその限りではない。と、でも実はここが核心で本音の部分なのだ。
そうやって、これまでも我々は外見や言語、文化、信教、振る舞い、そんな様々の違い(あるいはわからなさ)から、未開人、土人、異邦人、異教徒、魔女、非人‥‥‥そんなカテゴリーで除外して、認識し、安心して殺戮してきた。OK、ヤツらは違うんだ。
話をゾンビに戻そう。そう、ヤツらは人間じゃない。OK、全力でいく。それにヤツらは加害性もある(らしい)私はゾンビ映画を観ないけれど、基本的なことは知っているつもりだ。ヤツらは襲い掛かってくる。脅威だ。もう彼らには意思や思考、正常な判断、理性も知性もなく、ただもう襲い掛かってくる。映画でゾンビたちが人間に駆逐されていくのを見て我々は安心する。ゾンビだから。
そしてまたヤツらの外見は「いい感じ」に醜悪だ。グロテスクで、腐りかかっていて、たぶん我慢ならない腐臭もするだろう。そう、ゾンビは、映画の中で心優しいヒロインが放つ弾丸で頭を吹き飛ばされても仕方ないと思わせるほどの醜さをちゃんと備えている。自衛の為の対処。殺戮のエクスキューズはいくらでも成立するのだ。
前編で紹介した映画『ゾンビランド・ダブルタップ』はホラーコメディだそうだ。だから我々はゾンビを痛快に殺戮する映画を娯楽として楽しめるのだ。コメディとして。1828年、オーストラリア大陸で政府公認のもと、(原地人の)アボリジナルがスポーツハントで、まさに娯楽として狩り殺されたように。
定めても、宣言しても終わりではないのだけれど、(そうしないとどうやら我々は不安になるらしい)仕方ない。やはりこれは、世界ゾンビ権宣言の起草が必要じゃないか。でもそこから除外されるゾンビもいる。やっぱり※をつけられ、解釈をつけて殺され続けるのだろうか。
よしわかった。それがダメなら、グロいのが苦手な私が新しいゾンビ映画を企画しよう。
新しいタイプのゾンビだ。背筋もピンと伸びて二足歩行。言葉も解し、論理的思考も可能だ。そして見た目も「きれい」だ。腐ってない。でも間違いなくゾンビなのだ。事情は不明だが、彼らは襲い掛かって来る(らしい)という設定。
しかしこの企画はダメだろう。自衛の為に当然人間は彼らきれいなゾンビを「駆除」する。上映開始後すぐに残酷だ! とクレームの嵐。大炎上。「※相手はゾンビです。人間ではありません」と常にテロップをつけても間に合わないだろう。
ちょっと私は分からなくらなってきた。果たして私は、彼らの頭に釘バッドをフルスイングできるだろうか。とにかく私は釘をバットから1本1本抜きながら、もう少し考えてみようと思う。
松永・K・三蔵