021 ルッキズム的なもの

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流行りコトバというものは取り扱い注意だと思いながらも、指さきで摘み上げるようにして覗いてみる。するとそれらは大抵、既存の看板の付け替えで、実はそれほど新味があるわけじゃない。

「ルッキズム」だってそうだ。それは故事にもあらわれているように、昔からそんなことへの問題意識がずっとあったわけで、逆にそんな視覚偏重の止み難い連綿が人間にはあるのだというゲン然たる事実こそが重要なのだ。

あんまり原理主義的なことを言いはじめると化粧品や装飾品、衣服だけでなく住宅や道具に至るまで、その意匠性を否定され機能一色に塗りつぶされる。そうなると「機能」はその解釈に新たな概念を付与されることになるに違いない。意匠もまた機能であることは明白なのだけど、ムダなものを軽視するのはディストピアの先駆けで、その先はひどくバカバカしい話になるので、なにごとにも加減が大切。

美しい、醜い。いわずもがなそんな言葉も変わり、言葉をとりまく環境も変わり、同じ言葉もその意味づけがコロコロと変遷する。結局変わらないのは人間の本質と其々が手前勝手に捉えているバラバラの概念というやつだ。

そんなことを考えていて、ふと思い出したのは、かつて(2年前くらいか)ネットで話題になった"宗谷の蒼氷"さん(ちょっと読み方がわからない)という美人ライダーだ。いや、正確には若い美人ライダーが、実は50代のおじさんだったいう、あれだ。

画像のアプリ加工で肌ツヤ綺麗に、などというレベルではなく、年齢も性別も変わっている。もともとこのおじさん、ちょうど(敢えてここの註釈は省くが)セバスチャン・バックみたいなストレートのサラサラロングヘアーなのでややこしい。その50代のおじさんはSNSの画像の中で、まんまと美女ライダーに変身していたのだ。

少しタレ目で親しみやすい印象の、とってもかわいい女性(に見える)。中高年男性の愛好者が多いバイク界ではかなり目立つだろう。しかも走るだけでなく、おじさん顔負け、エンジンバラしなどのバイクいじりまで。そのギャップに多くのファンが出来たはずだ。

もしかしたら、そんな「彼女」との遭遇を狙って、SNSに残る写真から予測した走行ルートに向かった男性ライダーも少なくはなかったんじゃなかろうか。

その後、ご本人は「本当の姿」を自らバックミラーに映り込ませて、ネタバレ。それはネットでも話題になって、後にテレビでも紹介された。

もちろんこれは悪意でなく、バイクの魅力を伝えるネタとして始めたということだが、ベッドの中から肩出し、上半身裸を思わせるサービスショットまで載せていたので、完全には無罪とは言えないだろう。

この話で興味深いのは、ネタバレしたあとに怒って攻撃的なメールを寄越す人が多数いたということだ。騙したな! ということなんだろうが、一体彼らは何を失ったのだろう。

彼らの中で、あのかわいい美人ライダーは一瞬にして消失したのだ。しかし亡くなったわけでなく、変わったわけでもなく、存在自体が消失した。いや、はじめから無かったのだ。まるで存在と認識についての本質に触れたようだ。しかし奇妙なことに事実は変わらず、何も失っていない。ただ光学の補正で「彼女」として見えていたが、実体のおじさんライダーは尚も存在し、走り続け、エンジンをバラしている。彼らは何を失ったのだろう。

美人ライダー。美人・ライダー。つまり美人は失われたとしても、ライダーは残っている。バイクのカスタムや、スタイルが渋いなどと言っていたんじゃないか? 必ずしも外見だけに注目していたわけじゃないと言っていたじゃないか? それでもライダーだけではダメで、やっぱり美人がついていなければ‥‥‥、ということだろうか。美人でライダーで、そのギャップが良かった、のだろう。しかし言い訳けをしてみたところで、結局はみんな外見に囚われていた。そもそもそうでなければ、こうして話題にもならなかったのだから。

さてここで、ヘアピンカーブを無理矢理曲がって小説について。

美人だとか不美人だとか、近年では小説の人物の容姿について否定的に(それでいくと肯定的なのもマズかもしれない)描写することに批判的な声もあるわけだ。

「描写」は(もしかしたら筒井康隆先生の作品あたりで一切の描写を廃した実験小説があるのかも知れないが)通常の小説技法としては必須だろう。形質についての正確な記述というのは描写ではない。描写は無味簡素な説明書きではないので、そこには社会的、文化的、時代的構造を背景とした書き手(語り手)の認識、表現のバイアスが入る。そしてそれは読者とも、ある程度の範囲での共有を前提として書かれている。そこにズレる恐れがある場合は(古典作品や外国文学にあるような)註釈が附録されるわけだ。セバスチャン・バックって誰だよ? つまり純粋な「描写」というものはあり得ないのだ。

美的感覚についてもまた同様で、やはり社会的、文化的、時代的構造からは免れない。絶対性というものを放棄した現代においては誰も(正しい)判断できないわけだ。結果的に大多数の意見(強いものの意見)が「正しい」ものになるのだが、それは本質的なものになり得ず、判断は常に誤謬を孕んでいる。という前提があるにも関わらず、やっぱりそれにストップがかかる。

美しさというものは貼り付けられた一枚の画面でなく、私は多面的で動きのあるものだと思っている。醜いものが美しく見えたり、美しいとされるものがある瞬間にはひどく醜かったり、揺れる水面の反射のように、見る方向によって見え方も異り、常にそれは移り変わるものだ。

誰かの美醜の判断という行為もやはり一面的で一時的なものなのだ。そんなことはわかりきっている。そもそも書き手(語り手)などはハナから所謂「信用できない語り手」という前提でよいのじゃないか。もしかしたら世間には書き手に対する過度な期待、というか信仰があるんじゃないだろうか。公共性と言った方が良いか。Publish(出版)は語源であるのPublic(公共)なのだけれど、小説も大説に対する小説でもあるわけで、小説表現にあまり目くじらを立てるのもどうなんだろうか、とか思うけれど面倒なことに巻き込まれると怖いのでこのへんで。いや、あと少しだけ。

しかしその大きな確固たる社会、或いは国家、時代の枠組み(社会的、文化的、時代的構造)に無理やり押し付けられた「醜い」者の哀しみを小説こそが描かなければ、小説(純文学)はなんであろう。いや、だから今もその枠組みによる無自覚な偏見と誤解のもとに傷つけられている被害者がいるんですよ! この三文文士! とやっぱり怒られそうだが、確かにペン先は鋭い。鋭くて、時に人の心を容赦なく抉って傷つける。しかしそれはペニシリンじゃないけれど、毒でもあるが薬にもなるものを無くしてしまおうということにはならないはずだ。

厳然とあるその問題を、無いもののように無視して振る舞い、影も消失するほど過剰にライトを照らし、ホワイトアウトした世界というものを果たして我々は望んでいるのだろうか。

それにしてもあの美人ライダーは本当にかわいい。

020 世界ゾンビ権宣言 後編

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☞前回のつづき。

南米大陸におけるコンキスタドールのインディオに対する残虐行為の数々を告発したラス・カサス。しかし彼がインディオの労働力の代替として勧告したのが黒人奴隷貿易だ。--根深い。

奴隷貿易。欧州列強はアフリカ大陸に住む人々を獣のように捕まえ、あるいは取引し、寝返りすら出来ない棚に押し込み、奴隷船で植民地に送り続けた。排泄物垂れ流しで、病気になろうが死のうがお構いなし。つまり完全にモノだ。そうやって彼らは300年間! 実に1000万人以上の人々を送り続けた。自由、平等、博愛を謳いながら。

では、そんなコンキスタドールや奴隷商人たちは皆、異常者で、サディスト、とんでもない極悪人だったのだろうか。(残念ながら)たぶん違うのだ。恐らく彼らは現代人より遥かに篤い信仰を持ち、普通に家族や恋人を愛していたはずだ。人間を狩り、奴隷としてを売り買いしながら。そんな彼ら彼女らの良心を免罪にしたのは、他ならぬひとつの認識だ。「原住民? 黒人? ヤツらは、いや、アレは人間じゃない」という。

だからおそらくその当時、私が誰かが血を流すほど殴られているのを目撃し、慌てて駆け寄ったとしても、殴られているのが奴隷であれば、「あぁなんだ奴隷かぁ、ビックリしたぁ」と安堵したのかも知れない。そこに何の疑問も、顧慮もなく。

認識こそが最強の武器だ。認識で我々人類はなんだって出来る。躊躇いなくできる。乗り越えていける。どんな惨虐な行為も厭わない。あらゆる抑制を解き、暴走させてくれる。そんな認識の怖ろしさに比べれば、どんな武器も、大量破壊兵器だって、ただのモノでしかない。

すべての宣言や憲章には必ず、但し書きがついている。つまり※だ。小さい文字で。あるいはそれはもっと小さい字で我々の意識の中に書き込まれている。※但し◯◯は除く。◯◯においてはその限りではない。と、でも実はここが核心で本音の部分なのだ。

そうやって、これまでも我々は外見や言語、文化、信教、振る舞い、そんな様々の違い(あるいはわからなさ)から、未開人、土人、異邦人、異教徒、魔女、非人‥‥‥そんなカテゴリーで除外して、認識し、安心して殺戮してきた。OK、ヤツらは違うんだ。

話をゾンビに戻そう。そう、ヤツらは人間じゃない。OK、全力でいく。それにヤツらは加害性もある(らしい)私はゾンビ映画を観ないけれど、基本的なことは知っているつもりだ。ヤツらは襲い掛かってくる。脅威だ。もう彼らには意思や思考、正常な判断、理性も知性もなく、ただもう襲い掛かってくる。映画でゾンビたちが人間に駆逐されていくのを見て我々は安心する。ゾンビだから。

そしてまたヤツらの外見は「いい感じ」に醜悪だ。グロテスクで、腐りかかっていて、たぶん我慢ならない腐臭もするだろう。そう、ゾンビは、映画の中で心優しいヒロインが放つ弾丸で頭を吹き飛ばされても仕方ないと思わせるほどの醜さをちゃんと備えている。自衛の為の対処。殺戮のエクスキューズはいくらでも成立するのだ。

前編で紹介した映画『ゾンビランド・ダブルタップ』はホラーコメディだそうだ。だから我々はゾンビを痛快に殺戮する映画を娯楽として楽しめるのだ。コメディとして。1828年、オーストラリア大陸で政府公認のもと、(原地人の)アボリジナルがスポーツハントで、まさに娯楽として狩り殺されたように。

定めても、宣言しても終わりではないのだけれど、(そうしないとどうやら我々は不安になるらしい)仕方ない。やはりこれは、世界ゾンビ権宣言の起草が必要じゃないか。でもそこから除外されるゾンビもいる。やっぱり※をつけられ、解釈をつけて殺され続けるのだろうか。

よしわかった。それがダメなら、グロいのが苦手な私が新しいゾンビ映画を企画しよう。

新しいタイプのゾンビだ。背筋もピンと伸びて二足歩行。言葉も解し、論理的思考も可能だ。そして見た目も「きれい」だ。腐ってない。でも間違いなくゾンビなのだ。事情は不明だが、彼らは襲い掛かって来る(らしい)という設定。

しかしこの企画はダメだろう。自衛の為に当然人間は彼らきれいなゾンビを「駆除」する。上映開始後すぐに残酷だ! とクレームの嵐。大炎上。「※相手はゾンビです。人間ではありません」と常にテロップをつけても間に合わないだろう。

ちょっと私は分からなくらなってきた。果たして私は、彼らの頭に釘バッドをフルスイングできるだろうか。とにかく私は釘をバットから1本1本抜きながら、もう少し考えてみようと思う。

松永・K・三蔵

019 世界ゾンビ権宣言 前編

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休みの前の晩はたまに、家族が寝たあとで私はオットマンに脚を乗っけてグラスを傾け、A・タルコフスキーなんかを観る。

なんてことはなくて、もっぱらアマプラでハリウッド映画だ。ハリウッド映画は最高だ。そんなハリウッド映画のオープニングで流れる制作会社のロゴムービー。あれがまた良い。

ビルの屋上で照らされた20thFOXとか、星が流れるパラマウントの山峰とか、MGMのライオンの咆哮だとか、あと自由の女神みたいなコロビアム。それらはあたかも、おもしろさのコミットメントのようで、観ていて俄然胸が高鳴る。

逆に、マイナー映画のチープなつくりなオープニングムービーだと、観る前からちょっとゲンナリして不安になる。毎年何か義務かのように過剰に制作されるサメ映画とか、ゾンビ映画とかね。

そんなロゴムービーは基本的にはお決まりパターンだが、作品によっては、その作品の雰囲気や作中の小ネタを取り入れたアレンジがされている。もちろんそれは大手の制作会社に限る。つまりオリジナルが確実に認知されているが故にカスタマイズが効くわけだ。

そんなカスタムされたオープニングのロゴムービーばかりを集めたYouTubeの動画なんてのもある。作品本編を知らずとも、それだけを観ても面白い。

ある時、私はそんなロゴムービー集をなんとなく流していて、ふと観たコロムビアピクチャーのロゴムービーを観て驚いた。いや、慌てた。

例の自由の女神のように松明を掲げて立つ女性(コロムビアレディと言うらしい)が、その松明を武器に襲い掛かる男を容赦なくブチのめしている。

恐らく奴らは、かの美しいコロムビアレディに襲い掛かる不逞の輩、ならず者。それをレディが自衛の為に、手にしていた松明でブン殴っても仕方ないだろうが、1人、2人。2人目はかなり強くヒットしたようで、血糊、いやもっと固形的な何か、肉片? それが顔面から弾け飛び、その一片がコロムビアのCの下弦にベタリと付着したのだから、私は驚いた。

レディは正当防衛だろう。が、明らかにやり過ぎだ。暴漢は死亡、あるいは回復の困難な重傷だ。が、コロムビアレディは得意げに松明を一回転させ、またお決まりのポーズに戻る。胸が騒ついた。オープニングムービー。のっけから穏やかじゃない。

ところがタイトルを見て納得。「ゾンビランド・ダブルタップ」(2019)あぁ、なんだゾンビかぁ。ビックリした。と私は胸を撫で下ろした。だが、ここでふと疑問に思った。あれ? ゾンビだとわかって、なぜ私は安心したのだろう。

ロゴムービーを見返してみる。1人目は呻き声をあげ腕をひろげて襲いかかる。それはいかにもゾンビ然としていたが、2人目はただスタスタと接近するだけだ。私が見たのは2人目あたりからで、だから余計に驚いた。2人目は、それだけ見ればただの人間にも見えなくはない。それが、いきなり頭部を松明でフルスイングされ、大量に血を飛ばして倒れ込んだのだ。私の驚くのも当然だ。それにしても、ゾンビだと了解して、なぜ私は安堵したのか。

ゾンビとは何か? 因みに私はグロテスクなのが苦手で、一連のゾンビ映画はほとんど観ていない。バイオバザードとかドラマのWDシリーズとか、ゾンビモノに詳しい人からすれば、ゾンビの定義はちゃんとあるのかも知れないが、恐らくそれは様々だろう。

例えばウォーキングデッド。文字通りあれは死者、つまり死体。動く死体だ。モノだ。加害性のある物体だと。かつて人間であったが、もはや霊魂はなく(あれ?魂の証明はまだじゃないのか)とにかくただの物だから、破壊行為、排除行為OKなのだ。

あるいは、ゾンビはゾンビウイルスに感染して認識も、知能もなく(これ!)ただ本能で人を襲い掛かる。これも殺処分も止む無し。

そんなゾンビに襲われるとしたら、私もとりあえず釘バットを自作して闘わなければならないだろう。しかしゾンビなるものは映画やドラマで容赦なく、ありとあらゆる手段で殺戮されまくっている。派手に豪快に、爆破され、すり潰され、射られ、斬られ、ショットガンで吹っ飛ばされ‥‥‥。なんだかちょっと気の毒。

ゾンビとは何か? wikiを見ると、ゾンビはアフリカ地方のブードゥ教の呪術に由来するらしい。動く「死体」というのがオリジナルということになるが、多くのゾンビ作品が作られる中でゾンビには様々な解釈が出来たようだ。この様々な解釈というのが非常に厄介で、つまり我々はその解釈、あるいは認識に拠って対応していることになる。

おい、ゾンビは架空だ。架空の存在だ。何をそんなにムキになって、と声が聞こえてきそうだが、もうちょっと待ってくれ。

翻って人間だ。人間とは何か? これはゾンビ以上に難問じゃないだろうか。直立二足歩行、精神、言語、道具を使う、理性、知性? 人間にもいろんな人がいる。カラスも道具を使うし、知性と言っても幅広い。理性に関しては甚だ怪しいんじゃないだろうか。意識? これもその発源が謎のまま。魂? 24gだっけ? でもその所在については未だ人類は未証明だ。うーん、人間もそろそろ怪しくやってきた。

人間ってものはよくわからないが、でもとにかく人権だけは宣言された。すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する(第三条)なんて世界人権宣言が採択されたのは意外と遅くて、1948年! めちゃくちゃ最近。人権に関する明文化については、それ以前に18世紀の欧州に興った啓蒙思想の流れからバージニア権利章典(1776年)というものがあったり、フランス人権宣言(1798年)などもあったというが、人類の歴史を考えるとそれも随分と新しい。もちろん1948年以降も、今も、人権蹂躙はバンバン行われていて、明文化したとてそれで解決するわけでは、もちろんない。

人権などというコトバが生まれる前にも、人類には道徳観念があって、その礎となる宗教もあって(逆に作用する場合も往々にしてあるけど)そして理性の象徴たる法律だって紀元前数千年前からあったのだ。ところが人類の歴史をそれほど紐解かなくとも、そんなもことが疑わしくなるような凄まじい残虐行為はすぐに見つけることができる。

例えば大航海時代のコンキスタドールによる南米大陸の「原住民」(という言葉!)への残虐の数々。ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』にはそのあまりに非道なその行為の数々が記されている。瞞し、掠奪し、殺戮し、降伏した数万人のインディオたちに食糧与えず、他のインディオと闘わせ、捕えた相手を食べさせたという。他にもインディオの子どもを切り刻んで猟犬の餌にするなど、想像を絶する残虐行為が報告されている。人間の惨虐さは底無しだ。

あまりの凄惨さにラス・カサスがその「報告書」をもって本国に告発したわけだが、そのラス・カサス、インディオの労働力の代替案として、とんでもないことを勧告した--。ということで長くなったので、

後編につづく☞

010 DELL Inspiron 11(3185)ノートパソコン

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万年筆と同じく、毎日お世話になってるこの道具。ノートパソコン、まさに愛機。こいつのことを書こう書こうと思っていて書けずにいたが、ついに引退することが決まったので書く。

それまで外で書くのに、ポメラとか、あれこれ試していたけれど、書いてまた移してというのがやはり面倒。ということで2018年に買ったモバイルPC。

PCはあんまり詳しくないから、スペックはわからない。とにかく書くだけだから低スペックだ。2in1とか言って折り返してタブレットになるやつだったが、結局使わなかった。

側面の並んで、電源スイッチとボリュームスイッチがあって、よく間違えて電源切っちゃったり、ちょっと重かったりと、いろいろあったけど使い勝手は良かった。とにかくよく頑張ってくれた。

途中三年目あたりでバッテリー切れが早くなって、バッテリー交換を考えたけれど、何故か不思議と復活して、三時間くらいは耐え忍んでくれた。

しかし、いよいよ私の打鍵にキーボードもグラついてきて、外れ、もう最後は「A」も「I」も「バックスペース」も吹き飛んで、マスキングテープで留めて、なんとか凌いでいたけれど、アイも無くし、もはや戻ることも許されず(打てるけどね)バッテリーは一時間ほどしかもたなくなった。這う這うの体で頑張ってくれたが、いよいよこの度、引退することになった。お疲れ様でした。

DELL Inspiron ‥‥‥インスパイロンかな? 名前もよくわからん奴だったが、約四年間、お世話になりました。ありがとうございました。

ということで、後継機はまた今度 ☞

松永・K・三蔵

018 Unplugged/Connected 後編

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017の続き☞

スマホというものはオンラインであるからスマートなわけで、それはコネクト、繋がっている状態だ。作業ツールとしてスマホを使うということもあるけれど、調べたり、連絡したり、何かを視聴したりするのはやはり繋がっている状態だ。まさにSNSで繋がりを求める人はもちろん、そうでない人も配信や更新など、オンラインサービスを求めている。我々はもはやオンラインじゃないと生きていけなくなっている。だから、そうじゃない奴、「オフライン」の奴を見ると奇異に思い、不安になるのだ。

90年代前半、世界のミュージックシーンでUnplugged(アンプラグド)ブームなんてものがあった。謂わばアコースティックブームだ。誰が先駆けだったのか。しかしハイライトは間違いなくクラプトンだろう。『Tears in Heaven』ほもとりより『Lyla』のアコースティックの解釈はやっぱり素晴らしかった。ジミーペイジとロバートプラントのコンビ。あ、イーグルスも良かった。Unplugged。そんな言い回しも日本語の感覚からすれば気が利いている。直訳すれば「プラグを抜いた」。つまりアンプに繋いだりエフェクターをかけたりする電子機器じゃなく、繋がない楽器で演る、というもの。(エレアコは使ってんだけどね)

そんなことをKISSなどの所謂ロック勢がやったというのが痛快だった。極め付けは当時のシーンのアイコン的存在のニルヴァーナだ。大御所を含め、そんな彼らは揃って「プラグを抜いた」のだ。それは、54年のフェンダー社のストラトキャスター登場以降、60年代、70年代、80、90。これまで倍加させるように拡張し、加速し疾駆してきたシーンへの抵抗のように。ヘッドを右に、アコギを構えたカート・コバーンの顔はやはり静かだった。

我々は常にスマホというプラグに繋がっている状態だ。コンセントに繋がって闘わなければならないエヴァンゲリオンを気の毒に思いながらも我々はやっぱり繋がっていないと不安になる。アンプラグド。(何もせず)繋がらない状態というのはどういうことなのだろう。

私はひとつの異端的な考えを、しかしそれをほとんど確信的に持っている。

我々は、繋がっていない時にこそ繋がっている。(そう、大抵世界はパラドキシカルに成り立っているし、時代とともに社会の構図も生活の様式も変化していくけれど、本質的にはやはりそのように構成され続けていくのだ)

何もせず、フォーカスを解いている時の我々の意識は外に向かって自由に開いている。それは無意識に世界と繋がっているのだ。と私は考え、またそう感じている。

は? とそんな私の主張を奇妙に思う人も、逆にスマホを触る時、それらは閉じられ遮断されている。そういう言い方であれば、納得する人もいるんじゃないだろうか。我々は何をしていなくとも、いやしていない時にこそ、世界に接続され、触れ、感じ、更新され、享けているのだと私は思っている。

宮本武蔵は髪の毛にぶら下げた米粒を太刀先で斬ることが出来たそうな。そんなバカな。それは逸話だ。マジメに取り合うな、と。しかし私は、劇画の中に出てくるようなそんな古の剣術の達人の超人的な能力を必ずしも誇張ではないと考えている。暗闇に敵の気配を感じ、「ん? なに奴!」というアレだ。そんなことなど朝飯前なのだ。随分夢見がちな奴だと思われるかも知れないが、例えば18世紀あたりまでは今よりもっと人間は、アレコレに阻害されず繋がっていて、特に研ぎ澄まされたごく一部の人に至っては、そういう超人的な感覚や能力を持ち合わせていても別に不思議はないんじゃないか。

いや、でもホントは今もちゃんと繋がっている。ただ我々はアレコレに(スマホとか)に邪魔されて、それを意識できないでいるのだ。現代にあっても分野を問わず、天才とされる人たちは超人的な感覚を持ち合わせている。スポーツ選手が、相手のモーションが超スローに見えたり、自身を俯瞰して見えたり、勝利の瞬間をシミュレート出来たり。将棋の羽生さんは集中の極度に達すると棋盤が光るのだと言う。芸術の分野はどうだろう。ミュージシャンならば夢の中で音楽を聴き(カート・コバーンも間違いなくそうだろう)、小説家なら原稿の上で物語が自ずと動きだし、未踏の世界に導かれる。

こういった働きは、繋がっている時にこそ起こる。だから私は、「何もしないこと」それを意識的に選択するということは非常に意味深いことだと思う。(只管打坐。それに生涯をかける人々もいますよね)Unplugged/Connectedだ。

何も誰しもが超人的な働きを求めている訳じゃないだろうけれど、少なくとも小説を書いたり、創作する人にはこれは必須だと思う。以前の記事「006 万感描写」でも書いたように、我々は万の感覚の中で生きている。何かを創作するということは、この世界を感じ、わたくしを綯い交ぜ、溶かし、濾過して、掬い上げて絞り、絞り絞ってやっと一滴。毎日それを集めて創っていく。そういうものじゃなかろうか。

これをあまり詳しく書くとヤベぇ奴だとバレるので、このあたりにしておこう。ということでUnplugged/Connected。今、私はこの記事をスマホで書いている。しばしスマホを置いて、創作ノートを開こうか。と、久しぶりにニルヴァーナの『About A Girl』のアンプラグドver.をYouTubeで聴きながら。

松永・K・三蔵

017 Unplugged/Connected 前編

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アンプラグド/コネクテッド

例えば10年前と比べた時、明確な風景の変化のひとつに通勤電車の車内があるだろう。
当時、乗客は本や紙の新聞を読み、寝ていたり、あるはい何もせず、窓の外を眺めていたりしたのだ。
若い人は驚くかもしれないが、昔はそうだったのだ。何もせず外を眺めている人も結構いたのだ。しかし今はどうだ。すっかりそんな通勤電車内の風景は変わってしまった。

因みに私は小さい頃、ひとりで電車に乗って幼稚園に通園していたのだが、乗っている間ずっと窓の外の景色の中にロボットを出現させ、そのロボットが街を破壊しながら電車と並走する様を空想していた。それが何より愉しかった。そんな危ないガキだった。

さて、通勤電車の乗客はいくつかの派閥に分けることができる。近年の通勤電車の各派閥の勢力状況を見てみよう。

まずは一大勢力、スマホやタブレットなど電子端末機器に顔を沈めるスマホ派、それが8割。1割は(実のところはわからないが)とにかく眠る、睡眠派。そして残り1割が本や新聞を読んでいる読書派。というのが定職の仕事場まで毎朝通勤する私の観察だ。これはあくまで関西。東京は超満員の電車にただ耐えるストア派だろうか。

それにしても通勤電車の定番だった読書。とにかくこれが激減した。そんな読書派は今となってはほとんど希少種と言っていいほどで、車内にいれば、あ、本を読んでる! というくらいに目立つ。因みに読書派の新聞グループに関しては車内ではほぼ絶滅したんじゃなないだろうか(本は絶対紙派の私も、紙の新聞はデカいし保存できないのでwebがいい)。流石に私もその1割の読書派だ。ま、たまにYouTubeも見るけどね。

とは言え今回の記事はその激減した車内の読書派の情勢を嘆くというものじゃない(それはまた今度)。

ほとんどの乗客がスマホを覗いている車内で一際目を引くのは、その読書派ではなく、実は、「何もしていない」という閑暇派だ。近年この存在は、ほとんど伝説の域に達していて、お目にかかることはめったとない。しかし確実にいるのだ。閑暇派。日常の煩瑣なアレコレにアクセクし、スマホに操られている我々は、稀に彼らの姿を目にすると、え? と驚き、戸惑いすら覚える。

何もしない。そんな態度が与える影響の大きさをひとつ紹介しよう。

ある日、私は昼メシにお好み焼き屋に入った。(Twitterをフォローしてくれている人は知っているのかも知れないが、私は大のお好み焼き好きで、一日中図書館で原稿をやる時は、たいてい昼にお好みを食う)その日もやはりお好みを食べに図書館の近くの店に入ったのだが、その時私はスマホのバッテリーが切れていて、また文庫本も持っていなかった。

ちょうど昼時で店はひどく混んでおり、私はカウンターで私の豚玉が出てくるのを待った。その間ずっと私は何もすることがなく、ただ黙然と座っていたのだ。店内を見る。店員を見る。メニューを見返す。水を口に含む。おしぼりで手を拭う。そしてやはり何もせず私はただ豚玉を待った。同じカウンターにひとり座っていた女の人はもちろんスマホを見ている。

そのうちに店長らしき人がソワソワしはじめ、チラチラと私の顔を見ているのが分かった。な、なんで何もせえへんのや? そう店長の目が問うている。いや、私だってスマホを見たいんだ。YouTubeとかWikiとかインスタとか見たいんだ。が、バッテリーが切れている。ただの黒い板を見ても楽しくない。私はまた店を見廻す。書いている小説を頭の中で展開してみる。店長がまたチラと見る。店員に指示を出す。豚玉どないや? とでも聞いているのか。しかし店は混んでいる。二〇分ほど経ってもなかなか出て来ない。そんな状況で、カウンターに座った何もしない男。それは店に相当なプレッシャーを与えたに違いない。しかし私だって嫌がらせで何もしないわけじゃない。店長はやはり私をチラチラと見る。北大路魯山人、服部、、、いや海原雄山、村田源二郎。もしかしたら店長の脳裏にそんな名が浮かんだやも知れない。カシャーン! と店長がコテを取り落としたのは決して無関係とは言えまい。いや、大丈夫だ。店長さん、安心してくれ。俺は食レポライターとかそういう手合いじゃない。お好み焼きは時間かかるよな、混んでるし。落ち着いて仕事をしてくれ。

た、た、大ッ変お待たせしました〜! と豚玉を出した店長はすっかり狼狽していた。肝心の味がイマイチだったのはそんな焦りの所為だというのとにしておこう。

何かをしていること(つまりそれはスマホでニュース記事を読む、買い物、動画鑑賞、あるいは読書、調べもの、SMS、連絡、仕事etc)が当たり前になった我々にとって「何もしていない」人物というのは甚だ不可解な存在なのだ。

何もしない。そんなことに我々は縁遠くなり、すっかり耐性を無くしている。何もしない。我々の生活にかつてあった「間」というものは全てスマホに噛まれている。若者に「間」という概念が理解されない時代が来るのではなかろうか。(と、このテーマもまた今度)

さて、そんな通勤する車内の閑暇派。彼らは希少だ。そしてたぶん現代においては、おおよそ「普通」ではないのだろう。座席に背を凭せて視線は中空に緩く遊び、あるいは窓の外に向けている。余分な力は抜けており、その顔は静かだ。我々はそんな彼らの立ち居振る舞いにどこか優美さ、閑寂、静謐、そんなものを感じるはすだ。我々に等しく与えられているはずの時間ですらその歩みを緩めるかのような彼らの存在はアインシュタインの物理理論を思い出させる。……かな。

閑暇は哲学の母と言ったのはホッブスで、多忙はひとつの怠惰であると言ったのはベーコンだ。古来より閑暇は哲学の沃野であった。過酷な人生への悲嘆と絶望がその種を植えたとしても、やはりそこに思考の鍬を入れ、耕すための閑暇が必要なのだ。ギリシャの哲人は日常の面倒臭いアレコレをすべて奴隷に任せ、美少年を愛し、思索したのだ。アリストテレスは閑暇の重要性を説き、あのニーチェだってそうだ。よく知らないが、F・シュレーゲルとかいう18世紀のロマン派の詩人、思想家は閑暇を讃美する詩までつくったそうな。以下引用。

"なんじは無邪気と感激とのいのちの空気であ  る。幸福なる者、なんじを呼吸し、なんじを胸に抱けるものは幸福である。なんじ聖なる宝玉、楽園の形見として残れる、神に相似せることの唯一の断片よ。"

さすがロマン派。なんかスゴい……。何もしない。とはどういうことなのか--。 ということで長くなったので、つづく☞

松永・K・三蔵

016 はじめた瞬間、終わっちゃうんよなぁ感覚。

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貴船山にて

待ちにまった旅行の前夜、あるいはその道中、不意に「でも終わっちゃうんよなぁ」感覚に襲われる。愉しみの只中に、あるいはそこに足を踏み入れる瞬間に、何かふと冷たい布で顔面を撫でられ、愉しい気分に水をさされるような、あの感覚。

あの感覚はなんだろうか。元来私はひどく楽天家で、あまりの能天気さに呆れられ、たしなめられることが多いくらいなので、沈鬱な面持ちで、未来を暗がりに沈めて見るようなペシミスティックなことはしないのだが‥‥‥。それでもどうかして、愉しいことをはじめようとすると、そんな不意の寂寞がやってくる。余所行きの外套の裏地のようにペタリと貼りついてくるそれはなんであろうか。

無常感、なんて大袈裟なものでなく、禍福は糾える縄の‥‥‥、いや、そういうこととも少し違う。愉しみに懦い心が構えるのか。過ぎ去った愉しみを思い返すだけの"日常"への備え? いや、そうでもない。

愉しみ向かう自分を、ふわりと浮き上がって遠く俯瞰しているような、そんな醒めた目に近い。

そんな感覚を引き摺りながら私は夏休みを過ごした。京都に向かい、叡山電鐵で京都の町の北部、貴船山にひとり登った。

街に戻ってからはホテルの近くのコーヒーショップで朝晩原稿をして、三高時代の織田作ゆかりのSTARに行ってやっぱり原稿をして、焼肉を食べ、ラーメンを食べ、そしてやはりそれは過ぎ行くのだけれど、終わってゆく愉しみ最中、それを自ら切断し、切り取り、コマ送りのように瞬間、瞬間の「終り」を感じ、痛み、滲み、歯軋りするのだった。

まったく子どものように熱狂し、白熱し、時を忘れられればよいのだけれど、愉しみのウラにあの”日常”を忘れない。これが大人の”疲労”というものだろうか。そうかも知れない。

昨晩、今朝の原稿の微妙な出来に落胆し、ホテルに戻り、荷物をまとめチェックアウトする。そうして私はまた”日常”に帰って行くのだが、すると今度はまた意外にも肚の底でふつふつ噪ぐものがある。それは期待感のような、心が躍る感じに近い。

そこで私は気づく。私の感じていた感覚は、大人の”疲労”なんて、そんな臈長けたものでなく、私の中の、寧ろ若い心が、ともすれば浅ましいほどの貪婪さが、あらゆる感覚を貪ろり食ってやろうと騒いでいたのじゃなかろうか。

私はいい歳して、ひとり焼肉を食べた翌日にラーメンを食べるような強慾な性質だから、愉しみはもちろん「終わっちゃうんよなぁ」の哀切も味わい尽くしてやろうと、手を擦り合わせながら興奮していたのだろうか。落ち着けよ。

少しはそんな反省をしながら、私は阪急電車京都線特別仕様の「京とれいん」で帰ろうとしたが、目当ての電車は過ぎ去った後であった。

松永・K・三蔵

015 ルシア・ベルリンを読んだ。

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ちょっと、タイトルイラストは少女漫画みたいになったが、勘弁してくれ。

私は「描く」方じゃないから。それに、女の人は難しいんだ。

それでも、本の表紙の写真を参考にしながら描いたイラストのルーが、写真よりもワルそうで悪戯っぽく嗤っているのは、それはそのまま「私の」ルーだからだ。

先々月、『掃除婦の–−』の文庫本も出て、そして今回新しい本『すべての月、すべての年』が出た。乗るしかない、このビッグウェーブに。というわけじゃないが、私もルシア・ベルリンに衝撃を受けたので、改めてご紹介。

「群像 2021年6月号」で私も名前だけルシアと”共演〟(フェスならば楽屋ですれ違ったようなものだろうか)して、その‶アクト〟を聴いて、うーっと唸ならされて単行本も買った。それから読んでまたうぅーっと唸り、文庫本も買った。文庫本は付箋と傍線だらけ。装丁の美しい単行本は大切に置いておこう。内表紙のブルーグレーが美しい。

私は今、また改めて読みながら単行本に貼った大量の付箋を移植して、文庫本に傍線を引きまくっている。これはひとつの古典になると私は思う。少なくとも私の中ではすでに重要な意味を持つ古典なのだ。

ルシア・B・ベルリン。読者としてもこの作家の作品群に魅了されたが、書く側目線で見ても、とにかくこの人は、めちゃくちゃ巧い。日常に材を採りながら私小説風に書いているから、一見そこまで技巧的には感じないけれど、文章のリズムとテンポ、要所要所で指し込まれデティールの濃度、の後に展開される筆運びの軽妙さ、ユーモアとウィット。その濃淡の絶妙なバランスと間合いが読んでいて心地良く、からだの中に響いてくる。と、もちろんこれは訳者の岸本佐知子さんのお仕事に拠るところ大なのだろうけれど。

『いいと悪い』『さあ土曜日だ』『ソー・ロング』、、、。タイトル作以外も最高だ。また、作中人物もたまらない魅力がある。ドーソン先生、ママ、ベラ・リン、マックス、ジョン叔父、そしてCD。思い出しても私は泣く。

どれを読んでもこの作家だとわかるってのは、――これはとても重要なことだけれど、ルシア・ベルリンほどその匂いが強い人もなかなか稀じゃないだろうか。

掴まえようとしても、するりと抜けて、ルーは既に二歩、三歩、道の先からこっちを見て嗤っている。どこか乾いた余韻を残したまま。

メキシコ。Hola、ナチョスにライム、エル・フィニート、リカルド・ロペスそんなことを勝手に連想し、うっかりしていると、鋭い一撃。パンッと抜けるようなラスト一文、キレのいい‶左ストレート〟をアゴに貰って腰を落とされる心地良さ。これはもうバランス感覚というか、センス、呼吸なのだろうけれど、ちょっと私にはそれが――全く生意気だけれど、悔しいと思うほど、良かった。困るほど良かった。

特に、タイトル作『掃除婦のための手引書』、鳥肌がたつほどのラストの一文。やっぱりこれの原文が知りたい。英語ではなんて書いてあるのだろう。そんなことも気になって、ドイツ語再履修だった私も英語ならばギリギリなんとか…‥。そう思って、今、私の机には原書もある。

困るくらい良いというのは、どういうことかと言うと、それは稀に起るのだが、ヘコむくらいに良いものだ。

偉大な文学作品、それは遠く、遥か見上げるような高峰のようなもので、その威容は風景の如く、心安らかに素直な感嘆を持って眺めていられる。谷崎大壁、三島峰、中上峠に、ドスト渓谷、ジイド高原、魔の山"マン〟――。けれど、たまーに、テーマにしても手法にしても、嗚呼、俺もこういう小説が書きたいなー、なんて溜息がでるほど強く思わされるものがある。自分が進もうとしている文学の野辺に、不意に先人の跡を発見した時は、悦びよりも寧ろ激しい動揺を感じる。お前ごときが何をと哂われるかもしれないが、当のルシアだって、埋もれていたというじゃないか。あるよねそういうの。うん、あるある。

ルシアの小説を読んでいると、少し私はワルくなる。私は真面目で、慎ましく、(たまにそれを全否定する友人もいるが)少なくとも多くの知人にはそう認識されているはずだ。が、そんな私も、いや俺も、実はやっぱり悪党で、ロクデナシのクソ野郎なのだが、でも俺はそれでもいいんじゃないかなって、ルシアの小説を読むと何故かそう思える。

作品の語り手(主人公)は、おそらくそのほとんどがルシア自身なのだろうけど、彼女は悪態をつき、アル中で、(これは別にOKだけど)何度も結婚離婚を繰り返し、ひとの家のモノをくすね……そんなルシアはなかなか"ビッチ"だけれども、どこまでも最高にチャーミングで魅力的だからだ。

ルシアの作品はどれだってルシアだ。指先に煙草を揺らしてルーは笑っている――。煙草はやめた。酒も飲まない俺は、せめてエスプレッソ並みに濃くしたコーヒーをガブ飲みし、少し酔って俺の小説を書いてやろうと思う。

松永・K・三蔵

014 単純でいいこと

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ロシアがウクライナに軍事侵攻している。虚実入り乱れ、あらゆる情報が飛び交っている。「自衛のため」というのがロシアの主張だけれど、核兵器で威嚇し、国内の反対派を拘束したり、言論弾圧をしたりしている時点で説得力は乏しい。しかしいつも西側の文脈の中で、物事を二元論的に解―—。

小説家、文学者が知的エリートであり得たのは、たぶん昭和初期の頃までじゃなかろうか。(もちろん今も立派な方はいますけれど)

いち物書きの私は、物書き以上のことを言うつもりはないし、言えもしない。常にニュースにアンテナを張り、新聞全紙に目を通し、NYT国際版までも読んでいる、わけでもなく、国際政治学を学んだこともなければ、外国で暮らす何人かの知己はあるけれど、どこかに独自の情報源を持っているわけでもない。

私がやっていることと言えば、毎日小説を書き(定職に就いてマジメに働いてはいるが)睡眠時間も含めて、ずっと小説のことばかり考えている。私は物書きだから。

物事というのは複雑だ。誰もが目に出来る表皮があり、裏があり、中身があって、核心もある。また実はそれが裏返っていることもある。世界情勢もまた複雑で、政治もまた複雑だ。一般人が触れることのできない高度な国際インテリジェンスがあって、記録されない真相があり、報道されない(出来ない)とんでもない真実があるのは、歴史の中で見ることができる。それ故、何でも安易に批判をすることには注意が必要だと思う。案外「バカな政治家」が、人知れず巨悪と闘ってくれちゃっているかも知れないし、――そうじゃないかも知れない。

政治はやっぱり複雑だ。こと国際問題になるとグレーで曖昧で、非常に微妙だ。単純化できない難しさもある。その単純さが暴走すると、狂信的なナショナリズムに火がついたり、今回であれば「ロシア」と名の付くものを排斥するような思考停止のような行為にまで及ぶからだ。

でも、単純でいいこともある。戦争については単純でいい。

これは単純でいい。寧ろ単純であるべきなのだ。赤ちゃんからお年寄りまで全世代、なんだったら犬猫、ペット、すべての生き物が、誰だって単純に考え、単純に感じ、単純に意見すべきなのだ。戦争については単純でいい。これを複雑にしようとするのは政治のレトリックなのだ。

小説に何ができるか。書くことで何ができるか――。

小説家を志した一〇代の頃、私はそんなことずっと考えていた。それは、「なぜ書くのか」という書くことの本質に繋がるからだ。どんな偉大な文学作品も、飢えた子どもひとり救えず、現実生活においてパン一枚にも劣る。分厚いトルストイの『戦争と平和』の上中下巻を重ねたって、やっぱり銃弾は防げないのだ。「死んでいく子どもを前にして『嘔吐』は無力だ」と語ったJ.P.サルトルの参加(アンガージュマン)の問題は今日もやっぱり生き続けている。――小説は無力だろうか。

戦争については単純でいい。言葉というものは代用品で、「戦争」という言葉もやはり代用品だ。

通常、この国の我々が知ることのできる戦争は、過去から選られ固定されたものか、あるいは映像で視る、夜空に飛び交う閃光であり、死体のない崩壊した都市だ。一見それは、簡素に切り取られた情報だが、それは「単純さ」ではなく、寧ろ幾重にも意図が凝らされた「複雑さ」だ。

そんな「複雑」なもの(あるいは複雑になってしまったもの)を「単純化」することは、小説の根源的な役割じゃないだろうか。仮に小説がどれほど難解な文章で書かれ、また晦渋な物語であったとしても、それが小説という形式で書かれている以上、やはりそれは「単純化」されたものだと私は思う。埴谷高雄やW.フォークナーが書くものも、難解さに導かれた「単純な」物語だ。今回、改めてサルトル周辺の本を読み返していた。その中で読んだS.ボーヴォワールの言葉をひとつ引いておこう。「文学はわれわれのもつ最も不透明な部分に関して、われわれを互いに透明にしなければならないのです」(文学は何ができるか サルトル他/平井啓之訳 河出書房)

本質的な意味において小説は書物でもなく、また言葉でもない。もしかするとそれは実態のない波のような〝作用〟であるのかもしれない。それは言語を媒介として読み手の中に流れ込み、想像の中に立ち現れる。そして想像を起動させるのは「単純化」された物語だ。

戦争については単純でいい。寧ろそれは単純でなければならない。

戦争は、単純に人と人の殺し合いだ。「戦場」という場所はなく、「兵士」という人間もいない。幸せに暮らせたはず家族と「大丈夫だよ」と抱き合って別れた父が、夫が、あるいは母や妻が、それぞれ武器を取って殺し合う。幼い娘がいる父親を殺す。恋人がいる若者を殺す。病んだ母親をもつ息子を殺す。幸福と健康を祈られるべき子どもたちが、親から無理矢理に引き離され、殺され、傷つけられ、火傷を負い、腕を失い、脚を失う。心にも体にも癒えることのない傷を負う。

どんなイデオロギーがこれらを正当化できるのだろうか。どんな論理が我々を納得させてくれるのだろう。どんな教義が我々に答えをくれるのだろう。少なくとも私は、そんな答えは聞きたくないし、政治哲学の議論も、人類史の話も文明進歩、文化融合などの話も聞きたくない。私は誰も殺したくないし、殺されたくもない。単純に、人が行うこんな救いのない愚かな惨劇を受け容れたくない。

それでもやがてアカデミズムが、長衣を引き摺り後からのっそりやって来る。そしてまた「複雑な」物語をつくる。いくつもの「単純さ」を省きながら。それはうまくバランスがとれた、我々を寝かしつけるような物語だ。

残念ながら、生きるということは、少なからずその「複雑さ」に侵されることなのだと思う。誰もがどこかで無自覚に取引し、呼吸するようにその「複雑さ」を受容しているし、既に我々は享けている。その意味において誰もが免罪ではない。そのことに無自覚な人、その後ろめたさや躊躇いを持たず、真っ白な旗を振れる人は、私は危ないと思う。たぶん次はその人が躊躇いなく人を撃つ。

「複雑さ」に呼吸しながらも、「単純でいいこと」の単純さを忘れてはならないし、問い続けねばならないと思う。小説は無力だろうか。それはやっぱりわからない。

書く動機というのは人それぞれだろうけれど、私は自分の中には「なぜ?」という怒りに近い問いがずっとあって、それが書くことに繋がっている。それは不条理と呼ばれるものかも知れないし、--いや、それもまた代用品だから、本当はもっと平易で単純なものかも知れない。現実世界に小説は無力かも知れないが、やっぱり私はいち物書きだから「複雑さ」の中で本日も「単純な」物語を書くことにする。

 

もうひとつ。

核攻撃を示唆するロシアのウクライナ侵攻が世界において非常な脅威であるのは間違いないが、忘れてはならないのは、「戦争」あるいは「紛争」と呼ばれる殺し合いは、今も世界の五〇以上の地域で継続しているということだ。「9.11で世界は変わった」などと言った識者に、2001年当時、私はとても強い違和感を覚えた。「何も変わらない世界」からその報道を見る冷めた眼を忘れてはならない。

先進諸国が持つ「世界はココだ!」という意識はものすごく危うい。コロンブスの時代から変わっていない。その危うさは今回の「ここはイラク、アフガンでもなく、文明的なヨーロッパの街なのです!」などというCBSの報道発言に現れている。もちろん記者の言葉足らずだった面もあるのだろう。しかし現実に世界がそのような反応を示しているのは、残念ながら事実だと思う。これは非常に嫌な言い方だが、世界の残酷な実相であるので敢えて言う。〝真っ白なクロスのシミはよく目立つ〟のだ。2015年11月のフランスパリ同時多発テロにメディアは一斉に大騒ぎを起こし、「おおパリよ」と(余程パリに思い入れがあるのだろう)某女性タレントは嘆いたが、その言葉は、まさに「実相」を現す印象深い言葉だった。同じ月、ソマリア、パキスタン、トルコ、マリ、ナイジェリア……など、わかってるだけでも各地で16件のテロが起こっていたが、それらについては報道ではほとんど触れられない。誰かの痛みという「単純さ」において、それらは同じだということを我々は忘れてはならないし、小説が書くべきは、その等分の痛みであると思う。

松永・K・三蔵