015 ルシア・ベルリンを読んだ。

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ちょっと、タイトルイラストは少女漫画みたいになったが、勘弁してくれ。

私は「描く」方じゃないから。それに、女の人は難しいんだ。

それでも、本の表紙の写真を参考にしながら描いたイラストのルーが、写真よりもワルそうで悪戯っぽく嗤っているのは、それはそのまま「私の」ルーだからだ。

先々月、『掃除婦の–−』の文庫本も出て、そして今回新しい本『すべての月、すべての年』が出た。乗るしかない、このビッグウェーブに。というわけじゃないが、私もルシア・ベルリンに衝撃を受けたので、改めてご紹介。

「群像 2021年6月号」で私も名前だけルシアと”共演〟(フェスならば楽屋ですれ違ったようなものだろうか)して、その‶アクト〟を聴いて、うーっと唸ならされて単行本も買った。それから読んでまたうぅーっと唸り、文庫本も買った。文庫本は付箋と傍線だらけ。装丁の美しい単行本は大切に置いておこう。内表紙のブルーグレーが美しい。

私は今、また改めて読みながら単行本に貼った大量の付箋を移植して、文庫本に傍線を引きまくっている。これはひとつの古典になると私は思う。少なくとも私の中ではすでに重要な意味を持つ古典なのだ。

ルシア・B・ベルリン。読者としてもこの作家の作品群に魅了されたが、書く側目線で見ても、とにかくこの人は、めちゃくちゃ巧い。日常に材を採りながら私小説風に書いているから、一見そこまで技巧的には感じないけれど、文章のリズムとテンポ、要所要所で指し込まれデティールの濃度、の後に展開される筆運びの軽妙さ、ユーモアとウィット。その濃淡の絶妙なバランスと間合いが読んでいて心地良く、からだの中に響いてくる。と、もちろんこれは訳者の岸本佐知子さんのお仕事に拠るところ大なのだろうけれど。

『いいと悪い』『さあ土曜日だ』『ソー・ロング』、、、。タイトル作以外も最高だ。また、作中人物もたまらない魅力がある。ドーソン先生、ママ、ベラ・リン、マックス、ジョン叔父、そしてCD。思い出しても私は泣く。

どれを読んでもこの作家だとわかるってのは、――これはとても重要なことだけれど、ルシア・ベルリンほどその匂いが強い人もなかなか稀じゃないだろうか。

掴まえようとしても、するりと抜けて、ルーは既に二歩、三歩、道の先からこっちを見て嗤っている。どこか乾いた余韻を残したまま。

メキシコ。Hola、ナチョスにライム、エル・フィニート、リカルド・ロペスそんなことを勝手に連想し、うっかりしていると、鋭い一撃。パンッと抜けるようなラスト一文、キレのいい‶左ストレート〟をアゴに貰って腰を落とされる心地良さ。これはもうバランス感覚というか、センス、呼吸なのだろうけれど、ちょっと私にはそれが――全く生意気だけれど、悔しいと思うほど、良かった。困るほど良かった。

特に、タイトル作『掃除婦のための手引書』、鳥肌がたつほどのラストの一文。やっぱりこれの原文が知りたい。英語ではなんて書いてあるのだろう。そんなことも気になって、ドイツ語再履修だった私も英語ならばギリギリなんとか…‥。そう思って、今、私の机には原書もある。

困るくらい良いというのは、どういうことかと言うと、それは稀に起るのだが、ヘコむくらいに良いものだ。

偉大な文学作品、それは遠く、遥か見上げるような高峰のようなもので、その威容は風景の如く、心安らかに素直な感嘆を持って眺めていられる。谷崎大壁、三島峰、中上峠に、ドスト渓谷、ジイド高原、魔の山"マン〟――。けれど、たまーに、テーマにしても手法にしても、嗚呼、俺もこういう小説が書きたいなー、なんて溜息がでるほど強く思わされるものがある。自分が進もうとしている文学の野辺に、不意に先人の跡を発見した時は、悦びよりも寧ろ激しい動揺を感じる。お前ごときが何をと哂われるかもしれないが、当のルシアだって、埋もれていたというじゃないか。あるよねそういうの。うん、あるある。

ルシアの小説を読んでいると、少し私はワルくなる。私は真面目で、慎ましく、(たまにそれを全否定する友人もいるが)少なくとも多くの知人にはそう認識されているはずだ。が、そんな私も、いや俺も、実はやっぱり悪党で、ロクデナシのクソ野郎なのだが、でも俺はそれでもいいんじゃないかなって、ルシアの小説を読むと何故かそう思える。

作品の語り手(主人公)は、おそらくそのほとんどがルシア自身なのだろうけど、彼女は悪態をつき、アル中で、(これは別にOKだけど)何度も結婚離婚を繰り返し、ひとの家のモノをくすね……そんなルシアはなかなか"ビッチ"だけれども、どこまでも最高にチャーミングで魅力的だからだ。

ルシアの作品はどれだってルシアだ。指先に煙草を揺らしてルーは笑っている――。煙草はやめた。酒も飲まない俺は、せめてエスプレッソ並みに濃くしたコーヒーをガブ飲みし、少し酔って俺の小説を書いてやろうと思う。

松永・K・三蔵

014 単純でいいこと

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世の中というのは複雑で、世界情勢ともなると情報ソースの精査からはじめなければならない。フラッシュのように伝えられる速報に飛びついて、何も知らない素人が容易に口出すのは危ない。ところが、それでもわかることはある。それは単純でいいこと。

ロシアがウクライナに軍事侵攻している。虚実入り乱れ、あらゆる情報が飛び交っている。「自衛のため」というのがロシアの主張だけれど、核兵器で威嚇し、国内の反対派を拘束したり、言論弾圧をしたりしている時点で説得力は乏しい。しかしいつも西側の文脈の中で、物事を二元論的に解―—。

小説家、文学者が知的エリートであり得たのは、たぶん昭和初期の頃までじゃなかろうか。(もちろん今も立派な方はいますけれど)

いち物書きの私は、物書き以上のことを言うつもりはないし、言えもしない。常にニュースにアンテナを張り、新聞全紙に目を通し、NYT国際版までも読んでいる、わけでもなく、国際政治学を学んだこともなければ、外国で暮らす何人かの知己はあるけれど、どこかに独自の情報源を持っているわけでもない。

私がやっていることと言えば、毎日小説を書き(定職に就いてマジメに働いてはいるが)睡眠時間も含めて、ずっと小説のことばかり考えている。私は物書きだから。

物事というのは複雑だ。誰もが目に出来る表皮があり、裏があり、中身があって、核心もある。また実はそれが裏返っていることもある。世界情勢もまた複雑で、政治もまた複雑だ。一般人が触れることのできない高度な国際インテリジェンスがあって、記録されない真相があり、報道されない(出来ない)とんでもない真実があるのは、歴史の中で見ることができる。それ故、何でも安易に批判をすることには注意が必要だと思う。案外「バカな政治家」が、人知れず巨悪と闘ってくれちゃっているかも知れないし、――そうじゃないかも知れない。

政治はやっぱり複雑だ。こと国際問題になるとグレーで曖昧で、非常に微妙だ。単純化できない難しさもある。その単純さが暴走すると、狂信的なナショナリズムに火がついたり、今回であれば「ロシア」と名の付くものを排斥するような思考停止のような行為にまで及ぶからだ。

でも、単純でいいこともある。戦争については単純でいい。

これは単純でいい。寧ろ単純であるべきなのだ。赤ちゃんからお年寄りまで全世代、なんだったら犬猫、ペット、すべての生き物が、誰だって単純に考え、単純に感じ、単純に意見すべきなのだ。戦争については単純でいい。これを複雑にしようとするのは政治のレトリックなのだ。

小説に何ができるか。書くことで何ができるか――。

小説家を志した一〇代の頃、私はそんなことずっと考えていた。それは、「なぜ書くのか」という書くことの本質に繋がるからだ。どんな偉大な文学作品も、飢えた子どもひとり救えず、現実生活においてパン一枚にも劣る。分厚いトルストイの『戦争と平和』の上中下巻を重ねたって、やっぱり銃弾は防げないのだ。「死んでいく子どもを前にして『嘔吐』は無力だ」と語ったJ.P.サルトルの参加(アンガージュマン)の問題は今日もやっぱり生き続けている。――小説は無力だろうか。

戦争については単純でいい。言葉というものは代用品で、「戦争」という言葉もやはり代用品だ。

通常、この国の我々が知ることのできる戦争は、過去から選られ固定されたものか、あるいは映像で視る、夜空に飛び交う閃光であり、死体のない崩壊した都市だ。一見それは、簡素に切り取られた情報だが、それは「単純さ」ではなく、寧ろ幾重にも意図が凝らされた「複雑さ」だ。

そんな「複雑」なもの(あるいは複雑になってしまったもの)を「単純化」することは、小説の根源的な役割じゃないだろうか。仮に小説がどれほど難解な文章で書かれ、また晦渋な物語であったとしても、それが小説という形式で書かれている以上、やはりそれは「単純化」されたものだと私は思う。埴谷高雄やW.フォークナーが書くものも、難解さに導かれた「単純な」物語だ。今回、改めてサルトル周辺の本を読み返していた。その中で読んだS.ボーヴォワールの言葉をひとつ引いておこう。「文学はわれわれのもつ最も不透明な部分に関して、われわれを互いに透明にしなければならないのです」(文学は何ができるか サルトル他/平井啓之訳 河出書房)

本質的な意味において小説は書物でもなく、また言葉でもない。もしかするとそれは実態のない波のような〝作用〟であるのかもしれない。それは言語を媒介として読み手の中に流れ込み、想像の中に立ち現れる。そして想像を起動させるのは「単純化」された物語だ。

戦争については単純でいい。寧ろそれは単純でなければならない。

戦争は、単純に人と人の殺し合いだ。「戦場」という場所はなく、「兵士」という人間もいない。幸せに暮らせたはず家族と「大丈夫だよ」と抱き合って別れた父が、夫が、あるいは母や妻が、それぞれ武器を取って殺し合う。幼い娘がいる父親を殺す。恋人がいる若者を殺す。病んだ母親をもつ息子を殺す。幸福と健康を祈られるべき子どもたちが、親から無理矢理に引き離され、殺され、傷つけられ、火傷を負い、腕を失い、脚を失う。心にも体にも癒えることのない傷を負う。

どんなイデオロギーがこれらを正当化できるのだろうか。どんな論理が我々を納得させてくれるのだろう。どんな教義が我々に答えをくれるのだろう。少なくとも私は、そんな答えは聞きたくないし、政治哲学の議論も、人類史の話も文明進歩、文化融合などの話も聞きたくない。私は誰も殺したくないし、殺されたくもない。単純に、人が行うこんな救いのない愚かな惨劇を受け容れたくない。

それでもやがてアカデミズムが、長衣を引き摺り後からのっそりやって来る。そしてまた「複雑な」物語をつくる。いくつもの「単純さ」を省きながら。それはうまくバランスがとれた、我々を寝かしつけるような物語だ。

残念ながら、生きるということは、少なからずその「複雑さ」に侵されることなのだと思う。誰もがどこかで無自覚に取引し、呼吸するようにその「複雑さ」を受容しているし、既に我々は享けている。その意味において誰もが免罪ではない。そのことに無自覚な人、その後ろめたさや躊躇いを持たず、真っ白な旗を振れる人は、私は危ないと思う。たぶん次はその人が躊躇いなく人を撃つ。

「複雑さ」に呼吸しながらも、「単純でいいこと」の単純さを忘れてはならないし、問い続けねばならないと思う。小説は無力だろうか。それはやっぱりわからない。

書く動機というのは人それぞれだろうけれど、私は自分の中には「なぜ?」という怒りに近い問いがずっとあって、それが書くことに繋がっている。それは不条理と呼ばれるものかも知れないし、--いや、それもまた代用品だから、本当はもっと平易で単純なものかも知れない。現実世界に小説は無力かも知れないが、やっぱり私はいち物書きだから「複雑さ」の中で本日も「単純な」物語を書くことにする。

 

もうひとつ。

核攻撃を示唆するロシアのウクライナ侵攻が世界において非常な脅威であるのは間違いないが、忘れてはならないのは、「戦争」あるいは「紛争」と呼ばれる殺し合いは、今も世界の五〇以上の地域で継続しているということだ。「9.11で世界は変わった」などと言った識者に、2001年当時、私はとても強い違和感を覚えた。「何も変わらない世界」からその報道を見る冷めた眼を忘れてはならない。

先進諸国が持つ「世界はココだ!」という意識はものすごく危うい。コロンブスの時代から変わっていない。その危うさは今回の「ここはイラク、アフガンでもなく、文明的なヨーロッパの街なのです!」などというCBSの報道発言に現れている。もちろん記者の言葉足らずだった面もあるのだろう。しかし現実に世界がそのような反応を示しているのは、残念ながら事実だと思う。これは非常に嫌な言い方だが、世界の残酷な実相であるので敢えて言う。〝真っ白なクロスのシミはよく目立つ〟のだ。2015年11月のフランスパリ同時多発テロにメディアは一斉に大騒ぎを起こし、「おおパリよ」と(余程パリに思い入れがあるのだろう)某女性タレントは嘆いたが、その言葉は、まさに「実相」を現す印象深い言葉だった。同じ月、ソマリア、パキスタン、トルコ、マリ、ナイジェリア……など、わかってるだけでも各地で16件のテロが起こっていたが、それらについては報道ではほとんど触れられない。誰かの痛みという「単純さ」において、それらは同じだということを我々は忘れてはならないし、小説が書くべきは、その等分の痛みであると思う。

松永・K・三蔵

013 小説における身体性

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実はオミクロンに罹った。(日乗らしいネタだ)

自分は大丈夫。なんて根拠のない自信が私にもあったのだが、罹る時はあっけなく罹る。即座に定職はストップになり、自室に缶詰。

大きな声で言えないが、こんな執筆チャンスが他にあるだろうかと秘かにほくそ笑んだが、それも甘かった。

症状が出て、陽性判定になり、そこからがキツかった。無症状なんて人もいるらしいが、とにかく目玉の奥を貫くような頭痛がして、悪寒と倦怠感で目をあけてられない。執筆どころではなく、本も読めず、映画も観れない。ひたすら眠い。ので寝た。

くっそー書きたい。とようやく起きあがったのが四日目。

怠さが残る身体をくったりと持ち上げて、机の前に座らせるが、書いているとすぐにしんどくなって続かない。

発見。けっこう執筆って体力使うのだなと。

病苦に苛まれながらも書いた人は凄いなと思う。身体が不調だと、なんだか文章も散らかってしまう。

身体で書くってのとはちょっと違うのかも知れないが、私も身体が不調だと筆もダメ傾向。これは関係あるようだ。

考えてみると文士なんかは、芥川に代表されるような、痩せ型の病弱の文弱派が多い傾向なんだろうけれど、たまーに、壮健、闊達な肉体派がいる。そんな肉体派をあげていくと面白い。

--肉体派。え、、っと、じゃ誰が強ぇーんだろ? なんて熱がある頭が『刃牙』みたいなことを考えはじめる。

三島由紀夫は肉体を鍛え上げたが、運動神経の方は絶望的になかったそうな。そう評した石原慎太郎先生(合掌)はスポーツマンで、強そうだ。

強いということで、思いつくのは中上健次。冷蔵庫を投げ飛ばすらしい。マジかよ。電子レンジならわかるけど、冷蔵庫って投げ飛べるんだ。スゲェな。ゴリラみたいで強そうだもんね。あと坂口安吾も強いよな。運動神経抜群だったみたいだし。まぁまぁデカい。あ、田中英光を忘れちゃいけない。なんてたってオリンピアン。そりゃ強い。なんて考えていくと、どうしても無頼派の系列になる。でも、たぶん最強は今東光だと思う。チンピラみたいにめちゃくちゃ喧嘩してたみたいだし、大山倍達仕込みで、極真カラテもやるようだ。

最近の人だと花村萬月先生も、なんか強そう。あ、丸山健二先生も、ごちゃごちゃ説明するより殴り倒す方が容易いのだ、なんて小説家らしからぬことをよくエッセイで書いている。故車谷長吉先生も匕首を部屋に秘蔵していたというから相当だ。(身体と関係ないなコレは)エンタメ界にまで広げると、、今野敏先生、増田俊也先生のようなホンモノの武術家も出てくるから、この辺にしておこう。

すまん、タイトルは冗談だ。熱があると、この様におかしな思考になる。やっぱり健康は大事だねって話。好き勝手に書く日乗なので許してほしい。小説に於ける身体性については、また元気な時にでも。

皆さんもコロナに気をつけてね。

※もう恢復してます。

松永・K・三蔵

012 小説家、菊池寛の凄さ

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12/26誕生日、ちょうど最近ふいと読み直してやっぱり実感。菊池寛の凄さよ。

もちろん「文豪」に違いないのだが、文藝春秋の創業者という実業家のイメージが強くて、(英語的表現で言うと)世間からもっとも過小評価されている小説家のひとりじゃないか、と私は思う。いや、ちゃんと文豪と呼ばれて評価されているだろうと言う人があるかも知れないが、私からすると全然足りない。芥川という天才の陰に隠れがちだが、菊池寛こそが天才なのだ。

何が凄いって、とにかく作品がめちゃくちゃ面白い。代表作はもちろん、作品が悉く面白いという打率の高さ。つまり野球で言うところの選手兼監督で、名監督でありながら、打ってよし、投げてよしの名選手。純文学、歴史小説、大衆小説から戯曲まで、なんでも書いた、いや、書けた。そんな多才ぶりも逆に「過小評価」の一因なのかも知れない。

若い読者からすると、いわゆる文豪の作品というと、格調高い名文と(なんとなく)高尚な雰囲気が、(なんかよくわかんないけど)良かった‥‥。なんてことになりがちだが、そこにくると菊池寛のテーマ小説は非常に明快でわかりやすく、面白い。そして読後には、確かな「問い」をのこしてくれる。若い方にこそおすすめ。

いろいろ書いた人だが、殊に歴史小説は凄まじい魅力をもっており、ほとんどが短編なので、私は何度再読したかわからない。歴史ものの硬質な文章ながら、書きっぷりは人物が生き生きとして瑞々しい。「恩讐の彼方に」、「忠直卿行状記」などの代表作は今さら私が紹介する必要もないだろうが、未読の方は是非読んで頂きたい。

ここでいくつか紹介するが、これはあくまで私の思いつきで、この他にも代表作に劣らぬ素晴らしい作品がいくつもある。

『恩を返す話』

島原の乱に材をとった作品。戦場で、心ならずも、“いけすかない”仲間からいのちを助けられた甚兵衛。その借りを何とか返そうとする話。歴史小説だが、ここに描かれているのは、疑念、嫉み、躊躇い、他ならぬ人間の葛藤だ。哀しくもどこか愚かしい運命の中で必死に抗う人間の様は、決して古くならず、今に通じ、現代の我々も共感するところだ。抑えのきいた筆致が堪らない。

『仇討禁止令』

「私事は私事、公事は公事、この場合左様な御斟酌は、一切御無用に願いたい。」藩の命運の為、敢えて凶刃を握らねばならなかった男の運命。−−号泣。私はこれが菊池寛のベストだと思っている。めちゃくちゃ良い。いい感じのサムライ映画も撮っている山田洋次監督に土下座して頼み、映画化すべきだ(むかーし日活で映画化されたようだが)不肖、この松永も脚本に参加させてもらいたいくらいに大好きな作品だ。

因みに菊池寛の仇討作品ばかりを編んだ「仇討小説全集」なる文庫が講談社から出ている。(もう新刊はないかも)その全てが名作で、至宝とも言うべき本だ。もし見かければ手に入れられることを強くお勧めする。『仇討兄弟鑑』、『仇討三態』など、とにかく素晴らしい作品群。

最後に番外編ともいうべき抱腹絶倒の作品を。

『無名作家の日記』

今でいうところのワナビ小説なのだが、小説志望者の心理、有様は、今も大正時代も何も変わらないのだ。これは自伝的な作品らしいけれど、見事にカリカチュアされ、滑稽話に仕上がっていて大変面白い。が、私は素直に笑えない。あまりに身につまされるからだ。

で、すっかり菊池寛の作品を読みたくなった読者の皆様に朗報だ。今紹介した作品は全て「青空文庫」で読める。本当なら紙の本で、じっくり読んで頂きたいが、とっかかりとしてはまず「青空文庫」も良いのじゃなかろうか。さぁ、このサイトはさっさと閉じて、今すぐ「青空文庫」にアクセスだ。アプリで読むと縦書きになっておすすめ。

それではみなさん、良いお年を。

松永・K・三蔵

011 純文学新人賞おぼえ書き②

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前回010のつづき。

で、考えた創作サイクル。

1月〜3月は『新潮』。4月は構想や調査(取材)、もしくは筆休めに短編を書く。5月〜7月で『文學界』。8月〜10月は『群像』。できれば『群像』には早めに出して、11月〜12月で「太宰賞」に。そんな感じ。

基本的には150〜200枚の中短編

一年間をこの締切で縛る。「俺締切」。これでいくとホント休む暇がない。誰からも求められてないんだけれど、勝手にめちゃくちゃ忙しい。五大文芸誌の新人賞全部に送る人もいるらしいけど、私には無理だった。無理に書いて作品が薄くなっても意味がないしとか思いながら。

もちろん毎日書く。一日休むと10枚くらい遅れる。ちょっと筆が迷ってもすぐ遅れる。そのリカバリーに時間を捻出しなければならない。それでもやっぱりピンチ、締切が! 担当編集者に怒られる(妄想)。毎日の進捗枚数を手帳に書く。試行錯誤。編み出す。創作方法、創作術。自分なりのメソッド。そんなのが生まれてくる。道具、持ち物、そんなものもいつしかプロパーのツールめいてくる。

ノートパソコンと創作ノート、手書きノートをいつも持ち歩いて、スキマ時間があれば書く。アレも書きたいし、コレも書きたい。幸いネタは尽きないのだ。ポコポコポコポコ沸いてくる。

書く、推敲、推敲、投稿。すぐに次。書く、 推敲、締切やばい、推敲、投稿。次、書く。結果発表−−は気にしない。ありがたいことに、わざわざ雑誌を見なくても最終候補に残ればちゃんと向こうから電話をくれるのだから。それ以外は誤差だと思って気にせずにおく。一喜一憂して筆がブレることの方がマズい。どんな傾向の作品が、どんな人が受賞したのか? それは自分と、自分が書きたいことと関係あるか? そんなことよりも「俺締切」。次だ、次。次を書く。推敲。投稿。そんで次。“雑音”を消し、この繰り返し。

実際のところ、これが良いのかわからないが、とにかくそんなサイクルで淡々と孤独に筆を進める生活には、書くことの単純な幸福と、作品が仕上ってくる歓びがある。

とは言え後日、流石に気になって、フラフラと書店や図書館に立ち寄り、発表号の誌面を見ることもあった。

「あ、ない‥‥‥」と分って、ガーン!とショックを受けるけれど、雑誌を閉じ、書店から出て三歩歩けばもう忘れる。というのは大袈裟だけれど、それよりも今書いてる作品に集中している。一次落ち? それは半年前の話だ。それほどショック受ける必要はない。半年前。この時差がちょうどいい感じなのだ。

そしてある日、「その時」がくる。その日、私はたまたま仕事が休みで、朝は執筆、その後はボクシングジムで若者と殴り合って帰宅したところだった。「03-」東京から電話番号の着信を見て、勤務先の本社だと思って「うわ」と思ったが、「群像編集部です」と留守電が残っていた、というわけだ。

で、それからも結果まではしばらくあるが、「俺締切」から解放されるわけじゃない。今書いてる作品を書く、推敲。この繰り返し。結果、候補作の『カメオ』は「群像」の優秀作に滑り込みをしたわけなのだが、それでもやっぱりこのサイクルは変わらない。その日もその翌日も当然に書く。「俺締切」があるからだ。

『カメオ』ゲラの修正。そんなことにスケジュールを少し組み直して、別の作品の続き。これまでと変わらない。変わったことは、つまり、投稿先が担当編集者に変わったのだ。

おしまい。

というのが、私の新人賞おぼえ書き。こんなドタバタした話に需要があるかどうかわからないが、ひとつの事例として書いておく。

待て〜! なんか、こう「傾向と対策」みたいなものがあるだろう! と言われるかも知れないが、無い。賛否はあるだろうし、あくまで「私の場合は」という但し書きをつけておくが、「傾向と対策」とかは要らないんじゃないだろうか。トレンドなどは知ってしまうと意識せずとも、どうしても「寄る」のだ。筆がブレる。傾向と対策。それを調べつくして、無理な姿勢から、精巧なイミテーションを作り上げても、自分に残るのは痛みばかりで、創作の歓びはないだろう。

新人賞に関しては、高名な小説家の指南書や、ハウツー本、業界の方の情報がたくさんあるだろうから、そちらを参考にした方が絶対いいだろう。が、

群像新人文学賞の選考委員の町田康先生は、私が新人賞に思うそんなことを、とてもシンプルに、的確に書いておられる。「いろんなことを気にせず自分が面白いと感じることを書き其れが面白ければ大吉」 孤高の先生らしい言葉だ。

書く、仕上げる。そこにある自分自身の単純な創作の歓び。本来それだけで良いのかも知れないが、その先にデビューして、多くの人に、届けたい人に、届く可能性のある仕組みに関われることは最高だと思う。

デビューしても、創作することは変わるわけじゃない。変わっていないが、それでいい。いや、それだからいい。自分の中のことばと、書くという行為が互いに静かに折り合って馴染み、やがて熔着し、ひと続きになって繋がっていく。その心地よさ。書くということの単純な幸福と歓び。それに浸れている間は私は大丈夫なのだと思う。

010 純文学新人賞おぼえ書き①

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2021年6月にデビューして約半年。コロナで受賞式も無く、地方在住の私は講談社にもまだ行ってない。相変わらず出勤前にカフェに行き、書き、その日の集中力を七割がた使い果たしてのろのろと仕事場に行く。休みの日は、家族が起きてくる前にやっぱりカフェに行って、書き、のろのろと自宅に戻ってくる。このループ。

あれ? これデビュー前と変わってなくないか? ま、賞を貰ったことで、一応、妻から一定の理解は得た。これまでは妻の中では、毎朝、ボンクラ夫が朝早く家を出ていき、カフェでひとり妄想をして、書いている。休日も。フルタイムワーカーの妻からすると、頼むから、どうせなら資格の勉強でもしてくれ、と思っていただろう。小説。そんな全く生活の足しにもならないことを。延々。しかも怪しい。ちょっと恥ずかしい。(因みに妻は過去わたしの作品を一作読んだきりだ)一度ご近所さんにも訊かれたらしい。毎朝、どこか行かれてるんですか?

困った妻はそのまま「カ、カフェに」と答えたそうだ。それは答えになっておらぬだろうが、ともかくご近所さんは「カフェ!」と驚嘆の声をあげという。妻にしたら何とも気恥ずかしい思いをしたに違いない。

兎にも角にも、私が新人賞を頂いて、妻は、はじめて『群像』なるものをググり、「ふーん」となって、「で、原稿料は? 印税は?」と。   ま、それはちょっと待ってくれ。それはいろんな事情があるのだ。それでも執筆時間に関しては、これまで私が休みの日に朝、夕方と書きに出ると、ダブルだ! 許せぬと言って怒ったが、そのあたりは「投資」だと思い寛容に見てくれるようになった。

ということで、ずいぶん前置きが長くなったが今回はキャッチーなタイトル。たぶん今、私が書くべきこと(求められるもの)は、気の利いたエセーなんかよりも、このあたりのことだろうか? 文学新人賞。

今更だが、純文学の新人賞には五大文芸誌があり、それぞれ新人賞がある。あと筑摩書房の太宰治賞もある。どれも年一回。(いつの間にか『文學界』も年一回になってた)

最初に断っておかねばならないことは、出版社に問い合わせても教えてくれないことは、私に訊かれても、仮に知っていたとしても、口外出来ないってことだ。そのあたりは理解して欲しい。

いや、そもそも私はマニアじゃないからあんまり知らない。なので、新人賞について書くと言っても個人的な思い出とか投稿スタイルぐらいで、小説家志望の人にはあまり役には立たないかも知れないが、読んでくれれば、あー、あるある、なんて共感いただけるだろう。

私は三年ほど前からようやく実生活のサバイバルに小安を得て(そのことはいずれ作品で←オモロイ)、創作に集中できる環境になった。それまでももちろん創作は続けていたが、ランダムで、出来上がったらポツリポツリと文芸誌の新人賞に投稿していた。もちろん毎回じゃない。

でも、もし新人賞を取ってデビューしたならコンスタントに量産しなくちゃならんよな、ということで、ここはひとつ勝手にプロになったつもりで、新人賞の締切を原稿の締切に見立てて書く生活を試みた。一種のロールプレイング。原稿の締切は絶対なのだ。

一年のサイクル。最初は、3月末の三誌、『新潮』『すばる』『文藝』。全部は無理だから文庫で一番馴染みのある『新潮』にした。あと9月末は『文學界』、10月末は『群像』、太宰賞が12月にある。それを軸に一年を過ごす。

ほとんど前置きになってしまったが、長いから、次回。

次回はそのサイクル。   つづく!

009 積書(き)

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読書家諸氏の間では「積読」なんて言葉は、すっかり定着したが、その起源はかなり古いらしい。しかし近年の普及と定着には、アプリの「読書メーター」が一役買ったのは間違い無いだろう。いずれにしても良くできた単語で、字面と音、名詞でありながら、なんだか動名詞のようであり、「つんどくー」なんて、どこかとぼけた現代的なニュアンスもあっておもしろい。まことに滋味深い言葉だと思う。今さら解説は不要だろう。

では、「積書(き)」というのはご存知だろうか? 知らない? 私も知らない。私が創ったから。(元祖がいたらスマン)ちなみに見積書のことではない。

つまり、積読と同じで、追いつかないで積み上がったモノだが、これは読みではなく、書き。

小説の創作の作業工程は、彫刻なんかに近いんじゃないかなぁ、なんてことを私は昔から考えている。いや、エルトン•ジョンじゃないけれど、実際に彫刻を彫ったことはないので、あくまで想像だが‥‥‥。

←積読   積書→

まずは手彫り(手書き)で全体をざっくり彫り上げて、それから何度も何度も繰り返し削るようにして、フォルムを出していく。そこから慎重に細部を刻み込んでいく。プゥーッとカスを吹き払って、また削り、更にヤスリで磨き、プッと粉を払ってまた磨く。すると徐々にてらてらと光ってくる。血が通い、動き出すこともある。

ロダンは彫る前に、材料の石の中に既に作品があると言う。なるほど、それなら私もそうだ。

物語が埋まった石が頭ん中に積みあがっている。ひと抱えほどある中編から手頃な短編。身の丈に余る大長編から、手の中にすっぽりと収まる、文字通りの掌編まで。の石。

そして、そんな石は毎日増えていく。笑って増えて、泣いて増え、バカ野郎!とドヤされて増え、胸を衝かれて増え。出会って増え、サヨナラをして、また増えて。切なくなって増え、哀しくて増え、恨んで増え、キレて増え、反省して増え、虚しくなって増え、誰かを想って増え、あのコを思い出してやっぱり増える。そんな右往左往の取り乱した生活の中で、私の石は無尽蔵に増えていく。

面白いのが、この石はある時すっかり消えて無くなっていたり、いつの間にかくっついて、見上げるほどの巨岩になっていたり、逆に手頃サイズに縮んでいたり。

しかし、とにかく私は書くのが追いつかない。だからいつも積んである。

積読もバカみたいにあるけど、積書きもまたバカみたいにあるのだ。だからとにかく毎日書くしかない。あ、秋。

008 書く場所考

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どこで書くか。

頭の中の繰り広げられる創作も、やはり書くという行為とその作業空間が必要なわけだ。昔、大音量で鳴るクラブのスピーカーの前で熟睡していた友人がいたが、そんな、どこだって寝られるという人みたいに、どこだって書けるよ、なんて人もいるだろうか。

自宅の自室(書斎)、リビング、トイレ、図書館、カフェ、ファミレス、車の中、電車の中、公園……。

小説がありがたいのは、今ならPCだけども、最悪、紙とペンがあれば、どこでも執筆場所になる。

小説を書くには繊細な感性で云々、などは言うつもりはないけれど、私も書く場所にはこだわる。こだわると言うより、書く場所は生産性にかなり影響する。

ものを書く人の執筆場所として、一番多いのはやはり自宅だろうか?

ありがたいことに、私も自宅に自分の部屋があり、書斎と言って差し支えない大机と椅子、それに本棚がある。が、私は家がダメで、ついつい他のことに気を取られて怠けてしまう。だから締切りがあるとか、余程追い詰められていないと家では書かない。では、どこで書くのか。一番書けるのはカフェ。コーヒーショップ。

そもそも小説家とカフェというのは親和性の高いもので、好一対とも言える。本とコーヒー。コーヒーと煙草。煙草と小説家。煙草は随分前にやめたけれど、とにかくそれらはぴったりで、連想ゲームのように繋がっていく。

例えばサルトル行きつけのカフェ・ド・フロール。サンフランシスコのカフェ・トリエステならケルアック。そんな文学にゆかりの深い有名なカフェもたくさんある。

いつか行きたい Caffe Trieste.

しかしカフェであればどこでも良いわけじゃなく、私にはいろいろ神経質でワガママな注文がある。

カフェなのでお客さんがいるのは仕方ないが、うるさ過ぎず、タイピングするので静かすぎず、声が反響するほど広すぎず、滞在時間が長くなるので、目立たないように狭すぎず、それも個人店ではなくチェーン店が良い。チェーン店の方が放置してくれ、長居に寛容だと思う。それに個人店で行きつけになると確実に認識されて、「何してるんですか?」となる。「いや、別に……」と逃げてもいずれ拿捕される。毎日行くと、チェーン店でも店員さんに認識されるが、まだ適度に見守ってくれる。

それから更に、空間的配置の注文をすれば、背後が壁の席が望ましい。後ろに誰かいると集中できない。もっと言えば前にもいないで欲しい。それ故に、理想なのはある程度広い店の、ちょっとデッドスペースなんかを利用した座席となる。

そんな都合のよい店あるのか? と思うかもしれないが、ある。これは内緒だが、あるのだ。

それからコスパ。やはりコーヒーが高いと困る。毎日のことなので重要。そう考えると、やはりあのチェーン店になるのだが、もうこのあたりでやめておこう。

それからカフェの他に、書く場所と言えば、サイゼリアなんかが良い。短時間ならスーパーやコンビニのイートインもなかなか。電車の中はかなり追い詰められた時。公園、良いのだが、あんまり長くいると通報されかねない。山の中、これは手書き限定だけども別の意味で良い。図書館は意外とダメで、自分のタイピングがうるさいのと、あと本が気になる。車も微妙。あと私はホテルもダメだった。

ということで、書きものをしている皆さんは、どこで書きますか?

「カメオ」が読めるお店 7CAFE(ナナカフェ)幡ヶ谷

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バックナンバー取り寄せや、図書館に行かなくても「カメオ」(群像7月号掲載)が読める。しかも、スペシャリティコーヒーやスコーンなどをお供に。今回はそんなお店の紹介。

幡ヶ谷駅から歩いて30秒の好立地

7CAFE

http://7cafe.jp/

東京都渋谷区幡ヶ谷2-13-1平沼ビル1F
*京王新線幡ヶ谷駅北口から徒歩30秒
◉OPEN 11:30〜
◉平日CLOSE(日〜木) 22:30(21:30L.O.)
◉週末CLOSE(金土) 23:15(22:30L.O.)
◉定休日 火曜日

マスターは古くからの友人で、昔はよく私の果てしない文学談義に付き合ってくれた。

お店には、コアなチョイスの本が並ぶ。本好きにはたまらない。見てるだけでも絶対愉しい。

壁には太宰の「走れメロス」が貼り付けてある。これはバエる。

でもって、そんなマスターに私はデビュー前、いくつか作品を読んで貰って、いろいろアドバイスや感想をもらっていたのだ。

群像新人文学賞のことを伝えると、お祝いを頂いたので、私としては当たり前に「カメオ」も店に置いてくれるものだと思っていた。が、「チェックしてからね」と、マスター審査に合格してからと言うのだ!(厳しい!)

で、(なんとか)無事にマスター審査に合格し、この度「カメオ」が載った「群像7月号」をお店の本棚に並べてもらえることになった。

初めてPOPを作った。ラミして送る予定。

「カメオ」未読の方は是非、7CAFEでどうぞ。

早い人なら一回で読めなくもないが、「琹キープ」なんて粋なサービスもある。気になる本ばかりなので、他の本にも手を出して、琹キープで行きつけににするのもアリ。

かなり落ち着ける。読書にも最適なお店だ。

居心地最高だ。
名物 ババンヌ。 お茶はもちろん、お食事も。

あ、因みに、審査の一件でもわかるようにマスターはそんなに甘くないので、いつまでも「群像7月号」が並んでるとは限らない。急げ、急ぐのだ。

006 万感描写

posted in: 日乗 | 0

五輪に伴う4連休。ありがたいことに私の定職も4、いや3.5連休。私としては自分ノルマの40枚の遅延を、なんとかこの連休で取り戻したいところ。

にしても、暑い。五輪選手は大丈夫だろうか。

窓を開けて書く。無風。暑い。

暑い! 暑い!! 暑い!!!だが、これでいい。

これは描写チャンスだ。

例えば暑いシーンを読んでる人が、いかにその暑さを感じてくれるか。描写には五感が必要だと言う。うーん、感じろ。この暑さを味わい尽くすんだ。

アントン・チェホフは作品の中で面白いことを言っていた。実は人間には100の知覚があって、生きている内はその95を忘れているのだ、とかなんとか。そんなことを作中人物に語らせていた。なんの作品だったか。ちょっと、もう暑いから、原典はあたらない。悪いけど、探してくれ。

私もそう思う。いやもしかすると100どころじゃきかないのかも知れない。宇宙の広大さや、身体を構成する細胞の数や、アイドルグループのメンバーの人数が我々の理解を超えるように。

だから描写も、なるたけ現地を踏み、五感を超えて感じ、それをそのまま筆に乗っけて、書けないものまで描かなきゃね。なんてことを考える、夏。