033『新潮』8月号と『文學界』8月号にエッセイを掲載していただきました。(お知らせ×日乗)

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「新潮」と「文學界」、同時にエッセイを掲載していただいた。(7/5発売)

お話をいただき、同じ月の号になった。両誌ともに初登場エッセイ。

初登場なので、私の文学マニュフェストとも言うべき内容のエッセイで、それは互いにリンクしている。

寺院の門に据えられた阿吽の仁王像のように一対になっていて、両方とも読んでいただければオモロさ倍、いや三倍だ。そんなオモロイエッセイとなっている。

まずは『新潮』

『新潮』8月号 私は道になりたい

「私は道になりたい」 ん? もしかして、コレってアレか? アレなのか? 勘のいい人は気づいただろうか。どうだろう。それは誌面で確かめてくれ。こちらには私の心の師である、坂口安吾、シモーヌ・ヴェイユの御両名にご登場いただいた。

それから『文學界』

『文學界』8月号 押せども、ひけども、うごかぬ扉

このタイトル。好きな人なら、すぐにその出典を言いあてるだろう。そう、太宰治だ。日本文学界のスーパースター。けれど、正面切って好きだとか、影響受けたとかは何故か言いにくい。そんなビートルズ的な存在だ。メジャー過ぎて、迂闊に手を出しにくいのだ。でもやっぱり偉大。天才。そんな太宰をフューチャーして書いた。

オモロイエッセイなので、皆さんどうぞ、書店で買って読んでみてくださいね。

そして『バリ山行』の単行本が出る。

それで三点。三点支持だ(山)。三蔵、三点セット、全て読んでオモロさ九倍だ。

ということで、単行本もよろしくお願いします。「群像」掲載版よりブラッシュアップされ、文章のキレが格段に増しております。表紙も奥深くて鉱石のように美しい装丁の本ですよ。

松永K三蔵

『バリ山行』、単行本にしていただきました。

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感謝。『バリ山行』、本にしていただきました。

画像はAmazonさまより

ありがとうございます。

いい装丁。カッコよく、インパクトもあって、分け入るように奥深い。赤い線は、よく見ると破線もあり、山中を辿る軌跡になっている。グリーンの地形図は鉱物にも見えて綺麗だ。

ちょっと外国文学ぽい感じの装丁が、私はとても気に入っている。そして装丁は、あの川名潤さん。そりゃ間違いない。

グリーンと赤は今作のテーマで、以前紹介した掲載時の自作看板もそのカラーイメージ。山のグリーンと妻鹿さんの赤い汗止めバンド。

でもやっぱりこれじゃ安っぽい……。

当たり前だけど、やっぱりプロの仕事は凄い。

皆さんのお手元に早く届きますように。

純文学をどう読むか。文学性の解釈は人それぞれ。あーおもしろかったぁ。読んで、シンプルにそう思っていただければ幸せです。

オモロイ純文運動。

松永K三蔵

032 第171回芥川賞候補に選んでいただきました。感謝。(お知らせ×日乗)

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「バリ山行」(群像3月号)です。単行本にしていただけるとのことなので、皆さん本屋さんでお手に取ってみて(買って読んで)ください。

今はあまり言うこともないので、報せを受けた時の感じを描いて、置いておきます。さすがに慌てた。

えぇッ!

031 デカダン文士シリーズ 其の壱 だいたい笑っている檀一雄

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昨年9月、私は『群像』10月号の「文一の本棚」(講談社の文芸第一から出版された本から好きな作品をチョイスして書評)を担当させていただいた。なんでもOKということだったので、私は群像文芸文庫の「昭和期デカダン短篇集」なんて時代錯誤のアンソロジーをチョイスした。

私は意図してデカダン作家を選り好んでいるわけではないが、私が心惹かれ作品は、何故か高確率でデカダン作家のものになるのだ。残念ながら、中には今ではあまり読まれなくなっている人もいる。ということで、私の好きなデカダン作家を、思いつくまま、全くランダムに紹介してみようと思う。そんな感じなので、一応、其の壱とさせていただく。其の弍もまた、そのうちに。

檀一雄(1912-1972)

あの女優の壇ふみさんのお父さんだ。

言わずと知れた太宰の盟友。そしてまた、安吾のよき理解者、友人でもあった。そんなデカダン両巨頭に挟まれて、その友人、証言者的な(実際に二人の名前そのままタイトルに作品にもしている)扱いをされがちな檀一雄、しかし作品はめちゃくちゃ良い。そりゃそうだ。彼らふたりと五分で付き合えたのだから。

派手な逸話が多い太宰や安吾。ふたりとも精神的変調があったが、檀一雄は至極健康。健康過ぎた。そして素面(しらふ)でヤバい。いや実は二人よりもヤバい奴なのかも知れない。

檀一雄もヤバい奴だが、この友人二人が手がかかる。すぐ死にたがる太宰、被害妄想の安吾。放っておけない。放ってはおけない檀一雄の面倒見の良さは、その生育環境から来たものだろう。九歳の時に母親が若い医学生と出奔し、以後、三人の妹たちの世話をする。『檀流クッキング』は早くもこの時にはじまったのだ。結婚し、病身の妻リツ子の看病、親族、家族の面倒もあった。その後も寝たきりの次男、家庭のこと、いろいろあった。実際どこまで面倒を見たのかはわからないが、とにかく檀一雄には「まとも」であらねばならない事情がついてまわった。その放埒、不羈の精神に反して。

当然、それらは作家の中で争うことになるのだが、檀一雄の偉大さは、そのほとんどで「負け」たことだ。つまり放埒に走った。妻を子を置いて中国に渡り、家族を放ったらかして女優と不倫。好き放題やった。困った人なのだ。

さて作品だが、デビュー作は「此家の性格」。ここには抑圧され、暗い翳を背負わされた少年時代の心象風景が驚異的な解像度で書かれている。暗鬱さは自らをも蝕み、その迫真が作品の強度を効果的にあげ、放埒と放浪への予感につなげているのだが、それはまさに作家、檀一雄のマニフェストとも言える。

初期の出世作の「花筐」は、いわゆる青春群像劇だが、この作品を私は良いとは思えない。もちろん非凡の人ではあるが、檀一雄は決して天才タイプではない。どうも作品には自らの天才を恃んで書いたようなところがあって、まわりも、これは天才の作品なんじゃないか? と評価したんじゃないかと思う。後年の作品から照射すれば、私には文芸的な器用さだけ目立つ作品に思えてしまうのだ。

そして、ベストはやはり『リツ子・その愛』『リツ子・その死』じゃなかろうか。『火宅の人』もちろん良いけれど、個人的にはやはり『リツ子』だ。日本文学史上屈指のヒロイン、静子がいるから、やはり『リツ子』だ。拾い読みで再読しても泣けて泣けて仕方ない。美しいのだ。愛妻の物語が? いや違う。その放埒が。

"行こう、と私の決心は強まった。黄河を見たら引返す。黄土層に咲き出した梨の花を栞にして、一ひらを老師の手に、一ひらを妻の手にら、それから憶良のようにボソボソと支那のお伽話を、わが子の寝物語に聞かせてやれば、それでよい”

のっけから良い。めちゃくちゃ良い。因みにこの老師とは佐藤春夫だ。

"やっぱり、太郎を連れ出して見たかった。幼年の日の山と川を、親子二人して歩いてみたかった。私は、行衛の知れぬ自分の心の来源を確めたい。櫨と、小松と、清流の上にかぶさる竹藪と、なだらかな雑木の丘陵を、夢のように朧ろな、昔の追憶の篩いで洗ってみたい。”

抜き出せばキリがない。文章も良いが、長篇小説全部がうねる巨大な詩になっている。母方家族との確執、息子太郎。もちろんリツ子。可也青年。そして静子。悲哀すらも丸呑みにして喝采する。リツ子の死のシーンはものすごい筆致。未読の方は是非読んで欲しい。

新潮文庫の装丁も最高だ。

檀一雄を画像で検索すると、だいたい笑っている。笑ってる場合じゃない! なんてことも散々やらかして来たのだろうが、なんと美しい笑顔だろう。

檀一雄は快活に笑う。快男児。快晴。仮に太宰が曇り空なら安吾は雷雲。そして檀一雄は抜けるような晴天だ。しかし、どこまでも青い蒼天は、どこかふと哀しい。哀しいが、哀しいことも丸呑みにして檀一雄は笑う。盟友太宰を送り、"安吾さん"を送り、ひとり残って溌剌と戦後を生きたのだ。

030 「バリ山行」試し読みweb公開【講談社 現代メディア】(お知らせ×日乗)

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「バリ山行」(群像3月号掲載)の試し読み記事をつくっていただきました。本日、講談社 現代メディアの群像で公開されました。ありがとうございます。

また勝手に描いた(非公認)

「バリ山行」の冒頭は X (旧Twitter)にページ画像で公開されていたので、今回の試し読みは、冒頭ではなく「バリ」が何かわかる序盤のハイライトシーン。私も好きなシーンだ。

読んでいただければわかるが、ここでMEGADETHが出でくる。え? メガデス?

わかる人は世代だろうか。そうだ、メタルBIG4の一角、メガデスだ。もっとも私はメタルと言えばPANTERA(パンテラ)一択なんだが--。長くなるので今、それは措く。

いや、敢えて措かずに繋げてみようか。

パンテラと言えばフロントマンはVoのP・アンセルモ。初期のロングモヒカン片流れスタイルからスキンヘッドにし、それは伝説的なギタリストD・ダレルの赤髭とともにパンテラのアイコンとなった。

そしてスキンヘッドと言えば、「バリ山行」の執筆中、ずっと私の意識にあったのは、F・コッポラの映画『Apocalypse Now(邦題:地獄の黙示録)』の、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐だ。つまりコンラッドの『闇の奥』のクルツ。

密林の中、川を遡り、その先に超然と存在するもの。

理解や共感を拒み、ただひとり、道を外れて突き進む。薮を漕ぎ、枝を潜り、岩を越えて流れに足を入れ、山を歩く。その先に何を見るのだろう。そんなことを考えながら書いた。

そんな小説。

皆さん、どうぞ「試し読み」をお楽しみくださいませ。

↓↓↓

イッキ読み必至!先行の見えない世の中において、確かなものとはどこにあるのか…?
不安定な現代社会を鋭く描く、新たな山岳小説
https://gendai.media/articles/-/125615
4月4日(木)公開。

小説トリッパー春季号 文芸季評に「バリ山行」を取り上げていただきました。”愉快なサンゾウ”

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小説トリッパー春季号の文芸季評に「バリ山行」を取り上げていただきました。評者の中村真理子さん、ありがとうございました。

とてもわかりやすくまとめていただき、また読みたくなるような評を書いていただいた。

小説トリッパーは季刊の文芸誌なので、文芸時評も月評ではなく季評。冬シーズンの中から幅広く採られる。今回、評で隣になったのが「世紀の善人」(すばる)の石田夏穂さん。

「世紀の善人」は未読で申し訳ないが、どうやら作中に「サンゾウ」という記号を附された人物たちが出てくるらしい。(作中の会社名三國造船、略して三造か)前時代的価値観の権化のような「サンゾウ」たちは観察され、解体されて様々なる意匠に腑分けされていくらしいが(違っていたらスマン)そんなバリエーションの後で、そして「こちらは愉快なサンゾウこと松永K三蔵」と拙作の評に繋げる。これを中村さんはやりたかったのだ。私も思わずニヤリ。これは嬉しい。私は愉快な人間らしい。

私とて、できれば沈鬱な面持ちで、カッコよく、そう群像なら例えば「風の歌を聴け」とか「限りなく透明に近いブルー」(当初のタイトルは違うらしく、とてもここでは書けない)とか、そんなカッコいいタイトルでデビューしたかったが、私のデビュー作は「カメオ」ですからね。(あまりアテにしてなかったので、まさかとは思ったが、「カメオ」を群像に送る時、ふとよぎったのだ。万々が一、これでデビューしたら、俺、デビュー作「カメオ」になるんだ‥‥と)

まぁ、それも運命(さだめ)だが、いずれにしても私は愉快な人間だ。なので嬉しい。ありがとうございます。

小説トリッパーの表紙っていいですよね。

Yahooニュース(Bookbang レビュー 週刊新潮)で「バリ山行」を取り上げていただきました。

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↓ 記事のリンクは文末に

ありがとうございます。評者は、あの文芸評論家の栗原裕一郎さん。もっと文字数があれば「メッタ斬られ」ていたのかも知れない。

そして評題が「遭難か、リストラか、純文学には珍しい山岳小説」ときた。そうそう遭難とか、リストラとか、確かにそんなことが書いてある。

遭難か、リストラか、。「か」の後に読点があるので二者択一じゃなのか? ただの並列なのか? 択一ならどっちもダメだろ。デッドorデッドみたいな、地獄のチョイスじゃないか。

とにかくも、こうしてYahooニュースになるのはありがたい。

ただ、少し気になったのは、Yahooと言えばヤフコメ。山を舐めるなおじさんが作品を読んで、「山を舐めるな!」コメントしないことを願うばかりだ。

記事はコチラ

https://news.yahoo.co.jp/articles/c26359b8a2641d3ceb0f53c0cb0bbdae7733c0de

029『文學界』4月号 新人小説月評に「バリ山行」を取り上げていただきました。そして思ったこと(お知らせ×日乗)

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評者は渡邊英理さんと、宮崎智之さん。お読みいただきありがとうございました。

感謝の気持ちを込めて、文學界4月号の表紙を描いてみた。特に意味はないのだけれど。

渡邊英理さん。言語の共有性について書かれた冒頭の文章が非常に印象的だった。

小説を書くことは、自己を掘り下げることで、それはどこまでも"たったひとりのわたし"の行為なのだが、"共有可能な普遍化"された「ことば」で書くというこはやはりどこかに他者を想っていて、それは物理的には掘り進めた先に世界が拡がることになる、このパラドキシカルな地球という球体に住む我々への示唆でもある。離れるということは、つまり近づくことでもあるのだ。

渡邊さんは、「バリ山行」を二つの危機を並べて、現代社会を批評する作品だと評してくださった。我々は日々何の為に生きるのか。生き延びねばならないのか。そもそも生きるとは何か。社会的な存在としての自己、あるいは生物としての自己。個、他者、関係性。いや存在の概念は自己を超越し得るのでは--。(その手がかりは他者不在を仮定した山で体験する幻想にあったのかもしれない)というテーマはまた今後の作品に引き継いでいく。

評題「分かると分からないのあわいで」いい言葉だ。分かるということの横暴さを引き受けて、脂汗を流しながら、しかし分らず、問い、問いながら書き、そのあわいでとどまり続けること。そんなことを思う。

宮崎智之さん。「不確かな世界と言葉」この評題も好きだ。世界とは、必ずしも大きな世界だけではない。それぞれの世界があり、社会という世界があって、コミュニティ、職場、学校、家庭、あなたとわたし、わたしだけの世界もある。それがどれほど小さく、また卑小なものであったとしても、嗤う勿れ。例えばひとりのこどもの世界の切実さは、最も大きな世界のそれと等しい。この世界がどのようにして成り立っているかを考えれば、それは当然なのだ。

全く世界というものは不確かで、私たちは常にその変転に晒され、流され、のまれ、そうして抱かれている。そんなフラジルな世界の不確かさこそが受容に転換されるはずだ。というのも今書いている作品のテーマだったりする。

"不確かさに身を晒し(中略)恐る恐る辿るうちに視界がひらかれていくのかもしれない。言葉を書き、読み、つないでいくことも、そういった営為なのではないか"(宮崎さんの時評より)

私もそう思います。

奇しくも今回の二つの評には互いに親和性があったようだ。読んでいて私は無性に小説を書きたくなった。

読売新聞(2/27朝刊)文芸月評で「バリ山行」を取り上げていただきました。--衝撃の事実!

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衝撃の事実! すみません。こんな下衆なタイトルで。ちょっとやってみたかったのだ。

この読売新聞の文芸月評は見逃していて、慌ててバックナンバーの新聞を探した。

過去の新聞ってどこで買えるのだろう? 売店やコンビニの売れ残りは早々に廃棄だろう。捨てられている近所の新聞束を漁るのはさすがにマズいので、調べると、販売店(配達所)で買えるらしい。

さっそく読売新聞の販売店を探して買った。(大抵の販売店は駅から遠い)因みに事前に「読売新聞の月評はいつ載っている?」とchat GPTに訊くと、2/25の日曜日の朝刊だと教えてくれた。ほんとか? と念押ししても間違いないと言う。

しかし2/25の朝刊を買ったが、載っていなかった。私は再び販売店に行った。2/27の朝刊に載っていた。うーん、AI。

小池さん、男前ですね。

「バリ山行」載っていました。ありがとうございます。

と、ここで驚いたのは、

「奇をてらわぬ作風で、現在の文芸界ではむしろバリというべきアプローチが新鮮だ。」

あれ? 俺ってバリだったの? 普通の文体、普通のリアリズム小説を書いて、てっきりド正道と思っていたけど。えぇーマジかよ。

確かに、普通の話を普通に書いて、それでよくデビュー出来たよな、とはいつも思うけれど……。現在の文芸界では、俺って異端だったのか。びっくり。

あぁ、そうか、じゃあ俺も書くよ。奇をてらったやつを。すごく奇をてらったやつを。--というのは冗談だが、まぁ、そういうのはおいおい。

とかなんとか思っていたら、なんだwebで読めるじゃないか。https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/articles/20240226-OYT8T50154/#google_vignette

評者の文化部の武田さんは以前に「カメオ」も読んでくれていた。ありがとうございます。

ということで、作品とともにどうぞ。

いつかの冬の六甲山

これ、モノクロに見えるでしょ?

モノクロなんですよ。

共同通信・文芸時評「いま、文学の場所へ」2月 で「バリ山行」を取り上げていただきました。

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渡邊英理さんの共同通信・文芸時評「いま、文学の場所へ」の二月版で「バリ山行」を取り上げていただきました。

ありがとうございます。

「いま、文学の場所へ」素敵なタイトルだ。

拙作は「生きる能力とは」と題されて評していただいた。ありがたい。

「生きる」こと。それ、そのままを小説に書きたいと私はいつも思っている。だから「生きている」人に作品を届けたい。汚さも、狡さも、いい加減さも、醜さも、浅しさも、強慾も、気高さも、勇敢さも全部引っくるめて、ちゃんと生きている人に届けたいなぁ、などと考えている。

今回はwebで拝読したので、紙面はない。イラストもないので、いつかの山行の自撮り。

渡邊英理さん、ありがとうございました。先生の「中上健次論」、はやく読まねば。

※山は安全第一で!➕安全第一➕