ちょっと、タイトルイラストは少女漫画みたいになったが、勘弁してくれ。
私は「描く」方じゃないから。それに、女の人は難しいんだ。
それでも、本の表紙の写真を参考にしながら描いたイラストのルーが、写真よりもワルそうで悪戯っぽく嗤っているのは、それはそのまま「私の」ルーだからだ。
先々月、『掃除婦の–−』の文庫本も出て、そして今回新しい本『すべての月、すべての年』が出た。乗るしかない、このビッグウェーブに。というわけじゃないが、私もルシア・ベルリンに衝撃を受けたので、改めてご紹介。
「群像 2021年6月号」で私も名前だけルシアと”共演〟(フェスならば楽屋ですれ違ったようなものだろうか)して、その‶アクト〟を聴いて、うーっと唸ならされて単行本も買った。それから読んでまたうぅーっと唸り、文庫本も買った。文庫本は付箋と傍線だらけ。装丁の美しい単行本は大切に置いておこう。内表紙のブルーグレーが美しい。
私は今、また改めて読みながら単行本に貼った大量の付箋を移植して、文庫本に傍線を引きまくっている。これはひとつの古典になると私は思う。少なくとも私の中ではすでに重要な意味を持つ古典なのだ。
ルシア・B・ベルリン。読者としてもこの作家の作品群に魅了されたが、書く側目線で見ても、とにかくこの人は、めちゃくちゃ巧い。日常に材を採りながら私小説風に書いているから、一見そこまで技巧的には感じないけれど、文章のリズムとテンポ、要所要所で指し込まれデティールの濃度、の後に展開される筆運びの軽妙さ、ユーモアとウィット。その濃淡の絶妙なバランスと間合いが読んでいて心地良く、からだの中に響いてくる。と、もちろんこれは訳者の岸本佐知子さんのお仕事に拠るところ大なのだろうけれど。
『いいと悪い』『さあ土曜日だ』『ソー・ロング』、、、。タイトル作以外も最高だ。また、作中人物もたまらない魅力がある。ドーソン先生、ママ、ベラ・リン、マックス、ジョン叔父、そしてCD。思い出しても私は泣く。
どれを読んでもこの作家だとわかるってのは、――これはとても重要なことだけれど、ルシア・ベルリンほどその匂いが強い人もなかなか稀じゃないだろうか。
掴まえようとしても、するりと抜けて、ルーは既に二歩、三歩、道の先からこっちを見て嗤っている。どこか乾いた余韻を残したまま。
メキシコ。Hola、ナチョスにライム、エル・フィニート、リカルド・ロペスそんなことを勝手に連想し、うっかりしていると、鋭い一撃。パンッと抜けるようなラスト一文、キレのいい‶左ストレート〟をアゴに貰って腰を落とされる心地良さ。これはもうバランス感覚というか、センス、呼吸なのだろうけれど、ちょっと私にはそれが――全く生意気だけれど、悔しいと思うほど、良かった。困るほど良かった。
特に、タイトル作『掃除婦のための手引書』、鳥肌がたつほどのラストの一文。やっぱりこれの原文が知りたい。英語ではなんて書いてあるのだろう。そんなことも気になって、ドイツ語再履修だった私も英語ならばギリギリなんとか…‥。そう思って、今、私の机には原書もある。
困るくらい良いというのは、どういうことかと言うと、それは稀に起るのだが、ヘコむくらいに良いものだ。
偉大な文学作品、それは遠く、遥か見上げるような高峰のようなもので、その威容は風景の如く、心安らかに素直な感嘆を持って眺めていられる。谷崎大壁、三島峰、中上峠に、ドスト渓谷、ジイド高原、魔の山"マン〟――。けれど、たまーに、テーマにしても手法にしても、嗚呼、俺もこういう小説が書きたいなー、なんて溜息がでるほど強く思わされるものがある。自分が進もうとしている文学の野辺に、不意に先人の跡を発見した時は、悦びよりも寧ろ激しい動揺を感じる。お前ごときが何をと哂われるかもしれないが、当のルシアだって、埋もれていたというじゃないか。あるよねそういうの。うん、あるある。
ルシアの小説を読んでいると、少し私はワルくなる。私は真面目で、慎ましく、(たまにそれを全否定する友人もいるが)少なくとも多くの知人にはそう認識されているはずだ。が、そんな私も、いや俺も、実はやっぱり悪党で、ロクデナシのクソ野郎なのだが、でも俺はそれでもいいんじゃないかなって、ルシアの小説を読むと何故かそう思える。
作品の語り手(主人公)は、おそらくそのほとんどがルシア自身なのだろうけど、彼女は悪態をつき、アル中で、(これは別にOKだけど)何度も結婚離婚を繰り返し、ひとの家のモノをくすね……そんなルシアはなかなか"ビッチ"だけれども、どこまでも最高にチャーミングで魅力的だからだ。
ルシアの作品はどれだってルシアだ。指先に煙草を揺らしてルーは笑っている――。煙草はやめた。酒も飲まない俺は、せめてエスプレッソ並みに濃くしたコーヒーをガブ飲みし、少し酔って俺の小説を書いてやろうと思う。
松永・K・三蔵