流行りコトバというものは取り扱い注意だと思いながらも、指さきで摘み上げるようにして覗いてみる。するとそれらは大抵、既存の看板の付け替えで、実はそれほど新味があるわけじゃない。
「ルッキズム」だってそうだ。それは故事にもあらわれているように、昔からそんなことへの問題意識がずっとあったわけで、逆にそんな視覚偏重の止み難い連綿が人間にはあるのだというゲン然たる事実こそが重要なのだ。
あんまり原理主義的なことを言いはじめると化粧品や装飾品、衣服だけでなく住宅や道具に至るまで、その意匠性を否定され機能一色に塗りつぶされる。そうなると「機能」はその解釈に新たな概念を付与されることになるに違いない。意匠もまた機能であることは明白なのだけど、ムダなものを軽視するのはディストピアの先駆けで、その先はひどくバカバカしい話になるので、なにごとにも加減が大切。
美しい、醜い。いわずもがなそんな言葉も変わり、言葉をとりまく環境も変わり、同じ言葉もその意味づけがコロコロと変遷する。結局変わらないのは人間の本質と其々が手前勝手に捉えているバラバラの概念というやつだ。
そんなことを考えていて、ふと思い出したのは、かつて(2年前くらいか)ネットで話題になった"宗谷の蒼氷"さん(ちょっと読み方がわからない)という美人ライダーだ。いや、正確には若い美人ライダーが、実は50代のおじさんだったいう、あれだ。
画像のアプリ加工で肌ツヤ綺麗に、などというレベルではなく、年齢も性別も変わっている。もともとこのおじさん、ちょうど(敢えてここの註釈は省くが)セバスチャン・バックみたいなストレートのサラサラロングヘアーなのでややこしい。その50代のおじさんはSNSの画像の中で、まんまと美女ライダーに変身していたのだ。
少しタレ目で親しみやすい印象の、とってもかわいい女性(に見える)。中高年男性の愛好者が多いバイク界ではかなり目立つだろう。しかも走るだけでなく、おじさん顔負け、エンジンバラしなどのバイクいじりまで。そのギャップに多くのファンが出来たはずだ。
もしかしたら、そんな「彼女」との遭遇を狙って、SNSに残る写真から予測した走行ルートに向かった男性ライダーも少なくはなかったんじゃなかろうか。
その後、ご本人は「本当の姿」を自らバックミラーに映り込ませて、ネタバレ。それはネットでも話題になって、後にテレビでも紹介された。
もちろんこれは悪意でなく、バイクの魅力を伝えるネタとして始めたということだが、ベッドの中から肩出し、上半身裸を思わせるサービスショットまで載せていたので、完全には無罪とは言えないだろう。
この話で興味深いのは、ネタバレしたあとに怒って攻撃的なメールを寄越す人が多数いたということだ。騙したな! ということなんだろうが、一体彼らは何を失ったのだろう。
彼らの中で、あのかわいい美人ライダーは一瞬にして消失したのだ。しかし亡くなったわけでなく、変わったわけでもなく、存在自体が消失した。いや、はじめから無かったのだ。まるで存在と認識についての本質に触れたようだ。しかし奇妙なことに事実は変わらず、何も失っていない。ただ光学の補正で「彼女」として見えていたが、実体のおじさんライダーは尚も存在し、走り続け、エンジンをバラしている。彼らは何を失ったのだろう。
美人ライダー。美人・ライダー。つまり美人は失われたとしても、ライダーは残っている。バイクのカスタムや、スタイルが渋いなどと言っていたんじゃないか? 必ずしも外見だけに注目していたわけじゃないと言っていたじゃないか? それでもライダーだけではダメで、やっぱり美人がついていなければ‥‥‥、ということだろうか。美人でライダーで、そのギャップが良かった、のだろう。しかし言い訳けをしてみたところで、結局はみんな外見に囚われていた。そもそもそうでなければ、こうして話題にもならなかったのだから。
さてここで、ヘアピンカーブを無理矢理曲がって小説について。
美人だとか不美人だとか、近年では小説の人物の容姿について否定的に(それでいくと肯定的なのもマズかもしれない)描写することに批判的な声もあるわけだ。
「描写」は(もしかしたら筒井康隆先生の作品あたりで一切の描写を廃した実験小説があるのかも知れないが)通常の小説技法としては必須だろう。形質についての正確な記述というのは描写ではない。描写は無味簡素な説明書きではないので、そこには社会的、文化的、時代的構造を背景とした書き手(語り手)の認識、表現のバイアスが入る。そしてそれは読者とも、ある程度の範囲での共有を前提として書かれている。そこにズレる恐れがある場合は(古典作品や外国文学にあるような)註釈が附録されるわけだ。セバスチャン・バックって誰だよ? つまり純粋な「描写」というものはあり得ないのだ。
美的感覚についてもまた同様で、やはり社会的、文化的、時代的構造からは免れない。絶対性というものを放棄した現代においては誰も(正しい)判断できないわけだ。結果的に大多数の意見(強いものの意見)が「正しい」ものになるのだが、それは本質的なものになり得ず、判断は常に誤謬を孕んでいる。という前提があるにも関わらず、やっぱりそれにストップがかかる。
美しさというものは貼り付けられた一枚の画面でなく、私は多面的で動きのあるものだと思っている。醜いものが美しく見えたり、美しいとされるものがある瞬間にはひどく醜かったり、揺れる水面の反射のように、見る方向によって見え方も異り、常にそれは移り変わるものだ。
誰かの美醜の判断という行為もやはり一面的で一時的なものなのだ。そんなことはわかりきっている。そもそも書き手(語り手)などはハナから所謂「信用できない語り手」という前提でよいのじゃないか。もしかしたら世間には書き手に対する過度な期待、というか信仰があるんじゃないだろうか。公共性と言った方が良いか。Publish(出版)は語源であるのPublic(公共)なのだけれど、小説も大説に対する小説でもあるわけで、小説表現にあまり目くじらを立てるのもどうなんだろうか、とか思うけれど面倒なことに巻き込まれると怖いのでこのへんで。いや、あと少しだけ。
しかしその大きな確固たる社会、或いは国家、時代の枠組み(社会的、文化的、時代的構造)に無理やり押し付けられた「醜い」者の哀しみを小説こそが描かなければ、小説(純文学)はなんであろう。いや、だから今もその枠組みによる無自覚な偏見と誤解のもとに傷つけられている被害者がいるんですよ! この三文文士! とやっぱり怒られそうだが、確かにペン先は鋭い。鋭くて、時に人の心を容赦なく抉って傷つける。しかしそれはペニシリンじゃないけれど、毒でもあるが薬にもなるものを無くしてしまおうということにはならないはずだ。
厳然とあるその問題を、無いもののように無視して振る舞い、影も消失するほど過剰にライトを照らし、ホワイトアウトした世界というものを果たして我々は望んでいるのだろうか。
それにしてもあの美人ライダーは本当にかわいい。