024 劇団鹿殺し ザ・ショルダーパッズ論考 鹿版銀河鉄道の夜 ―転倒する舞台力学。異化された者が媒介するもの―

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※劇団のTwitterより

7月。私は劇団鹿殺し ザ・ショルダーパッズ「鹿版銀河鉄道の夜」を観た。 工作した肩パッドで股間だけを隠すという変態的衣装で演じる演劇に(↑の画像の通りだ)私はわけもわからないまま激しく心を揺さぶられ泣き、そしてそれが何故なのかを考えた。

「批評」や「論」などというものは、ちゃんとした演劇人や批評家の方にお任せして、私はただ私の感動の所在を探り、その解釈を自分なり得たいと思って、考えながら書き、書きながら考え、探り探り、そんなものを「論」というのはおこがましいので、私の思考のその足跡を「論考」としての残すことにした。 とは言えこれも日乗のネタなので肩肘張らず、あくまで気楽に。そして予め断っておくが、私は熱心な演劇ファンでもないし、専門的な演劇、舞台芸術の知識も持ち合わせていない。いろいろ見当違いのこともあるかも知れないがご容赦してほしい。

「ショルダーパッド」とは市販の肩パット二枚を縫い合わせただけの、世界最小の舞台衣装である。ザ・ショルダーパッズは、この最小限の果てに演劇の創造性と観客の想像力を最大限に高めようとする、夢のような試みである。(劇団鹿殺し座長 菜月チョビさん)

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ショルダーパッド(以下SDP)は、陰部だけを隠す、通常「前張り」と言われるものの衣装化と言っても良いだろう。ギネス認定はまだかも知れないが「世界最小の舞台衣装」であるというのは間違いなさそうだ。その構造はひどくシンプルで、肩パッドの面は股間に、その上端部に縫い付けた紐をサスペンダーのように両肩に引っ掛け(それは伸縮性のあるゴム紐だと思われるが)背面にまわり臀部の中心で合流して、そのまま肩パッドの逆端部に繋がる。 また撮影用と舞台用では使用されるSDPは別物のようで、舞台用では、舞台上の激しい動きに耐えられるように、最低限の補助線ともいうべき紐が(ちょうど腰の腸骨のでっぱりのあたりに引っ掛かるよう)サイドに補強された仕様のようだ。これはおそらく、過去の稽古中に発生した「不幸な事故」による改良ではないかと私は推理をしている。

そんなSDPにも型番があるのかどうか知らないが、それは試行錯誤を重ねられ、もしかすると今回私が見たものも、新型のSDP4.0あたりなのかも知れない。いずれにしてもやはりそれは「世界最小の舞台衣装」だろう。

7月18日。関西に住む私はその舞台の千秋楽を配信で観劇し、茫然とその余韻に浸りながら、ふと考えた。――SDPは役者個人が、それぞれ自分SDPを持ち帰って洗うのだろうか、それとも劇団でまとめて洗うのだろうか。もちろんそれはわからない。わからないが、いや、やっぱりデリケートな部分に接触しているから、いくら同じ稽古場で練習し、時に釜の飯を食う仲間だとしてもちょっと抵抗があるのかも知れない。するとやはり役者は皆それぞれマイSDPに持ち帰って、洗濯するのだろうか。SDPにどれほどの耐久性があるのかは不明だが、SDGsにも対応済みとのことだから、当然複数回の使用は可能なはずなのだ。

そうして公演を終えた翌日のザ・ショルダーパッズたちの自宅のベランダには、舞台で使用されたSDPが吊るされ、風に揺れていたはずだ。干す際はゴム紐を挟んではならない。伸びるから。パッドの方を洗濯バサミで挟んで吊るす。それがSDPの正しい干し方だろう。

そしてもし、界隈に不逞の下着泥棒が出没していたならば、彼はふと見上げたそのベランダで「未知との遭遇」を果たすことになるだろう。「なんだ、コレ……」映画は異なるが、BGMはR・シュトラウス作曲の「ツァラトゥストラ」だ。そう、つまりSDPはこの世界においての「異物」なのだ。

(記事にはイラストを描くことにしているので、今回も描いたみた)

私が観劇したのは2023年鹿版「銀河鉄道の夜」。誰もが知る宮沢賢治のあの名作をどうやってSDP姿で演じるのだろうか。小劇場演劇の、大道具なし、衣装なし、机ひとつ、あとは役者の演技だけ、というのであればまだ分かるけれど、ほぼ全裸の、あのSDP姿は寧ろ物語を阻害するものじゃないのか。ネタだろうか。そんな格好であの「銀鉄」を演る。例えばそれは痛快な、古典のラノベ的超訳、あるいはクラシック音楽のPUNKアレンジ。そんなノリにたのしく笑って、それはそれで面白いのかも知れない。しかし股間のみを隠したほぼ全裸姿、それはどう見てもキワもの。それで演劇をやれば荒唐無稽なナンセンス劇に落ち着くのがいいところじゃないのか。ただウケを狙ったものであれば、いわゆる「出オチ」というやつで、もって五分。十分もすれば飽きられてしまうものだが……。鹿は大丈夫だろうか――。正直、私も観るまではそんな不安もないではなかった。

が、それらは見事に裏切られ、私は感動し、久しぶりにみっともないくらい嗚咽、号泣し、観終わって大混乱に陥った。あんな変態的衣装の演劇を見せられて、俺、なんでこんな――。私は私の中の処理のできない心の動揺に解釈を求め、配信での観劇だったのを幸い、その後少なくとも五度は観返しながら考えたのだ。

そもそも演劇における衣装とはなんだろうか。それは演劇の小道具で、観客を物語世界へ導入する為のものだろう。当然に服を着て観劇している我々の理解の延長線に、演目の物語世界があるのだとすれば、演出家も観客もその「効果」を衣装に期待しているはずだ。何の註釈もなく、王様がボロを着て、農奴がマントを羽織っているならば物語の約束事は成立しない。つまり衣装というものは演出家と観客のある一定のコンセンサスに基づいて成立しており、基本的には作り込まれた衣装であればあるほど、目の前の舞台で繰り広げられる物語世界(フィクション)への没入度合も高くなると期待して良い、普通は。 つまりほぼ全裸のSDPで物語を演じるということはその逆を行くということで、舞台力学? というものがあるとすれば、SDPは反作用し、それは転倒しているのだ。

そもそもフィクションというものは、つまり「ウソ」であって、私が書いている小説、や映画、舞台演劇もやはりウソなのだ。漫画やアニメも、言ってしまえばその「ウソ」のカリカチュア表現と言える。小説はその「ウソ」にありとあらゆる言葉を尽くし、(一般的な)映画は写実的つくられた疑似世界を、フレームを介して見せることだ。フレームの向こう側は、実に生々しい「ウソ」でまみれている。私は以前、インドの映画館でハリウッド映画を観たことがあったが、フレームの規格が異なるのだろう、映画の最初から最後まで画面の上部に収音マイクが見えていた。私はフィクションの怖しさを垣間見た気がした。閑話休題。

そのフィクションの中でも、演劇(芝居)は一番、怖ろしい。はじめてまともに演劇というものを観た時に持った私の感想はそれだった。生だから。それもある。それもあるけれど、他のフィクションジャンルの媒体は紙や映像、画像をなのだけど、演劇の媒体は「人間」だ。生き物である「人間」を媒体として使用して、まさに一回きりの生で見せられる。劇場で観劇すると、私はいつもそこに逃げ場がないような息苦しさを感じる。本を閉じることも、一時停止ボタンを押すこともできない。目の前にいる役者に私も「当事者」であることを強いられる、そんな息苦しさを感じる。もしも中座すればもう「それ」は二度と観ることができない。今、その瞬間の、目の前の役者は一回性なのだから。

目の前で繰り広げられる芝居の物語世界は「ウソ」で、舞台装置を凝らし衣装を作り上げ、役者がどれだけうまく演じたとしても、やはり「ウソ」の世界なのだ。その合意はもちろん演る側と観る側の間に当然あるけれど、看過しがちなことは、役者は物語世界を生きながら同時に、人間として今という現実に息をして「真実」生きているということだ。(その方面のファンの方には恐縮だが)それがアニメのキャラクターとは違うのだ。その二重性に私はいつも怖さを感じる。

真っ暗な狭い小さなハコの中、まるで監禁されたように観る学生演劇。かつて私はそこで役者の熱を感じ、息づかいを聞き、蒸れた酸い汗の臭いを嗅ぎ、叫び声、哭き声を聞き、唾を浴びて、観客もまたその場に居合わせた「当事者」であることを強烈に意識させれた。

門外漢の私が演劇論を打とういうのではない。SDPがフィクションの中でどう作用するのかを考える前提として、この演劇のフィクショナルの特性については押さえておく必要ある。 

演劇において衣装はあくまで「道具」であって媒体ではない。演劇の強みは、役者の演技ひとつで(あと観客の想像で)、あらゆるものをほぼ無制限に舞台上に展開できるというところだろう。その点は観客との共同作業でもあって小説と似た特性を持つ。 

 

(これより以下は、舞台や原作の「銀河鉄道の夜」のネタバレを含む。しかしながら、私は読んでいただいたとしても、これから(DVDなどで)観劇する人の楽しみを、些かも損なうものではないと思う。寧ろ原作に関しては、ある程度、筋を理解していた方が「鹿版銀鉄」の理解と感動が増すのではないだろうかと考えている)

 

 さて件のSDPは「鹿版銀河鉄道の夜」において、どのように扱われているのか。

男性の役者が演じる役はすべてSDPである。カムパネルラを含む学校の児童、教師、ジョバンニの母、印刷所の爺さん、車掌――。銀河鉄道で出会う人々まで、ほぼ全てSDPである。 そのSDPは物語世界においてメタ的に扱われ「無い」ものとされているわけではなく、風邪をひいたというザネリに対して、「そんな恰好をしてるからだよ!」というセリフにもあるように、そのような「格好」として認知されている。もちろんSPDをネタとして生かした脚本や演出も舞台には盛り込まれている。――彼らは何者なのだろうか。

衣服を着た我々観客からは、SDPを身に着けた(あるいは衣装を脱ぎ捨てた)彼らは異なる者、「異化」された者として舞台の上に存在している。 しかしながら、SPD姿のほぼ全裸の教師は背筋をピンと伸ばし、自らの身体を用いて銀河の成り立ちを生徒に説明する。それは紛れもなく教師なのだ。やはりSDP姿で、ほぼ全裸生徒たちは、そのまま騒々しい悪童たちで、ただひとり衣装を纏ったジョバンニは弾かれ疎外され、どこにも居場所がない。数ある「銀鉄」の舞台の中でも、あれほど孤独なジョバンニはいないんじゃなかろうか。

そしてそのSDPならでも演出も光っていた。乳をとられる農場の牛。白黒の模様のあるSDP装着し、テラテラと肌を輝かせた役者がその乳牛を演じるのだが、それはもう一頭の、完全に生物としての牛だった。乳を出すから牝牛なのだけれど、私は舞台上にまったく生々しく張りつめた筋肉をもった一頭ホンモノの牛を見た。

それから病に伏せるジョバンニの母親。それはSDP姿の男性の役者が舞台袖の女性のアテレコに合わせ、暗黒舞踏のような動きのみで演じるのだけれど、これが圧巻だった。原作において「白い巾を被って寝んで」いると描かれる母は不吉を語り、不穏な空気をもつ存在としても読めるのだが、SDPで「異化」された母のその動きは、ひとつの正統な解釈なのかも知れない。

ジョバンニの「バイト」先の親爺も、工員もやはりSDPで、ほぼ全裸だ。「自分は何のために生きているのだろう」とジョバンニは呟く。どこまでもアウトサイダーとして疎外され、ジョバンニは孤独な暗闇の中で、自ら機関車になって空想の世界に駆ける。

そしてジョバンニはその空想の行きつく先で銀河を走る汽車に乗り、カムパネルラと再会し、「異化」された様々な者たちと邂逅する。化石を発掘する男たち、シスター、白鳥、鳥を獲る男、客船で遭難した青年と姉弟、インディアン――。もちろん彼らもほぼ全てSDPだ。ジョバンニとともに異世界に足を踏み入れた我々はそれを違和感なく受入れる。 気がつけばSDP姿で異化された者たちも物語世界の中で同調をはじめているのだ。

視聴を繰り返している合間に、ふと私はGoogle検索で「ショルダーパッド」と検索したが、なかなか目当ての「劇団鹿殺し」の公演サイトに行きあたらない。そんなことに苛立ち、いや苛立っている自分に気づいて私は当惑した。もちろんそれでは出て来ない。出て来るのはまさに「肩パッド」だ。ショルダーパッドは「肩パッド」なのだから、それは劇団鹿殺しの舞台衣装の固有名詞ではない。いつの間にか私は慣らされているのか――。

では、私の感動はただ〝慣れ〟の所産なのか。観ている内に、あの格好に慣れただけなのだろうか?「だんだん慣れてくる」と確かにSDPの歌にもある。免疫がついて、確かにその側面もあるだろう。しかし私はその点に関しては明確に否定したい。私の感動は「慣れ」によって、あの変態的衣装の〝障り〟を差し引かれたものではない。

その証拠に(これは観劇して私と同様の感想を持った人ならば大いに首肯するところだと思うが)あの舞台を、完全に衣装を着た状態で(もちろんその為に演出も変え)再演するとして、それを望むだろうか。それで満足するだろうか。脚本、演出、役者の演技、それらは、それはそれで良いものに違いないのだが、いや何か物足りない、いや、足りすぎているのだ。

もし全員が完全に物語世界に「適った」衣装を身につけて演じていることを想像した時に、もはや私はそれを「蛇足」と感じてしまわないだろうか。過度に装飾された表現、過剰にトッピングされた料理(まぁそれも嫌いじゃないけれど)SDPを見た後で、私はそれで充たされるだろうか。いや、択ばせていただけるのであれば、やはり私は言うだろう。「SDPで演ってください」と。

 

古代ギリシアでは肉体を賛美し、古代オリンピックの競技は全て全裸で行われたそうな。衣装を身にまとうのはつまりダサかった(らしい)。ザ・ショルダーパッズのオープニングを観てふとそんなことを思い出した。顔を輝かせ、誇らしく舞台に居並ぶSDPの男たちは三千年以上の時を超え、古代ギリシア人の美意識を全身で理解しているのだ。 

 彼らは脱ぎ去ることによって何を得ているのか。いや衣装を纏うことによって何を失うことを懼れたのか。どうやらヒントはこのあたりにあるのかも知れない。 

衣装を纏うことによって隠されてしまうこと。それはあるのだ。日常我々は基本的には衣装を着て生活している。(個人的にはずっと疑問だったが)「衣」は衣食住の一要素として祀り上げられている。 そして現代における衣装の機能には社会性も含まれている。つまり着用することで特定の位置づけを付与される。卑近な例で言うと例えばユニフォーム。我々はそれによって所属や、またある職能であることを示され、社会通念上の「理解」が個人に付与されているのだ。つまり衣装には意味付けという機能もある。このあたりを拡げるとキリがないのと、ボロが出るのでこのあたりにするけれど、私がここで言いたいのは、衣装によって付与される「意味」の中で我々は安穏としていられる。もっと言えば個人の「何者であるか」という問いに等閑にしていられるということだ。

舞台ではどうだろう。舞台芸術はトリミングされた世界で、そのひとつの誇張表現の中で衣装の形式化は免れず、その意味の濃度は増す。舞台において意味は「役」に変換される。その「役」が拡張すれば役者はどう感じるのだろうか。これは小学校低学年以降、劇というものをやったことがない私のあくまで想像でしかないのだけれど、もしかすると役者の「わたくし」はその「衣装」の中でじっと潜んでいられるんじゃないだろうか。与えられた「役」の中で役者は沈む。極端な例で言えば、例えば顔面を含め全身を鎧で固めた衣装の兵士の役などはどうなのだろう。フィクションの中に隠れていられる。着ぐるみ状態なわけだ。

これが役者個人にとってどういうことを意味するのかは私にはわからない。役者の仕事として「ラク」と感じるのか、舞台人として歯痒さを感じるのか……。 そう考えると、世界最小、最低限の面積しか与えられぬSDPは役者にとってはまさに剥き出し、「わたくし」全開の舞台条件じゃないだろうか。と同時に、役の手掛かりになる衣装も最低限に抑えられている。まさに「この身ひとつ」で与えられた役を演じなければならない。もっと言えば反作用するSDPのハードルを超え、観客を物語世界へ引き込み、心を掴まなければならない。(これまた素人の私が言うのは恐縮だが)これは非常に難しいことなんじゃないだろうか。

どれだけ役者がうまく演じたとしてもSDP姿がその邪魔をする。そうなればSDPは失敗なのかもしれない。演出の敗北なのかも知れない。常にそのリスクがある。いやSDP姿の宣伝において既に逆風だ。ひとつ間違えば、ある意味で順当に「スベる」のだ。それでも尚、SDPで演じるというのは、劇団の、あるいは演出家のよほどの覚悟、というか不敵なまでの肚の座り方があるのだと思う。しかしまたそれは同時に役者への、そして我々観る側への無限の信頼でもあるのだと思う。

 

そこまでして何故SDPなのか。ここでやっと冒頭の演劇特有のフィクショナルについての理解が必要になる。繰り返しになって恐縮だが、演劇が媒体とするのは生きた「人間」だ。物語を、役を与えられ観る側に伝えるのは、今、まさに呼吸をしている人間だ。「役」というのは人間に与えられたひとつの「規定」であって「制限」でもある。「役」は与えられた範囲を出ることはない。これは小説においてもそうで、小説ならば書かれる書き手の筆によって制御可能だけれども、演劇においてそれは生身の人間なので、舞台において完全に制御でき得るものではないだろう。人間はナマモノとしてどうしても「逸脱」していくのだ。

しかしまたそれこそが演劇の魅力であって可能性でもあるのだと思うが。小説においても、制御できていたはずの人物が、書き手の思惑を越境していくことで小説の迫力というものが生まれるのだけれど、それはまた別の話。

劇中にそんなことを示唆するおもしろい演出がある。それは銀河鉄道の車掌で、彼は「サトラレ」として登場する。車掌もやはりSDP姿で、ただ目印として制帽のみが与えられている。路線の安全な運行を守る車掌もやはり全裸のSDPなのだ。背筋を伸ばし改札をし、業務はこなす彼の内奥では「わたくし」の声が生きており、その声が劇場内に漏れ出ている。彼は銀河鉄道に勤務しながら「東急線」?(すまん、東京の交通事情に疎くてちょっと忘れた)に憧れている。いくら制服に身を包んでいたとしても「わたくし」は自由で、常に逸脱している。ここはコミカルに描かれているけれど、これは逆説的で、非常に示唆に富んでいる。

 

もしかするとSDPというものは、考え得る限りの、「役」というフィクションと「わたくし」というリアルとの極限、皮膜ギリギリ、その境界で役者が演じる為の極めて合理的な「装置」なんじゃないだろうか。舞台の役者は「役」を演じながらも、やはり個人の役者として「わたくし」でもある。そんな演劇の根源的な二重性を問うような「装置」なのではないだろうか。

そしてこれは実際に役者にインタビューをしてみなければわからないが、私は、役者の人がSDP姿で舞台に立って役を演じる時のテンションは、通常の衣装を身に着けて上る他の舞台と比べ、明らかにテンションが異るのではないだろうか、と思う。舞台の冒頭で、正装した衣装を脱ぎ捨て、SDP姿で胸を張って居並び踊る役者の耀くような表情を見ると、やはり強くそう思う。(YouTubeでも観られるので、ぜひ)

 

「鹿版銀河鉄道の夜」でSDPが最大限に生かされているのは、やはりラストのシーンだろう。カムパネルラは世界の創生を語り、量子論から梵我一如の思想までを語り、自他も、彼我の違いもないのだとジョバンニに語る。そして裸のまま、南十字星に還っていくカムパネルラの「描写」はどこまでも精確じゃないだろうか。ウパニシャット哲学の究極原理である梵我一如の大乗仏教への影響はいろいろと解釈が別れるところであるけれど、大乗仏教の聖典である法華経を篤く信仰し、また同時に在野の自然科学者でもあった賢治。その理解に立ち、脚本が書かれ演出すると、なるほどこうなる。それは正統だと思う。

 そして私が最も感動したシーンも、やはりSDPによって読み解ける。 

 銀河鉄道の「幻想」から覚め、再び現実世界に戻るジョバンニ。唯一の親友であるカムパネルラを亡くし、現実世界でますます追い詰められていくジョバンニ。

「銀河とはなんでしょう?」と教室で再び先生から問われ、ジョバンニはすっと手を挙げ、立ち上がり、自らが体験した「超現実的」な経験を語る。銀河を走る汽車。愛を語るシスター、踊る白鳥たち。発掘する男たち。鳥を獲るおっさん。インディアン。蠍はいい虫で、こどもたちはずぶ濡れで――。

否定と嘲笑を買うはずのこのジョバンニの空想に対し、先生は決然と「その通りです!」と言い放つ。その先生はやはりSDP姿なのだ。異界と現実世界は、異化された者、疎外された者によってのみ媒介される。平生、現実に希望を持つことの困難さと無意味さを、これでもかとばかりに散々叩きこまれている我々は、この奇跡的転換に激しく心揺さぶられるのである。「その通りです!」そのひと言で、私はたちまち世界がひらかれたように思って涙が出た。そしてジョバンニのたったひとつの希望である父親からの便りは、原作とは異なりSDP姿の先生の股間のSDPの中から! 取り出されてジョバンニに手渡される。その手紙はほのかに温かい。コレ凄くないか? いろんな意味で。

 

我々は「一般的」にいつも衣装を着て生活をしている。それを当然だと思っている。つまり「常識」を着て生きている。そこに依存して、仮であったとしてもそれに依拠して生きている。量子がつねに定まらないように、生きている人間というものはいつも不確実な存在で、我々にとっても自分自身というものが最も不可解で捉えがたい。それは人間にとって本質的なものであって、しかしまた本質的であり過ぎる為に我々は望郷性を持ちながらも同時に忌避したくなる。それ故に我々は何かに収まり、何かに縛られたいと現実の世界の中においても「役」を求め、その「役」を演じている。そして大抵はその衣装も用意されている。

「この身ひとつ」で演じられるSDPはそんな我々の「わたくし」を問うきっかけになるものじゃないだろうか。と、そんなことを考えながら、そして書きながら、この論考を書いている間に良い知らせがあった。

劇団鹿殺しの「ザ・ショルダーパッズ」が新宿で上映されるという(10月2日19時~)。よかったなみんな。詳しくは劇団鹿殺しのサイトを見てくれ。関西在住の私はさすがに遠いので観に行けないが、DVDは予約済みだ。DVDが届いたならば、自室にこもって鍵を掛け、家族にバレぬように、まずは半裸になって観てみようかと考えている。