020 世界ゾンビ権宣言 後編

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☞前回のつづき。

南米大陸におけるコンキスタドールのインディオに対する残虐行為の数々を告発したラス・カサス。しかし彼がインディオの労働力の代替として勧告したのが黒人奴隷貿易だ。--根深い。

奴隷貿易。欧州列強はアフリカ大陸に住む人々を獣のように捕まえ、あるいは取引し、寝返りすら出来ない棚に押し込み、奴隷船で植民地に送り続けた。排泄物垂れ流しで、病気になろうが死のうがお構いなし。つまり完全にモノだ。そうやって彼らは300年間! 実に1000万人以上の人々を送り続けた。自由、平等、博愛を謳いながら。

では、そんなコンキスタドールや奴隷商人たちは皆、異常者で、サディスト、とんでもない極悪人だったのだろうか。(残念ながら)たぶん違うのだ。恐らく彼らは現代人より遥かに篤い信仰を持ち、普通に家族や恋人を愛していたはずだ。人間を狩り、奴隷としてを売り買いしながら。そんな彼ら彼女らの良心を免罪にしたのは、他ならぬひとつの認識だ。「原住民? 黒人? ヤツらは、いや、アレは人間じゃない」という。

だからおそらくその当時、私が誰かが血を流すほど殴られているのを目撃し、慌てて駆け寄ったとしても、殴られているのが奴隷であれば、「あぁなんだ奴隷かぁ、ビックリしたぁ」と安堵したのかも知れない。そこに何の疑問も、顧慮もなく。

認識こそが最強の武器だ。認識で我々人類はなんだって出来る。躊躇いなくできる。乗り越えていける。どんな惨虐な行為も厭わない。あらゆる抑制を解き、暴走させてくれる。そんな認識の怖ろしさに比べれば、どんな武器も、大量破壊兵器だって、ただのモノでしかない。

すべての宣言や憲章には必ず、但し書きがついている。つまり※だ。小さい文字で。あるいはそれはもっと小さい字で我々の意識の中に書き込まれている。※但し◯◯は除く。◯◯においてはその限りではない。と、でも実はここが核心で本音の部分なのだ。

そうやって、これまでも我々は外見や言語、文化、信教、振る舞い、そんな様々の違い(あるいはわからなさ)から、未開人、土人、異邦人、異教徒、魔女、非人‥‥‥そんなカテゴリーで除外して、認識し、安心して殺戮してきた。OK、ヤツらは違うんだ。

話をゾンビに戻そう。そう、ヤツらは人間じゃない。OK、全力でいく。それにヤツらは加害性もある(らしい)私はゾンビ映画を観ないけれど、基本的なことは知っているつもりだ。ヤツらは襲い掛かってくる。脅威だ。もう彼らには意思や思考、正常な判断、理性も知性もなく、ただもう襲い掛かってくる。映画でゾンビたちが人間に駆逐されていくのを見て我々は安心する。ゾンビだから。

そしてまたヤツらの外見は「いい感じ」に醜悪だ。グロテスクで、腐りかかっていて、たぶん我慢ならない腐臭もするだろう。そう、ゾンビは、映画の中で心優しいヒロインが放つ弾丸で頭を吹き飛ばされても仕方ないと思わせるほどの醜さをちゃんと備えている。自衛の為の対処。殺戮のエクスキューズはいくらでも成立するのだ。

前編で紹介した映画『ゾンビランド・ダブルタップ』はホラーコメディだそうだ。だから我々はゾンビを痛快に殺戮する映画を娯楽として楽しめるのだ。コメディとして。1828年、オーストラリア大陸で政府公認のもと、(原地人の)アボリジナルがスポーツハントで、まさに娯楽として狩り殺されたように。

定めても、宣言しても終わりではないのだけれど、(そうしないとどうやら我々は不安になるらしい)仕方ない。やはりこれは、世界ゾンビ権宣言の起草が必要じゃないか。でもそこから除外されるゾンビもいる。やっぱり※をつけられ、解釈をつけて殺され続けるのだろうか。

よしわかった。それがダメなら、グロいのが苦手な私が新しいゾンビ映画を企画しよう。

新しいタイプのゾンビだ。背筋もピンと伸びて二足歩行。言葉も解し、論理的思考も可能だ。そして見た目も「きれい」だ。腐ってない。でも間違いなくゾンビなのだ。事情は不明だが、彼らは襲い掛かって来る(らしい)という設定。

しかしこの企画はダメだろう。自衛の為に当然人間は彼らきれいなゾンビを「駆除」する。上映開始後すぐに残酷だ! とクレームの嵐。大炎上。「※相手はゾンビです。人間ではありません」と常にテロップをつけても間に合わないだろう。

ちょっと私は分からなくらなってきた。果たして私は、彼らの頭に釘バッドをフルスイングできるだろうか。とにかく私は釘をバットから1本1本抜きながら、もう少し考えてみようと思う。

松永・K・三蔵

019 世界ゾンビ権宣言 前編

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休みの前の晩はたまに、家族が寝たあとで私はオットマンに脚を乗っけてグラスを傾け、A・タルコフスキーなんかを観る。

なんてことはなくて、もっぱらアマプラでハリウッド映画だ。ハリウッド映画は最高だ。そんなハリウッド映画のオープニングで流れる制作会社のロゴムービー。あれがまた良い。

ビルの屋上で照らされた20thFOXとか、星が流れるパラマウントの山峰とか、MGMのライオンの咆哮だとか、あと自由の女神みたいなコロビアム。それらはあたかも、おもしろさのコミットメントのようで、観ていて俄然胸が高鳴る。

逆に、マイナー映画のチープなつくりなオープニングムービーだと、観る前からちょっとゲンナリして不安になる。毎年何か義務かのように過剰に制作されるサメ映画とか、ゾンビ映画とかね。

そんなロゴムービーは基本的にはお決まりパターンだが、作品によっては、その作品の雰囲気や作中の小ネタを取り入れたアレンジがされている。もちろんそれは大手の制作会社に限る。つまりオリジナルが確実に認知されているが故にカスタマイズが効くわけだ。

そんなカスタムされたオープニングのロゴムービーばかりを集めたYouTubeの動画なんてのもある。作品本編を知らずとも、それだけを観ても面白い。

ある時、私はそんなロゴムービー集をなんとなく流していて、ふと観たコロムビアピクチャーのロゴムービーを観て驚いた。いや、慌てた。

例の自由の女神のように松明を掲げて立つ女性(コロムビアレディと言うらしい)が、その松明を武器に襲い掛かる男を容赦なくブチのめしている。

恐らく奴らは、かの美しいコロムビアレディに襲い掛かる不逞の輩、ならず者。それをレディが自衛の為に、手にしていた松明でブン殴っても仕方ないだろうが、1人、2人。2人目はかなり強くヒットしたようで、血糊、いやもっと固形的な何か、肉片? それが顔面から弾け飛び、その一片がコロムビアのCの下弦にベタリと付着したのだから、私は驚いた。

レディは正当防衛だろう。が、明らかにやり過ぎだ。暴漢は死亡、あるいは回復の困難な重傷だ。が、コロムビアレディは得意げに松明を一回転させ、またお決まりのポーズに戻る。胸が騒ついた。オープニングムービー。のっけから穏やかじゃない。

ところがタイトルを見て納得。「ゾンビランド・ダブルタップ」(2019)あぁ、なんだゾンビかぁ。ビックリした。と私は胸を撫で下ろした。だが、ここでふと疑問に思った。あれ? ゾンビだとわかって、なぜ私は安心したのだろう。

ロゴムービーを見返してみる。1人目は呻き声をあげ腕をひろげて襲いかかる。それはいかにもゾンビ然としていたが、2人目はただスタスタと接近するだけだ。私が見たのは2人目あたりからで、だから余計に驚いた。2人目は、それだけ見ればただの人間にも見えなくはない。それが、いきなり頭部を松明でフルスイングされ、大量に血を飛ばして倒れ込んだのだ。私の驚くのも当然だ。それにしても、ゾンビだと了解して、なぜ私は安堵したのか。

ゾンビとは何か? 因みに私はグロテスクなのが苦手で、一連のゾンビ映画はほとんど観ていない。バイオバザードとかドラマのWDシリーズとか、ゾンビモノに詳しい人からすれば、ゾンビの定義はちゃんとあるのかも知れないが、恐らくそれは様々だろう。

例えばウォーキングデッド。文字通りあれは死者、つまり死体。動く死体だ。モノだ。加害性のある物体だと。かつて人間であったが、もはや霊魂はなく(あれ?魂の証明はまだじゃないのか)とにかくただの物だから、破壊行為、排除行為OKなのだ。

あるいは、ゾンビはゾンビウイルスに感染して認識も、知能もなく(これ!)ただ本能で人を襲い掛かる。これも殺処分も止む無し。

そんなゾンビに襲われるとしたら、私もとりあえず釘バットを自作して闘わなければならないだろう。しかしゾンビなるものは映画やドラマで容赦なく、ありとあらゆる手段で殺戮されまくっている。派手に豪快に、爆破され、すり潰され、射られ、斬られ、ショットガンで吹っ飛ばされ‥‥‥。なんだかちょっと気の毒。

ゾンビとは何か? wikiを見ると、ゾンビはアフリカ地方のブードゥ教の呪術に由来するらしい。動く「死体」というのがオリジナルということになるが、多くのゾンビ作品が作られる中でゾンビには様々な解釈が出来たようだ。この様々な解釈というのが非常に厄介で、つまり我々はその解釈、あるいは認識に拠って対応していることになる。

おい、ゾンビは架空だ。架空の存在だ。何をそんなにムキになって、と声が聞こえてきそうだが、もうちょっと待ってくれ。

翻って人間だ。人間とは何か? これはゾンビ以上に難問じゃないだろうか。直立二足歩行、精神、言語、道具を使う、理性、知性? 人間にもいろんな人がいる。カラスも道具を使うし、知性と言っても幅広い。理性に関しては甚だ怪しいんじゃないだろうか。意識? これもその発源が謎のまま。魂? 24gだっけ? でもその所在については未だ人類は未証明だ。うーん、人間もそろそろ怪しくやってきた。

人間ってものはよくわからないが、でもとにかく人権だけは宣言された。すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する(第三条)なんて世界人権宣言が採択されたのは意外と遅くて、1948年! めちゃくちゃ最近。人権に関する明文化については、それ以前に18世紀の欧州に興った啓蒙思想の流れからバージニア権利章典(1776年)というものがあったり、フランス人権宣言(1798年)などもあったというが、人類の歴史を考えるとそれも随分と新しい。もちろん1948年以降も、今も、人権蹂躙はバンバン行われていて、明文化したとてそれで解決するわけでは、もちろんない。

人権などというコトバが生まれる前にも、人類には道徳観念があって、その礎となる宗教もあって(逆に作用する場合も往々にしてあるけど)そして理性の象徴たる法律だって紀元前数千年前からあったのだ。ところが人類の歴史をそれほど紐解かなくとも、そんなもことが疑わしくなるような凄まじい残虐行為はすぐに見つけることができる。

例えば大航海時代のコンキスタドールによる南米大陸の「原住民」(という言葉!)への残虐の数々。ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』にはそのあまりに非道なその行為の数々が記されている。瞞し、掠奪し、殺戮し、降伏した数万人のインディオたちに食糧与えず、他のインディオと闘わせ、捕えた相手を食べさせたという。他にもインディオの子どもを切り刻んで猟犬の餌にするなど、想像を絶する残虐行為が報告されている。人間の惨虐さは底無しだ。

あまりの凄惨さにラス・カサスがその「報告書」をもって本国に告発したわけだが、そのラス・カサス、インディオの労働力の代替案として、とんでもないことを勧告した--。ということで長くなったので、

後編につづく☞